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死にたかった。私が、今日も生きてる。
死にたかった。
高校時代、死にたくて死にたくて仕方がなかった。そんなことを思うことは「いけないこと」だと思っていたし、"正しい"生き方では無いと思ってたから、必死にそう思わないようにしていたが、確かにあれは、「死にたい」という気持ちだった。毎日どうやって死のうか考えていた。方法はもちろん、どうやって死んでやったら、私のことを否定したあいつらは後悔するだろう、みたいな。
別に、虐められていた訳では無い、と思う。あれは"いじめ"ではなかったと思う。ただ、ウマが合わなくて、理解してもらえなくて、ちょっとネタにされていたレベルだったと思う。今思えば。
それでも私は確かに、虐げられていると感じていた。彼らの社会から追放されて、毎日異端審問にかけられて「こいつは異分子だ」と言われているような気がしていた。
それが怖くて、目立たないように、見つからないように、日々日陰に逃げるように、身体を小さくして過ごしていた。だけど日陰にいる私をわざわざ日向に引っ張り出して、指を指して笑われていた。
私はあの社会でミミズだった。
岩の下、じっとりした土の中に逃げ込んでも、引っ張りだされて、眩しくて熱くて痛くて、それでもがいてる姿がおかしくて、指を指されて笑われた。
それが面白くて、また逃げても、何度でも引っ張り出された。
別に、誰が悪いわけでもない。
いじめの主犯みたいなのがいたわけでもない。
いじめといういじめをされていたわけでもない。
まぁだから、それで言うと、私が悪かったんだと思うけど、そう思うと心の中の仄暗い部分が大きくなってしまうから、私は「アイツらが悪い」と指を指して、憎く思うことで心を保っていた。
私の一生の中で一番のどん底が高校時代だった。
あの頃の私は、どうかしていた。
唯一、私が不幸だった期間だ。
でも悪いことばかりじゃない。
部活の仲間に出会えた。
高校では部活だけが居場所だった。その頃の友達や同期、先輩後輩とは未だに定期的に会っている。
ここまで書いた下書きが、もう三年くらいずっと残っていた。あの頃何を書きたかったか、今となっては思い出せないけれど、なんだかやっと書ける気持ちになったので、今、24歳の私が、続きを書こうと思う。
・・・
私は幸せ者だ、と思った。
どんなに人生のどん底に沈んでいようが、どんなに自分が欠陥品であろうが、人に恵まれていた。
私の周りに集う人は、皆底なしに"イイヤツ"だった。
高校時代の三年間で、大きく膨れ上がってしまった劣等感は、私を極度の依存体質へと育て上げた。「体質」と言ってしまうのはおかしな話だ。だって、依存というのは不可抗力的に起こることではなく、自らの思考が導くものだから。
でも私は、幼い頃から依存の気があったと思う。
一度囚われたらしばらくはそればかり。
最近分かったことだが、私は自閉症スペクトラム、いわゆるASDの気質があるようだ。
その特性のひとつに「極度のこだわりを持つ」というものがある。ひとつハマってしまえばそれにこだわり執着してしまう。
そんな生まれつきの私の特性と、やつれきった自己肯定感が私に過大な依存心をもたらしたのだろう。
なぜ急にこんな話をしたかというと、私は長らく異性関係に困ったことがなかったからだ。
途切れても、またすぐに次の人を好きになり、気付いたら付き合って、不健康な関係性になって別れていく……。そんなことを十年ほど続けていたと思う。
長年連れ添った鬱をいよいよ拗らせ、とんでもなく人間関係が荒れてしまったことがあった。
とんでもなく大好きで大好きで仕方がなかった人と、最悪な終わり方をし、
そのせいで、周りの人間関係にもめちゃくちゃに迷惑をかけた。
その時いよいよ私は気が付いたのです。
変わらねばならないと。
私はどこか自分に自信がなかった。
私は愛されないと思っていた。
私が誰かを好きになると、その相手が意地悪の対象になった。
嫌がらせ的に、「お前ゆうきゃんとキスさせるぞ」と言ったクラスメイトの音声がクラスLINEに流されることがあった。
いじめの材料として、私との恋愛を持ち出されたりした。
だからどこか私は他人から愛されることが信じられなくて、本当の意味では認められなくて、不安で不安で、石橋を叩いて渡るはずが、叩きに叩いて叩き壊してしまい、渡ることが出来なくなってしまって「ほらやっぱり今回もダメだ」というのを繰り返していた。
ずっと、孤独で仕方がなかった。
