【観劇レポート】2018/10/17 13:00『誤解』@新国立劇場 小劇場
今年は公共劇場の在り方を考えるために、新国立劇場に通っています。
今回は『誤解』。※有名戯曲なので物語の内容に触れてます。
〈あらすじ〉
ヨーロッパの田舎の小さなホテルを営むマルタとその母親。今の生活に辟易としているマルタは太陽と海に囲まれた国での生活を夢見て、その資金を手に入れるため、母親と共犯してホテルにやってくる客を殺し、金品を奪っていた。そこに現れる絶好の的である男性客。いつも通り殺人計画を推し進めるマルタと母親だが、しかし、彼には秘密があったのだった......。
(公式サイトhttps://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/16_011666.htmlより引用。2018年10月31日閲覧)
原作はカミュ。前回新国立劇場で観たのはサルトルの『出口なし』(シス・カンパニー公演)だったので、図らずも不条理文学が続いた。不条理演劇というとベケットやイヨネスコの本当にわけのわからない設定、世界観を連想していたので、実は不条理に対してちょっと苦手意識があった。でも『出口なし』も『誤解』もそれらとは趣を異にしていて、物語の筋がわかりやすくて浅学菲才の私でも理解できました。そしてその中で、人間じゃどうにもできない世界の絶望感とか、無意味さとかをまざまざと見せつけてくる、というタイプの「不条理」なんですね。
この作品で私が印象的だと思ったのは、色彩の効果。
舞台装置には淡い青緑のペイントがまだらにされて、陰鬱な雰囲気を醸し出している。殺人を企てる母娘の衣装は黒で、そうとは知らずに母娘に近づくジャンが纏うのは白。執拗なほど愛を求めるマリアの赤い衣装。さらにマルタの衣装が黒から白へ。後で思い返すとメタファーだったんだな、と。
特に、マルタVSマリアの激しい応酬の場面では、白と赤のコントラストで二人が相容れないのが視覚的にもはっきりわかる。
過剰なほどかたくなに愛に生きられるマリアと閉塞された土地で愛と自由に飢えているマルタ。
二人とも愛を求めている。本質的には同じなのに、与えられた条件の違いで平行線を辿る。この厳しい現実の不条理は普遍的なもの。だから今私たちが観ても、切実に感じるものがある。
https://www.nntt.jac.go.jp/enjoy/record/detail/37_012992.html
↑公式の舞台写真は上のリンクから見られます。
全体的に、空間的なにこだわりが見られました。シンプルな舞台を効果的に照らす明かりにハッとさせられたり、舞台の前後を分かつ大きな布を取り払うことでマルタが夢想する自由な太陽煌めく場所を観客にも想像させたり。
また、自分たちが殺した息子の後を追ってしまう母親に、親子愛と性愛の近さを感じました。これはテキストというより演出の妙かな。
そして兄には向けられる性愛にも近い愛が、自分には向けられないマルタのフラストレーション。
小島聖さんの美しさも相まって、愛憎渦巻く親子の関係と自由への欲求が、狂気的かつ切なく描かれていたように思います。
しかしですね、私が観た回はかなりミスが多い回でした(具体的なことは書きませんが)。それ故、他の回はどんな出来だったのか とても気になる。最初はこれが残念だったんだけど、複数回同じ演目を観なければ分からないこともあるのでは、と新しい研究の方向を見つけて、個人的に実りある観劇体験になりました。
↑カミュの全集。『誤解』も収録されてます。