バックパッカー旅 ジョージア編 vol.2
旅で海水浴をする予定は全くなかったので、乾きやすそうなショートパンツを履いて宿を出た。外は30度近くの真夏日だったので、海日和だ。
彼女は「ローズ」という名前のアルメニア人だった。地理的に端の方といえど顔立ちはヨーロッパのそれで、鼻筋がくっきりと前に出ており、彫りが深い。本名の「Vard」はアルメニア語だと薔薇を意味するらしく、そのため「ローズ」と名乗っている。
名前が何かというよりは名前が持つ意味を重要視するのは、僕にはない考え方だ。
彼女の年齢は30後半なので、僕と比べるとひとまわり異なるが、かなり若々しく見えた。30歳と言われてもすんなりと受け入れられるだろう。
ビーチに着く頃には、僕はかなり汗ばんでいた。夏のバトゥミは湿度も高いため、日本の夏と近い気候だ。2人が寝転んだりできそうなスペースを見つけたので、そこに一通りに荷物を置いた。その後ローズはすぐに海へ向かったので、それについていく形で僕も海へ向かう。荷物から海へはほんの5メートルほどの距離だ。
砂浜とは違い、バトゥミのビーチは直径3〜5センチほどの砂利で埋め尽くされている。裸足で歩くには痛く、バラエティ番組で見るような足ツボマットを踏まされているような感覚になった。
足を震わせながら少しづつ進む僕をみて、ローズは笑っていた。彼女は慣れているのか、痛覚が鈍いのか、すたすたと海に入っていった。
ようやく波打ち際に辿り着いたので海へ片足ずつ突っ込む。夏の気温とはいえど、海水の温度は冷たい。ローズはすでに泳いでいたので、負けじと僕も泳いだ。身体が海に順応すべく、徐々に体温が下がっていくのを感じる。
少し泳いだところで、ローズが再び浜へ戻った。持参していたタオルを敷いて、その上で仰向けになって寝転び始めた。僕はてっきり海で泳ぐためにビーチへ向かったのだと思ったのだが、どうやら肌を焼くためだったようだ。
改めてローズの肌を見ると小麦色をしているが、それは後天的にそうなったような色合いだった。
どうして肌を焼いているのかを聞いてみると「ブラジャーとかで日焼けの跡がつくのが嫌だからよ」と言っていた。あまり質問の答えにはなっていない気がするが、これ以上詮索しないことにした。
せっかくなので同じように僕も身体を焼いてみることにした。仰向けになって目を瞑る。ただひたすら、ジリジリと肌が痛むだけだった。
お昼時になったので、ローズがレストランに連れて行ってくれることになった。ジョージア料理を提供してくれるお店で、僕らは一緒にヒンカリという料理を食べた。大きな小籠包のようなもので、一口で食べるには大きい。肉汁が漏れないように、食べ方にコツがいるのだが、ローズが教えてくれた。言われた通りに少しヒンカリをかじり、肉汁を啜る。そのあとは皮と中の肉を一緒に食べる。ものによっては綺麗に食べることができずに、肉汁を皿にこぼしてしまうこともあったが、いくつかは綺麗に食べることができた。
ヒンカリを食べながら、ローズは自身について話してくれた。妹はすでに結婚していて子供を産んでいるが、ローズは独り身を貫いていること。それをよく思わない両親が結婚してほしいと発破をかけているが、意に介していないこと。セラピストとして働いているが、バトゥミでホステルを経営しようと考えていること。などだった。
随分と楽しそうに話していて、若々しく見えるのは彼女に在る好奇心がそうさせているのかもしれない。
ヒンカリを食べたあとはカフェでビールを飲むことにした。チーズをつまみに飲んでいると、5歳くらいの少女が手を差し伸べてきた。どうやらチーズが欲しいらしい。ローズが少し言葉を交わした後に、チーズを少女に渡した。
どの町でも、ある程度栄えると物乞いを行う人が出没する。生まれが少し違うだけで、僕も彼らのようになっていたかもしれない。どこか他人事には思えないのだが、かといってどうすることもできない。明日は我が身と思いながら、ビールの味を噛み締める。
ローズには5年ほど恋人がいないという話をしてくれた。僕から見れば彼女は随分と若く見えるし、男に困ることはなさそうだった。そのことを伝えると彼女は「多くの男性ってセックスがしたいだけでしょ?」とニヤけながら語っていた。彼女ほどの年齢を重ねてもなお、このような思想が浮かんでくるのは地域の文化がそうさせているのか、彼女の美貌がそうさせているのか、運悪くそのような男性としか対峙しなかったのかわからなかった。
ローズにとっては的を得ている考えではあると思ったので「そうかもしれないね」と答えておいた。
宿に戻り少し休憩をしたのちに、僕らはふたたび外に出かけた。夕暮れ時ではあったが、お腹が空いているわけではなかったので、なんてことのない話を聞きながら海辺を歩いていた。静かな場所がなかなか見つからず、数十分ほど歩いたのちに、人の少ない波打ち際を見つけたのでそこに座った。
小石を手に取り、海に投げる。僕はひとつずつ手に取って投げていたが、彼女は5個ほど手に取って横方向に散乱するように投げていた。
「私は少しがっかりしているわ」と急につぶやいた。どうしてかと聞くと「あなたはあなた自身のことを何も話してくれないじゃないの」と言っていた。思い返せば彼女と会ってから僕は自分の話をほとんどしていない。同様に、彼女が僕について何かを聞いていたわけでもないことに気がついた。
「僕はてっきり君が君自身の話をするのが好きなのかと思っていたよ。だって僕について何も聞いてこないじゃないか」と言うと「私は自分から深入りするようなことはしないし、過去のあなたに興味はないの。だから旅に出た理由とか過去の恋愛などについて全く聞いていないのよ。私が知りたいのは今のあなただけ。今何を感じ、何を考えているのかが知りたいだけなのよ。」
人が過去に行い、感じたものこそが人の内面の輪郭を象るものだと思っていた。ローズにとってはそれはゼロの情報に等しいようだ。現在以降に向けられた思考と行動を持って人となりを判断するというポリシーは僕にはなかったものだけれど、その考えそのものが、取り返しのつかない過去をいくらかマシなものに変えてくれるような気がした。