故郷の香り
僕の住む街は太陽が沈んだ後でも光を溜めている。「夜は暗くなる」ということが真実かどうかも疑わしいほどだ。
外に出ると,飲食店は油の混じったような重い空気を延々と吐き続けている。せわしない往来に身を潜めると,何者かの品の無い香水が鼻腔を刺激する。国道を走る車は澱んだ排気をまき散らしながら颯爽と去ってゆく。
僕は生まれも育ちもこの街だ。しかし,この街の空気に悦楽の情を抱いたことは一度も無い。
大学生になってからソロキャンプが趣味になった。整然とした建築に守られて育った僕は,木々に囲まれただけで容易に感動した。初めて森に足を踏み入れた時,枯れ葉や朽木から漂う強烈な森の香りに,何故か懐かしさを感じた。恐らく,僕らがまだ螺旋だった頃から備わっている古い記憶が,自然の香りによって目を覚ましたのだろう。
火を熾せば焚火の匂いが辺りに充満する。肉を焼けば肉の匂い。煙草に火をつければ煙草の匂い。火を消せば,再び森の香りが身を包む。空気が循環しているのだろう。街のように混沌とした空気が僕を不快にさせることは無かった。本来,香りとはそういうモノなのだろう。刹那的で捉えが難く,純粋。
その感覚を求めて,僕は何度も森に足を運ぶようになった。
だが,数時間かけて馴れない峠道を走り,やっとの思いで帰路に着いた僕は,再び喧騒の中へと身を置くことになる。絢爛とした街明かりは僕の興奮を瞬く間に溶かしてしまう。
次第に薄れていく興奮を名残惜しく思う一方で,不意に感じた街の香りに「無事に帰って来た」という安心感を抱いてしまう。その度に,自分がこの街の一部であるという事実に直面する。
そのような体験に一抹の後ろめたさを感じてしまうのは僕だけだろうか。
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