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55.目の当たりにした「育つ」

前回の投稿から4か月が過ぎた。
夏休みも終わりが近づき、新学期のスタートがすぐそこまで迫ってきている。
この夏休みにやりたいことの1つに「noteを書く」を挙げていた。
というわけで、1学期を経て、夏休みを経て、書きたいこともたまってきているので、ぼちぼち、ゆるゆると書き始めていこうかなと思う。
先日、仲間に「書く!」と宣言したので、まずはその一歩目。

8月に入って、ある卒業生から連絡が来た。

「先生、夏休み飲みに行きませんか?」

そんなお誘いだった。
彼とは、今年の春先に偶然再会をして、その時連絡先を交換したのだった。
6年担任として、卒業を見届けてからもう10年近い。
今回のお誘いを嬉しく思うと同時に、それだけではない複雑な気持ちもあった。

その年の6年生を担任した1年は、これまでの教員人生の中で一番苦しい一年だった。
当時まだまだ若く、未熟だったぼくは、子どもたちをコントロールしようという意識が強かった。
そして、うまくコントロールできるはずだと、潜在的に思っていた。
それが、日々の小さなボタンの掛け違いで溝が深まり、忘れもしない6月のある日、その溝が顕在化して決定的なものになった。
気づいたときには、もうどうすればいいのか分からないところまで来ていたし、そんな状況を立て直す手立ても持ち合わせていなかった。

そのまま、とにかく一日一日を何とか終え、目の前の一日しか見えない日々を続けて、心も体もぎりぎりの状態で卒業式を迎えた。
卒業式が終わって、真っ先に心に浮かんだのは「ホッとした」「解放された」だった。
それだけだった。
それだけしか思えない自分をずいぶん責めたりもした。

今回誘ってくれた卒業生は、そんな一年の中にあって、荒れに荒れたクラスの中心にいた一人だった。
関係も良くないまま、卒業したと思っている。
だから、卒業してから今まで、「再会」を怖れていた。
どんな形で会うことも。
会っても、何を話せばいいのか、どんな顔で会えばいいのか、全く分からなかった。

そんなぼくに、春先に偶然再会した彼は言った。

「先生に会って、ずっと謝りたかった。迷惑かけまくったから。」

そんなこともあっての今回のお誘い。
まだまだ複雑な気持ちは消えていなかったけれど、気付くと、「いいよ。」と返事をしていた。
その後、彼がぼくとサシ飲みをするつもりだと知って、驚いた。
てっきり、彼の代の数人と同窓会をするのかと思っていたからだ。
緊張が増したというのが、正直な気持ち。

そうして、サシ飲み当日を迎えた。
待ち合わせ場所で出会った彼は、春先に出会った時から少し髪色を変えて、目が合うと、恥ずかしそうに笑った。

予約していた店に入って、最初のドリンクが来るまでの間、向かい合った彼は、「うわー、ドリンクこんと、ちゃんと喋られへんわー。」と笑いながら言った。
ぼくも似たようなものだった。
少しして、ドリンクが届き、乾杯をして、二人の時間が始まった。

色んな話を、本当にいろんな話をした。
現在のこと、これからのこと、そして、あの時のこと。
目の前にいたのは、あの時の彼だけれど、その面影は残しつつも、あの時からずいぶん成長した彼だった。

「俺、先生のこと、むっちゃ好きやってんけど、気付いてた?」

ごめん、気付いてなかった。
そんなことも感じ取れないぐらい見えてなかったし、疲弊してた。

「お父さんが『こんだけお前のこと、気にかけてくれる先生おらんぞ。』ってずっと言ってくれてて、俺もそれは思っててん。」

そうやったんや。
ありがたいことやなあ。
でも、それと同時に、「そういう言葉を今言ってもらったからといって、担任としての過去の自分が許されると思ってんのか。」と自分を責める声も自分から出ていることに気づく。

でも、それよりも何よりも印象に残ったのが、彼のふるまいのさまざま。

ぼくがうっかり箸を落としてしまった時、「すいません」とすかさず手を挙げ、店員さんに「替えのお箸1つもらえますか?」と言ってくれたり、

トイレに立つとき、残していくぼくに気を遣って「すいません、すぐ戻りますね!」と笑顔で言い、席を立ったり、

「今付き合っている彼女が年下やから、自分がしっかりしないとなあって思ってるんです。」と話したり、

「いいよいいよ、好きなだけ勝手に食べや。」と言ったら、取り分けのお皿を頼んで、ご飯を取り分けて渡してくれたり。

友だちのことも、彼女のことも、家族のことも、自分の周りにいる人のことを、彼はずっと楽しそうに・うれしそうに話していた。

そんな彼の姿を見て「ああ、人って、『育つ』んだなあ。」と当たり前のことを思った。
それはぼくの中で確信に近いものとなって、心の内側からじわあっと沁み出してくるような感覚だった。

そして「人を『育てる』なんてこと、できないんじゃないだろうか。」と思った。
この仕事をしている身として、その感覚はぼくにとっては「絶望」ではなくて、「希望」に思えた。
その希望とは、人は、どんな人でも本来的にその人自身に「育つ力」が備わっているんだということ。
「育つ力がある」ということを徹底的に信じるならば、ぼくらのできることは、その人自身が持つ育つ力を最大限発揮できるようにサポートすることだ。
それは、環境を整えることだったり、一緒に考えることだったり、気持ちや考えを受け止めることだったりするんだろう。
もちろん、その中に授業も含まれている。

彼との再会で、人が本来持つ「育つ力」を目の当たりにしたことが、ぼくの中で今も響いている。
そして、そんな彼の姿を通して、「学校が人の育つ場所であればいいな」という思いを強くした。
「人を育てる場所」なんていうと、ちょっとおこがましく感じてしまう。
「育てる」には、「育てる主体」と「育てる対象」みたいな分断が生まれてしまう。
でも「育つ」は、中動態に近い。
主体的でも受動的でもない、混ざり合った状態。
「大人」も「子ども」も、関わる人がそれぞれにそれぞれのペースで育つ場所、それが学校であればいいなと思った。

彼の「育つ」を目の当たりにして、もう一つ思ったことがある。

「受け取ることで起動する利他」についてだ。

この言葉は、中島岳志さんの著書「思いがけず利他」の中に出てくる一節だ。

私たちは、与えることによって利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出します。そして、利他となる種は、すでに過去に発信されています。私たちは、そのことに気づいていません。しかし、何かをきっかえに「あのときの一言」「あのときの行為」の利他性に気づくことがあります。私たちは、ここで発信されていたものを受信します。そのときこそ、利他が起動する瞬間です。発信と受信の間には、時間的な隔たりが存在します。

『思いがけず利他』/中島岳志(p129)

ぼくたちは、再会した数時間の間に、お互いに利他が起動したんだと思う。
もちろん、卒業から再会までに起動した利他も含めて。
それは、これまでの空白を埋めるような、あの時の答え合わせをするような、何ともぜいたくで幸せな時間だった。

よく「時が解決してくれる」という言葉を聞くが、厳密には、「解決」ではない。
少なくとも、ぼくが今回感じたのは解決ではない。
当時のぼくが「問題」ととらえていたものたちに別の角度からスポットライトが当たり、その意味するところが変わった、といった方が近い。

彼との再会は、これまでの教員人生で一番苦しかったあの一年に、別の意味で「忘れられない」想いを更新させてくれるものだった。

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