
『トガノイバラ』 -2.神の矢
2.神の矢
#1 閉ざされた過去
日曜日、午後三時。
伊明は隣県――S県の浮谷橋のホームに降り立った。
私鉄ローカル線の駅である。
駅舎は小さいながらも二階建てで、ホームから階段をのぼって改札を出、階段を降りて町へ出るという造りになっている。出口は東口と西口に分かれており、まっすぐ地上に伸びる線路がエリアを東西に分断している。
改札口へ続く階段をのぼりながら、伊明はスマホのメモをひらいた。
『うきやばし 西口 バスターミナル』
端的な走り書きは、『彼女』との通話を切ってすぐに大急ぎで打ちこんだものである。
御木崎 実那伊。
彼女は、そう名乗った。
琉里を診療所から連れ帰ったその日のうちに、伊明は件の女性に電話を掛けた。父を「伊生さん」と呼び、自らを親戚だと言った、あのたおやかな声の女性である。
そのときは圏外のアナウンスが流れて繋がらなかった。
時間を置いても変わらずで、翌日、学校の昼休みにまた掛けた。今度は呼出音にはなったものの応答はなく、留守番電話に切り替わってしまった。
伊明は短い沈黙のあと、緊張にこわばった声で自身の名とあとでかけ直す旨を残してひとまず切った。
折り返しがあったのは、その日の夕方である。
学校帰りに寄った自宅近くのスーパーで、主婦に混じって夕食の買いものをしていたときだった。伊明は買いものカゴを放りだして、大慌てで――なぜか自分でもわからないが――外へ出た。
『驚いたわ、あなたから連絡をもらえるなんて思ってもいなかったから』
彼女はたおやかにそう言った。
微笑みの見えるような声だった。
「あの、どうしても話したいことがあって。すみません、突然」
しどろもどろになって言うと、電話の向こうでくすと笑い声がした。
『こちらこそ、すぐに出られなくってごめんなさい。所用があったものだから』
「すみません、忙しいとこ」
スマホを片手に平身低頭。
普段の伊明を知る者が見たら目を疑うに違いない。
『いいえ、気にしないで。それよりも伊生さんは……彼は、このことを知っているの?』
「俺が電話したことですか? いや、知らないです」
『……そう』
「まずい、ですかね? やっぱり。そっち――ええと、そちらに迷惑が掛かるんなら――」
『いいえ、いいのよ』
彼女はまたしとやかに笑う。
『内緒話みたいでなんだか楽しいもの。それで、お話というのは?』
「ええと……ちょっと、なんていうか、ここんとこ色々あって。変なことが。話すと長くなるんで、できたら――」
声が喉に引きつれる。
伊明は唾を飲みくだし、声を改め、
「できたら、会って直接話したいんです、けど」
返ってきたのは、沈黙だった。伊明は焦って言葉を足す。
「迷惑じゃなければ。いや、あの、無理ならぜんぜん――」
『構わないわ』
「……え?」
『勿論よ。構わない。――歓迎するわ、伊明』
なにか――今までと形の違う――ほくそ笑むような響きが声に乗ったような気がした。伊明はすぐに反応できず、礼も言えずにぽかんとする。
彼女はたおやかに、先を続ける。
『ただ、ごめんなさい、私も気軽に出歩ける身ではないから、こちらまで来てもらうことになるんだけれど……大丈夫かしら。車を迎えにやりましょうか』
「あ、いや。大丈夫です、そこまでしてもらわなくても」
『でも――』
彼女の自宅は、最寄りの浮谷橋駅からバスで四十分、停留所からもさらに歩かなくてはならないらしく――
あちこち迂回していくバスと違って最短距離を行ける車なら半分の時間で着くのだけれど、と言われてしまっては、最初こそ「迎えなんて」と恐縮していた伊明もその申し出に甘えざるを得なかった。
日取りは都合に合わせます、と言うと、日曜日の午後四時に浮谷橋駅で、と指定された。
最後に、遅ればせながらと彼女は名乗った。
御木崎実那伊、と。
そして、私と話したことも会うことも伊生さんには話さないでほしい――とも、彼女は言った。
「出口、どっちだっけ?」
先に改札を抜けた琉里が、案内板の下で振り返る。左右にT字に伸びる通路をそれぞれ指差し、「西口? 東口?」と首を傾げた。
パーカーにTシャツ、ショート丈のサロペットにリュックを背負った妹は、どこからどう見ても中学生のお出かけだ。
「西口。バスターミナルがあるらしい。そこに迎えの車をやるって言ってた」
「うわあ、なんか緊張する」
琉里がふるふると身ぶるいする。
伊明も琉里も『親戚』というものを知らない。
血の繋がりのあるのは父親だけ――その限定的な小さな世界で育ってきた二人にとって、初めて会うのに赤の他人ではない『親戚』というのは、なんとも不思議な存在だった。
「どんな人なんだろうね?」
西口へ続く階段を降りながら、琉里が言う。
「気軽に出歩けないとか、車を迎えにやるとか――迎えにやるって普通出ないよね。すっごいお金持ちだったりして。お城みたいな家に住んでるとか、ベンツとかフェラーリとかが車庫にずらーって並んでるとか、庭に大きな噴水があるとか……メイドさんとか執事さんとかもいたりして」
