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せいさつよだつ。


『先生!わたし、絵が描きたいです!芝居じゃなくて。』


『先生!わたし、歌が歌いたいです!芝居じゃなくて。』


『先生、私、自由になりたいんです。』



先生、先生、先生。

私、生きたいんです。芝居じゃなくて。


先生聞いてください。
私は生きたいんです。ただ、ただ生きたいんです。別にお芝居がしたくて生きてるわけじゃないんです。ただ生きたいから生きてるんです。

それも、ただ生きるだけじゃなくて、生き生きと、生きたいんです。
ただ生命を繋いで、呼吸を続けて、鼓動を止めないことじゃなくて、「生きている」が欲しいんです。だから生きているんです。


色が分からなくなったことが苦しかった。

歌が歌えなくなったことが苦しかった。

絵の具の質感を忘れたことが許せなかった。

音符の温度を忘れたことが怖かった。

お芝居が、出来なくなったことが恐ろしかった。



私にとって生きることそのものだった。

絵も歌もお芝居も、生きる喜びだった。


別に、芝居なんてしなくてもよかった。


美味しいご飯を食べて、美味しい香りに心躍らせて、温かいお布団と温かい家族に包まれて、幸せに眠りにつけたら、それでよかった。

見上げた空が綺麗でも汚くても、それでほっとして心洗われる日々があればそれでよかった。

わざわざ傘を畳んで、雨に打たれて歩いた帰り道。
空からの恵みを一身に受けて、自然と踊る日が許されていればそれでよかった。

そんな自分が何処かに行っちゃった時、私は生きているのが怖くなった。



先生、先生。助けてください。

先生、先生、愛してください。


何もなくなっちゃった私でも、生きている理由をください。




私は、人生で死んだことが3回ある。


一回目は子どもの頃、自分の異端性を受け入れられなかったとき。

二回目はモラトリアムの頃、自分の異端性に抗ったとき。

三回目は大人になった頃、自分の異端性が愛する人を傷付けたとき。



私は3回、自分を殺した。


一回目は溺死。ひたすら泣いて、自分の涙で溢れた世界で溺れて死んだ。

二回目は撲殺。気が狂ってどうしようもなくて、打ち付けた頭の痛みが心地よかった。

三回目は中毒死。傷つけたショックと傷つけられたショックに耐えきれなくて、溺れた酒に殺された。



殺された?

いいや違う。

殺したんだ。私が。




殺して、押し殺して、何も聞こえなくて、何も感じなくなって、星空が、ただの写真になってしまった。
だから今、私は、生きたいと、もがいているのかも知れません。



幸せに生きてた頃は、生きたいだなんて思わなかったので。


先生、私、絵が描きたいんです。芝居じゃなくって。


先生、私、歌が歌いたいんです。芝居じゃなくって。



先生、私、踊りたいんです。芝居じゃなくって。


先生、私は、芝居がしたいんじゃないんです。


ただ生きていたいんです。


絵を描いて、絵の具の質感に溺れて、色が喜び歌う声が聞きたいんです。

歌を歌って、音符の温度に包まれて、空気が楽しげに震える表情を見たいんです。

自由になって、踊って踊って、自然と生命とひとつになって、生を分かち合いたいんです。


ただそれだけなんです。
ただそうやって、私のもつ私の見えない器官の感度が絶好調になった状態で、生きていきたいだけなんです。


先生、わたし、それだけなんですよ。



え?

じゃあなぜ芝居なんてしてるのかって?



やだな、先生。
先生ならわかるでしょ?


つまりそれが、芝居をするってことだからですよ。




思えば私が死んだ時、3回とも、私の人生に芝居がなかったから。


芝居がないと、私、死んじゃうから。




依存じゃないかって?



違いますよ。





生命活動です。


ご飯を食べなきゃ死ぬように、睡眠をとらなきゃ死ぬように、排泄しなきゃ死ぬように、呼吸をしなきゃ死ぬように、心臓止まれば死ぬように、

芝居をしてなきゃ死んじゃうから。


だからね、先生。



わたし、芝居がしたいんです。




静。


2024.3.16
伊波 悠希

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