自分の慰め方を知らなかった。
だから、パートナーに慰めてもらうことでしかまともな精神に戻れなかったし、それすらも疑って疑って上手く受け取れずに失望されるようなことを繰り返してきた。
そんな自分を変えたかった。
変えようと思った。
だから私は最後の恋人と別れてから少なくとも一年間、恋人を作らないことを決めた。
自分で自分を励まし、自分の足で歩んでいける、かっこいい大人の女性になりたかったんだ。
初めは苦しくて苦しくて仕方がなかった。
不安になった時、孤独になった時、どうしたら良いか分からなかった。
初めのうちはBAR通いが止まらなかった。それもバーテンダーさんを独占しようとする重たすぎる私の想いの前には、上手くはいかなかった。
次は家族に甘えるようになった。それも中々上手くはいかなかった。私はただ慰めて欲しいだけなのに、それは私の家族ではできなかった。
ちょうどその頃、兄が結婚し、父も再婚し、母も次の人生のステップのためにコミットしている時期で、私が無条件でただただ甘やかされていた、"あの"家族はもう居なかった。
半年頃までは、碌でもない男にまんまと引っかかったりもした。
怖い思いもした。
そして家族もダメなら次は、友人を頼ろう、と思った。
今まで恋人ばかりで友人と会うことを蔑ろにしていたので、恋人を作らないと決めた今、友達とたくさん会おうと思った。
ひと月に一度以上の頻度で様々な友人と合っていた時期もあった。
泣き言を聞いてくれる友達もいたし、何も聞かずにただ共に酒を飲んでくれた友達もいた。
遊びに行ってくれる友達もいたし、地方から会いに帰って来てくれた友達もいた。
深夜に、電話で話を何時間も聞いてくれる友達もいた。
本当に本当に、私はその時間に救われていた。
そしてある時、気が付いたのです。
友人の輪の中にいる時の私は、一切気を使わず、余計な思考も使わず、伸び伸びと過ごせているということ、
そんな私との時間を、相手も伸び伸びと楽しんでくれていることに。
私が気を使わずとも、ただありのまま楽しんでいる私と過ごし、その時間を楽しんでくれる。
私に見返りを求めず、私がただ私であるから会いたいと思ってくれている。
そんな気持ちを、愛情と言わずになんと言いましょう。
そして私にはそんな友達が、一人や二人ではなく、十人やそこらいるのです。
なんて有難いことなのだろう。
なんて幸せ者なんだろう。
そう思うと涙が止まらなかったし、心の奥底にあったひんやりとした孤独感がスっと引いていくようだった。
そこでやっと私は「こんなにも多くの人から愛されている」と知り、その結果"大丈夫"な自分になることができた。
やっと私は"ここ"まで戻ってこれたんだと思った。
周りが高校を卒業し、進学、就職と前へ進んでいく中、私はずっと精神の不調の治療に時間を取られていたように思う。それはもちろん身体的な休息の意味でもあったけれど、半ば洗脳的になった思考をニュートラルに戻すための療養とトレーニングの時間だった。
なんとなく、ずっとマイナスにいるような感覚だった。
それがやっと、0に戻って来れたんだ。
それからはいくらか簡単に人生が進んだ。
チャレンジができるようになった。
役者としてのお仕事を頂けるようになった。
友人が増えた。
好きな人に好きと言えるようになった。
私を蔑ろにする人にNOを言えるようになった。
曲が書けるようになった。
歌が上手くなった。
お芝居が上手になった。
身体が動くようになった。
自分のことが、本当に好きになった。
7年前の私に言ってあげたい。
私は、生きてるよ。って。
世界は思ってたより私に興味がなくて、私は私のやりたいように自由に生きていいんだって知った。
あの時の私に言いたい。
生きていてくれてありがとう。
踏ん張ってくれてありがとう。
食いしばって、自分の頬を叩いて、脳天を殴って、正気に戻ってくれてありがとう。
おかげで私、今、とっても幸せだよ。
あの時、死にたかった私は、今日も生きている。
今だって死にたいを思う日はある。
それでも今はもう大丈夫。だってそれが、ただの脳みその反応だってことを知ってるから。
今だって、上手くいかない日はある。
起き上がれない日だってある。
生活に余裕だってない。ギリギリで生きてる。
それでも私はもう、大丈夫。
私には、たくさんの友人と、大切な人と、仕事仲間と、家族と、
それから、私がついているから。
だから、
死にたかった私が、今日も生きてる。
世界が私を知らんぷりするから。
Fri.24th.Jan.2025
伊波 悠希