「いただきます」という祈り。
「おはよう」
「こんにちは」
「こんばんは」
「おやすみ」
日本語にはたくさんの挨拶の単語があるが、感謝の意味が込められた身近な挨拶は「いただきます」と「ごちそうさま」くらいなように感じる。
そもそもこの2つの言葉は、挨拶の中でも特殊な部類ではないだろうか。
挨拶は大抵の場合は人に対して発せられるが、「いただきます」と「ごちそうさま」はその限りではない。
その食事を作ってくれた人、配膳をしてくれた人、食事の面倒を見てくれた人への感謝の言葉であるのはもちろんだが、その場にそういった具体的な人物が居なくても私たちは食前食後の挨拶として「いただきます」や「ごちそうさま」を言う。
目の前のこれから食す命に対する言葉であるというのも1つの考えである。
しかしもっと漠然と、私たちは習慣的に、儀式的に、この言葉を使っているように感じている。
異文化圏から日本に来た人と飲食を共にする際、私が食前に「いただきます」と言うと決まって「それはどういう意味か」と尋ねられる。
そうすると私はいつも困ってしまう。
「いただきます」にも「ごちそうさま」にも、明確な言葉の意味などないからだ。
「おはよう」がGood morningと訳せるように、
「ありがとう」がThank youと訳せるように、
「いただきます」も「ごちそうさま」も明確に言い換えられる英単語が存在しないし、そのような文化もない。
そして考えた末に私はこう結論付けました。
「いただきます」と「ごちそうさま」は我々日本人の、祈りの文化であると。
今日これから書くのは、私の祈りと心の安寧についての話です。
日本語は実に奥ゆかしい言語であります。
今は単語として確立している多くの挨拶の言葉は、元々は一単語ではなく文章でした。
「おはようございます」は「今朝はお早うございますね」といった文章だったはずだし、「こんにちは」は「今日はお日柄もよく、いかがお過ごしですか?」というような文章だったはずです。
同じように「いただきます」も「お食事を(命を)頂きます」のような文章であっただろうし、「ごちそうさま」も「お食事をご馳走になりました」という文章であったはずです。
しかしこれ自体は、ただの自分の行動に対する宣言でしかありません。
それでもこの言葉の裏には、明確に感謝の意を読み取ることができるのではないでしょうか?
日本人の文化は言葉で全ての想いを語らず、日本語は直接的な表現を避ける言語だと私は感じます。
「いただきます」と「ごちそうさま」はまさにその文化を色濃く表していて、ほとんどの日本人は食前にいちいち「この食事をもたらしてくれてありがとうございます。皆さんが用意してくださったこのお料理、そしてこの食事のために犠牲になったお命を頂きます。」なんて言わないし、食後には「この食事をありがとうございます。皆さんが用意してくださったお料理、この食事のために犠牲になったお命をご馳走になりました。」なんていちいち言わずに、それと同様の思想をうっすらと「いただきます」と「ごちそうさま」という短い言葉に包んでまとめています。
それを毎度強く意識することもなく、漠然と、なんとなく、合言葉のように使っています。
でも実際はこの2つの言葉自体は、このような意味を含んだ言葉であることは間違いないですよね。
私が幼かった頃のある日、母が食前食後にお祈りをするようになりました。
それは何も仰々しい儀式や文言を並べるようなものではなくて、全てを言葉にする、というものでした。
食卓に全ての料理が出揃って、家族が全員席に着いたら、みんなで手を合わせて拝みながら「神様仏様、農家の方、お店の方、配送業者の方……豚さんお魚さんお野菜さんお米さん、関わっている全ての皆さま、ありがとうございます。今日も家族三人無事に食事ができることに感謝して、あなたの命を私の命にさせていただきます。」と唱える、というだけのことです。
この言葉に省略されている意味を全て唱えて、心を込めて「いただきます」という言葉に乗せて言う、というもので、とにかくひたすらに毎度毎度長かったので直に早口になって省略され、最終的には少し長めに拝みながら「いただきます」と言う、といったふうに戻っていったので、私も当時の母が言っていた文言はもう正確には覚えていません。
でも私はこの習慣をとても大事にしていたため、大人になり一人で食事することが増えた今も、食前食後には手を合わせて目を瞑り「神様仏様……」とあの長い言葉を心の中で唱えて、祈りながら「いただきます」と「ごちそうさま」を言うようにしています。
