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134.(78/365) 校内研の講師という存在。

次年度の校内研の年間計画に同僚が悩んでいた。
で、一緒に話に入って、一緒に「うーんうーん」と悩んでいた。
難しいなあと思うばかりだ。
さまざまな立場の先生たちが、それぞれに良かれと思って動くのだが、最上位目的が本当の意味で共有されていなければ、このそれぞれの動きが互いの関係に摩擦を生んだり、お互いのその先の思考や行動を制限してしまったりする。
そんな中で一つ思うのが、校内研究に呼ばれる講師の先生の存在だ。
ぼくが勤務してきた学校で、講師がいないという校内研は今まで一度たりともなかった。
なんならば、「講師をだれにするか?」という議題が何よりも先に上がったりする年もあった。
そして、ぼくも過去に研究主任をした時には、当たり前のように「講師は呼ぶもの」と思って、そこに疑いすらなかった。
でも、最近になって思うのは、講師を呼ぶというのは、校内研にとって選択肢の一つでしかないということだ。
最初から講師が校内研にパッケージされているというのは、よくよく考えれば不思議なことだ。
講師を呼ぶことで校内研が進めるというのが一般的な考えであるように認識されることが多いが、そこには、じっくり考えないと危険も潜んでいるなあと思ったりする。

大事なことの一つではあると思うのだが、「講師から学ぶ」という意識がいき過ぎると、エサをもらうために口を開けて待つ雛鳥になってしまう。
知らず知らずのうちに、先生たちにとっての「学ぶ」のイメージが「一方通行の知識を与えられる」というものであるということを強化してしまう可能性がある。
子どもたちとともに実現したい学びはどんなものなのか、そのことに思いを馳せる時、教師の学びもまた同じように実現されていく必要があると思う。
「主体的で対話的で深い学び」を標榜しつつも、それをデザインする先生たちの学習観がリンクしていないというのは、研究を進めていく上で、大きな障壁になるのではないか。
「学びは誰かに与えてもらうもの」という経験自体が厄介だなと思う。
無意識に体験として、それが刷り込まれ続けることで先生たちの「観」が形成されてしまうからだ。
けれど、一方で、これまでのそういう学習観を持ってきたぼくたちにとって、校内研に講師を呼ばないという選択肢はかなりの冒険で、校内研はどうなってしまうのか、という不安を増大させてしまったりする。
今まで寄りかかっていた「講師」という存在がなくなってしまうと、途端に次のもたれかかる先を探してしまう。
「おい、次は誰がぼくたちにエサをくれるんだ!」と言って、待つことはやめない。
自分たちでエサを探したり、探し当てたエサをみんなでより美味しくしたり、そんなことには思い至らない。
じゃあ、講師なんて必要ないじゃないか!というのは、でも暴論だ。
必要か、必要じゃないかの二項対立に安易にハマってしまうのはさらなる分断を助長するだけだ。
じゃあ、どうすればいいのか。
「講師がいることの意味」をもう一度、自分たちでしっかり対話するのがいいんじゃないかと思う。
講師に学ぶのではなく、学ぶのはあくまで目の前の子どもたちの姿からである。
そこが出発点であることは何度も何度も確認してもいいと思う。
そして、学びは「与えられる」ものでなくて、自分たちで「つくる」ものであること。
その上で、自分たちだけでは行き詰まってしまうことが必ずある。
そこで、講師の登場だ。
自分たちが真剣に考え、悩み続けてきたからこそ、講師の助言や提案に、新たな視点のヒントを得られたりする。
最初から講師が正解を持っているとぼくたちが思い込んで、そこに寄せていくような研究をしていては、一体誰を見て、何のために研究をやっているのか、本末転倒になる。
講師の存在を権威主義的に捉えてしまうと、全ての順序がひっくり返ってしまう。
そうでなくて、直接の利害関係者だと衝突してしまうような場面で第三者的に入ってもらうことで、メタ認知が促され、冷静に目的を見失わずに取り組んでいけるのではないかと思う。
そういう立ち位置で、いい意味で講師を「利用する」こと。
みんながそんな意識を持てたならば、少しは変わっていけるかな。
でも、これはあくまでぼくの考えの域を出ない。
これが絶対の正解ではないし、その辺りを他の先生たちと一緒に考え、学んでいけたらなあと思う。
何よりも、ぼくたちの手に「学ぶことの楽しさ」を取り戻さないとなあと思う。

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