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他人に一円も払わなくても手に入る幸福論

ブルシットジョブって、リベラル系の人たちの言葉だったのか。フェミニストは宦官をどう評価するのだろう、と、この記事を読んで、ふと、思った。

決裁者よりもそれを支える人(たち)が実質的な権限を持ち、組織や社会を動かすのは、古今東西、どこにでも観察される現象である。それを「搾取」として解釈することに、どこまで意味があるのだろうか。

問題は、ブルシットな仕事があるんじゃなくて、仕事をブルシットだと思う人がいる、ということなのだろう。

もちろん、本当にブルシットな仕事は世の中にうんざりするほど溢れている。問題は、本当にブルシットな仕事は、そもそも仕事をブルシットだと思う人のところにしか集まらない、ということである。

誰かの為に、何かの役を演じることが、下風に立つことであり、我慢を強いられることであり、すなわち奴隷であり、不公平である、と、リベラリストの人たちは主張する。
ブルシットジョブ、みたいな、キャッチーな言葉を流行らせて、動員をかける。
あなたは本当はもっと認められるべきだ、もっともらうべきだ、搾取されている、悪いのは上司だ、資本家だ、と、甘い言葉を囁く。

しかし、このロジックには詐術が含まれているのである。純粋な加害者とか、純粋な被害者という人は、よくよく考えれば、世の中にはいない。気がつけば被害者だった、ということから始まって、社会に適応するうちに、いつの間にか加害側に回っていた、みたいな状況は珍しくもなく、ただ、それにしても、加害と被害の分担比率は半々ぐらい、だったりする。

あの人たちは、あなたは被害者だ、あなたはもっと貰っていいんだ、あなたは立ち上がるべきだ、という言い方をする。
その言葉は、被害者意識を抱えている人には、甘美に響くものである。

もっと楽に果実を得たい、というのは生き物の本能である。それが可能であるという情報を目の前にしたとき、たとえそれが嘘でもいいから信じたいと思うのは、人間の性である。

リベラリストの話をしているつもりだったのだけれども、いつの間にか、ジャニーズの話みたいになってしまった。
いや、それどころか、SOMPOやビッグモーターの話も、統一教会の話も、"ルフィ"の話も、なんならchatGPTの話だって、物語の構造は全く変わらないのである。

「性」という果実、「金」という果実、「罪をつぐなう」という果実、「仕事が楽になる」という果実、「仕事ができる人と思われる」という果実、あるいはそれらの複合的な果実…
そういう果実の一端が、ちょこっとお金を出せば手に入る。しかし、一端はどこまでいっても、一端である。
つい、ふらっと美徳がよろめいてしまい、果実をひと噛みしてしまったら最後、業という名の物語に我が身を捧げてしまうことになる。

キャンベルの理論になぞらえて、そのプロセスを表現してみる。

①怠惰に甘言が染みる
②束の間の幸福
③気がつけば被害者/加害者
④引き返せない谷間の跳躍
⑤経済機構との手打ち
⑥インフレと拡大再生産
⑦娯楽としての断罪

たぶん、人間の欲望とか、煩悩の類型の数だけ、こうしたループが回り続けているのだろう。まさにこの世は生き地獄である。鬼滅の刃も真っ青である。

そこから抜け出す方法は、ある。簡単なことだ。欲望によって苦しみが始まることを理解すること。欲望を満たしても、そこには快楽しかなく、幸福はやってこないこと。そこに気付くこと。ただそれだけでいい。
自分の心に、ちゃんと耳を澄ませてみれば、他人に一円も払わなくても手に入る幸福論が聞こえてくる。

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