ところで今日は、久々に水の入ったバケツをひっくり返したような大雨でしたね。
私は昨日から続く酷い低気圧の影響でなんとなく心身が重たくて、予定をキャンセルして休みの日としました。
そしてなんとなく、最近近所に越してきた友人に連絡して一緒に夕飯を食べに行くことにしました。
その友人は熱心なクリスチャンです。
友人と会うといつも宗教の話と私たちの心の話ばかりしています。
私はクリスチャンではありません。
私は私の信仰心に、明確に既存のどれかの宗教を当てはめることが出来ていません。
ただ、私が信じたものを信じ、私が見たものを信じ、私が感じたものを信じるという宗教の上で生きています。
生活の仕方自体は、多くの無宗教派を自称している日本人と同じです。
ただ心の在り方がとても宗教的というだけのことです。
だから私はクリスチャンではないし、クリスチャンになることも出来ないのだろうとも思います。
でもそれは、キリスト教を信じていないということとも違います。
私とその友人は、同じものを感じ、共通する信仰観を持っています。少なくとも私はそう感じます。
でも全く同じではないし、間違ってると思うこともきっとお互いにはあって、そんな絶妙なバランスの上で噛み合っている友人です。
そんな友人が食前にサラッと、「神様感謝いたします」ともごもごした口調で言うので、私はすぐに友人がお祈りの簡略化をしていることに気付きました。
私も友人も、周りの多くの非宗教者と過ごす時に相手を待たせないためや、思想の押し付けに感じさせないため、穿った見方をされ傷付くことからの保身のためなど、色々な理由で食前後のお祈りを簡略化して折り合いを着けるということを普段からしているので、誰かと食事をする時には咄嗟に簡略化をする癖がついてしまっています。
だから、私といる時は省略しないで良いよと伝えて、一緒にお祈りしてから食事をしました。
私はいつも通り合掌をして、友人のお祈りの言葉を聞きながら拝んでいると、なんだか胸がいっぱいになって、ほろほろと涙がこぼれてきました。
私はその涙が友人にバレないように、拭って、なんでもないふうに食事をしました。
キリスト教では日曜日は安息日とされているため、クリスチャンは日曜日には仕事を休み、礼拝に行くという決まりがある。
とはいえ現代日本を生きる若者である友人にとっては、日曜日に外せない予定が入ってくることもあり、折り合いが上手くつけられずに苦悩することもあるようで。
「自分の身体を労るために休みなさいって教えなら、自分を少し犠牲にするくらいなんでもないように思えちゃうけど、神様のために過ごしなさいっていう日だから、そう簡単にはいかなくて難しそうだよね。」
と、私は友人を労るつもりで言った。
すると友人は「それに、神様と共に過ごすことが一番の休息だからね」と答えた。
深く納得してしまった。
分かっていたはずのことが、改めて実感させられた。
祈りというものは、心で唱えるのはもちろん、声に出すことでさらに神へ届きやすくなると、いつかどこかのクリスチャンが教えてくれたことがある。
私は心の中で唱えているうちに、それがただの決められたセリフになってしまっていたのかもしれない。
声に出した友人の祈りは、私のいつものお祈りとは言葉は違えど想いは同じで、その強い力が深く私の心の奥まで届いた。
そして私の神様を思う気持ちをより一層強いものにして、私の胸を幸福感で満たしたのだった。
私たちが神様を思うほど、神様は応えてくれる。
神の御加護や神の声にいつでも気付けるように、神を想い続けること。
神様を思うことで、神様と共に居ることが出来る。
神様と共に過ごすことが、一番の休息だからね。
私はきっともうずっと、心の休息を求めていたのだと思う。
4月の下旬に舞台が終わってから色々なことがあって、ずっと心は休まらず、安心して眠れず、どこか落ち着けない日々を過ごしていた。
不安感で、素直にまっすぐ家に帰れない日々を過ごしていた。
でも私に本当に必要だったのは、楽しく騒ぐ時間でもなく、自分を求めてくれる他人でもなく、忙しない仕事でもなく、おなかいっぱいの煌びやかな食事でもなく、浴びるほどのお酒でもなく、地位でも名誉でも賞賛でもお金でもなく、
ただ、心の休息だったのだ。
忙しなく過ぎていく今を生きていると、祈ることも、神様と共に在ることも忘れてしまう。
心身の休息と心の安寧。
私の生活にも、安息日が必要なのかもしれないと思った。
まずは、毎日必ずする小さな祈りの時間である「いただきます」と「ごちそうさま」を、もう一度大切にするところから始めよう。
ね、そう思うだろう。
2024.5.13
伊波 悠希