【URコラム】大切なこと
※『URBAN RESEARCH Media』にて2020年8月6日に掲載された内容をここに残す。
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焼き物を見に岡山・備前まで行ってきた。
今年はこんな年になってしまったので、あくせくしてもしょうがないと思い、「学び」の年にしようと決めた。その一環として日本津々浦々の焼き物の里に行って本物を見てこようと思う。
まず第一段。
岡山県・備前焼の里。
先方さんにどんな反応をされるかなと思ったけど、行きたいギャラリーや作家さんに事前に電話でアポをとったら「どうぞどうぞ、お待ちしています」とウェルカム感を出してくださったので、安心して現地に向かえた。
備前市内のいろんなギャラリーもよかったし、そこからさらに先の和気町というところにポツンと工房(兼ご自宅)を構えている作家さんのところにも伺ったら、逆に“下界“から人が来たのが久々だったのか三時間くらい色んな話で盛り上がった。お隣・兵庫県の出身ということで、関西と中国の違いとか、そういった器と全然関係ない話なんかも聞けた。「兵庫では鱧といえば高級品だけど、岡山では同じ瀬戸内海だし鱧も取れるけど全然食べない。もったいないですよね(笑)」とかとか。面白かった。
事前にホームページで見ていた通りかなり独特の作風の方で、どうしてそういうものを作ろうと思ったのか〈動機〉から、どうやってそれを作っているのか〈技法〉、そして実際作ってみてどうか〈検証〉まで、全て語ってくださった。楽しくて楽しくて、なんかまた帰りの道でひとり車の中で泣いてしまった。「嗚呼、知らなかったことを知れるって、やっぱり楽しい…!」と。
僕は料理の世界に入って本当によかったと思っている。
初めて会う方からたまに「飲食業界って大変ですね…」と哀れむような目でみられることがあるけど、そりゃあどの世界を選んだって大変。それでも、その世界をどこまで愛せるかだと思う。
そしてここはいろんな人に支えられて出来ている世界。
器を作る人。野菜を作る人。サービスをする人。箱(建物)を作る人。インテリアを作る人。他にも裏で飲食店を支えている税理士さんや司法書士さんや、保健所の人とか、ゴミ回収の業者さんだって。そしてもちろんお客さん。
本来はそういった人達がチームみたいになって、変な上下関係とかなく、『おいしいものを一緒に楽しもうよ』っていうひとつのゴールに向かっていけたらとても素晴らしい。
でも今、その関係があちこちでちぐはぐになって、本来は同じゴールに向かうはずの人達が時に足をひっぱりあったりしてるようでとても悲しい。
『おいしいものを一緒に楽しむこと』で人に恨まれる必要は絶対ないと思うし、それで恨んでくるような人は本当に頭がおかしい人だと思う。
僕は昔、営業職をやっていた時に『いい企画をお客さんに』と思って提案して採用されたとしても、どこかで誰かが僕の足を引っ張ってくる気がしてならなかった。それは“大人の事情”みたいなものがほとんどで、本来はそういう人達もそういうことをしたくて生まれてきたわけじゃないと思うけど、結局僕は何が正しいのかわからなくなった時期もあった。
もちろん沢山のことを勉強させてもらったし、そこで得た経験や出会いは今でも深く刻まれている。いいものを作っても誰かに妬まれるなんておかしいと思っていた僕が、当時はまだ、ただのあまのじゃくだっただけかもしれない。
世界はいま大きな渦の中にあって、僕一人ではとてもじゃないけどその一つ一つの傷を拭うことはできないけど、こうして陶芸作家さんに出会えて新しい関係をまた一つ一つ構築できることはひとつの真実。答え。
先日、あるお客さんに「ゆうちゃん(僕)が以前、『器は友達』と言ってたことがあって、とってもいいなぁと思ったよ!」と言ってくれたことがあって、僕はそんなことを言ったことはとうに忘れていたけど、それは常日頃から思っていること。
(余談ですが、僕は自分の言うことを忘れる癖がある、特に酔っているときは。だから飲み会の後日、後輩とかに『先輩に〇〇って言われて感銘を受けました!』みたいなことを言われる時があって、「えー、僕そんないいこと言ってたの!?いいね、じゃあ実践しなよ!」とまるで他人事のように振舞ってしまう時がある(笑)。でもそれは、僕から出た言霊だし、改めて聞いても「そうそう、その通り」と思うので、決して嘘や出まかせではないことだけは書き留めておきたい。)
料理は器がないと出せない。器は相棒みたいなもんだと思っている。その相棒が何かの拍子に割れたり傷ついたりしたら、それは友人が傷ついたようなものなので、やっぱり治してあげたい。だから金継ぎ(器の修復技法)を自分なりに学んで、今ではそれなりには治せるようになった。そしてそれからは、値段関係なく高くても安くてもどんな器でもガシガシ使えるようになった。多少傷ついてもまた治せばいい。何より気に入ってる奴とは、ずっと一緒にいたい。
でもたまに、思いっきり落としてしまって粉々になってしまう時がある。そんな時はその粉をなんとか拾い上げたくて、でもそれが“かけら”ではなく文字通り“粉々”になってしまい、なんとも修復はできない。床で数秒考え、呆然としてしまう。でももうその子は、長かれ短かれその生涯を全うしたんだと、なんとか心に留めようと努力する。
どんな動物だって燃やせば灰になり粉々になるように、器も粉々になってしまう。あとは自然に戻るだけ。器の場合は動物なんかよりわかりやすく、土から生まれて土に帰るだけだけど。
新しい器を見る時、何か気に入った形のものがあれば店員さんに「同じシリーズを全部出してください」と頼む。それは服を選ぶ時もそう。(もちろん大量生産やプリントの作品にはそんなことはしない。汚れやほつれさえなければいい。)
手仕事なので似ているようで全部違う。兄弟姉妹のようなもの。
そんな時、僕はいつも「ああ、この子もいいですね」とか「ああ、この子はまた違った印象ですね」とかついつい器の一個一個を『この子』と呼んでしまう。
たまにただのバイトの人とかに接客されると、同じ型と色のものをじーっと見て何度も触る僕を見て、気持ち悪そうな反応をされるけど、やっぱりこの子達は兄弟姉妹で、かたや荒々しい子もいれば、かたや繊細で控えめな子もいる。若々しい子もいるし、“ませた”子もいる。どの子がいい悪いとかでなくそれぞれが個性を持って生まれてきて、そして相棒を待っているんだと感じる。
不思議とこうした時間を作り手さんはいつも楽しんでくれる。「ああ、“その子”はねぇたまたまそうなったんですけど・・・」なんてその子の誕生秘話を語ってくれたりする。そりゃそうか。この子の親御さんだものね。
こうして選んだ子たちが僕の空間に来てくれて、そして時間と共に馴染んでいってくれることがとても愛おしい。中には買ったはいいけど馴染まずにお蔵入りする子もいる。そういうミスマッチもたまには起こるけど、そうなったら何かの拍子にまた次の相棒が見つかればいいと思っている。欲しそうな誰かにあげてもいい。みんなそれぞれの居場所はきっとどこかにあって、それが僕の空間じゃなかっただけ。時間によっても、場所によっても変わったりする、不思議な縁。
誰かが生んだ子を、違う誰かが責任をもって譲り受ける。こうしていい関係を築いていきたい。そんなことを一つでも多く感じて、生きていきたい。