「マンガじゃねーんだから。偏りすぎだろ、お前の金持ちのイメージ」
琉里がむっと口をとがらせる。
「じゃあ伊明は? 伊明のイメージってどんな?」
「どんなって訊かれても……」
頭を掻きながら、うーん、とうなる。
「まあ、声や喋りかたの感じ、確かに品はあったと思うけど」
「それはお金持ちのイメージじゃなくて、その人の印象ではないですか?」
しっかりとやり返してくる。
道中、こんなふうに会話が噛み合わない――というか伊明の返答がズレることが多々あった。冷静ぶってはいるが、伊明もなかなか緊張している。
一方、琉里もいつも以上に口数が多くは明らかにはしゃいでいた。浮足立っているといってもいい。今も、階段を降りる足取りは軽やかすぎて、放っておいたらゴムボールみたいに跳ねだしそうだ。
転ぶなよ、と忠告すると、転ばない、と豪速で返ってくる。
「実那伊さん、だっけ。私たちの何に当たるんだろ? 叔母さんだったら、お父さんのお姉さんか妹さんだよね。それとも、もっと遠いのかな」
「どうなんだろうな。その辺はなにも言ってなかったけど」
「今から行くのって、お父さんの実家なの?」
「わかんない」
「なんもわかんない」
「……悪かったな」
あれこれ訊く余裕なんて伊明にはなかったのだ。口にはしないけれど。
琉里は非難するつもりはないらしく、振り返って伊明を見あげ、にぱっと笑った。あの日以降、琉里は努めて不安な顔を見せないようにしている――ように、伊明には見える。
階段を降りきり、アーチ形の軒下で足を止めた。
音のない雨がけぶるように町を包み、灰色に染めていた。
地元のほうも天候は怪しかったが、雨粒はかろうじて分厚い雲の中に留まっていたから、伊明も琉里も面倒がって傘を持ってこなかった。
顔を見合わせ、雨、と無言のうちに示し合う。
携帯電話で時間を確認すると、約束の時刻まであと一時間弱もある。
「早く着きすぎちゃったねえ」
目の上に片手をかざし、雨雲を見あげるようにして琉里が言う。
「どっかで時間潰すか?」
「だねえ」
のんびりした琉里の返答を聞きながら、伊明はぐるりと首を巡らせる。
駅前はひらけていた。
高い建物といえば三階建ての雑居ビルがぽつぽつあるのがせいぜいで、向こうのほうまで空が見える。雨雲のドームの中にいるみたいだ。
遠くにお椀をかぶせたような緑のぎっしり詰まった山があった。
正面はやはりバスターミナルになっており、二、三台のバスが口をあけて出発時刻を待っている。左手にはタクシー乗り場。こちらも二台ほどが待機していて、運転手同士が間に立ち、霧雨などものともせずに咥え煙草で談笑している。
人通りは少なく閑散としているが――寂しいというより、のどかだった。時間の流れがゆったりしている。
右手にはカフェやファストフード店など、駅前らしい商業施設がみしっと詰まって並んでいる。バスターミナル、タクシー乗り場につながる一般車両の乗入レーン、数台が駐停車できるだけのスペースもあった。
手前にミニバンが一台、その向こうにもう一台――。
こののどかな風景にそぐわない、黒塗りのセダンが停まっている。
伊明がそれを認めるや、黒いドアが半分開いた。運転席から男が一人、すべるように降りてくる。
長短の丸太を繋ぎ合わせたみたいな人だった。
遠目からでもわかるほど骨太そうないかつい体格。釦をしっかり留めた黒一色のスーツも、きっちり結んだ黒いネクタイもやけに窮屈そうに見える。
四角い頭部に彫の深い顔。歳のころは――はっきりとはわからないが、たぶん父や遠野よりも一回りは上、五十は優に超えていそうだ。
車といい服装といいその体格といい、さながら、映画に出てくる熟練SPといった風貌である。
伊明は思わず、まじまじとその男を眺めてしまった。
すると向こうもドアからすべり出た格好のまま、しげしげとこちらを見返してくる。
しげしげと。
伊明の顔を確認するように。
――まさか。
「伊明」
琉里がシャツの裾をつんと引く。
「迎えって、もしかして……」
「……いや、でも時間も早いし」
自分に言い聞かせるように答えながら、男に向かって伊明はちょっと会釈をしてみた。とたんに男の視線からしげしげ感が消え失せた。確信をもったように会釈を返してくる。
まじか、と伊明は思わず呟いた。
琉里も「うえぇ」と変な声をもらしている。
男は上半身を一度車のなかに突っ込んで、黒い傘を一本取りだしてからドアを閉めた。自分で使う気はないのか、片手に握ったまま伊明たちのもとへ小走りで駆けてくる。
鍛え抜かれた軍人のような、無駄のない足運び。
――どうしてこう、父の周りのオッサンたちはオッサンらしくないのだろうか。世のオッサンの持つくたびれ感がもっとあって然るべきなのに。
伊明の前までやってきた黒服の男は、慇懃に、深々と頭を下げてから、
「伊明様――ですね」
確認するように伊明を見下ろしそう言った。
間近で見ると尚更のド迫力だった。
背は父と同じくらいだろうが(それでも十分でかいが)幅があるせいで実際の体積よりも巨大に見えるし、父以上に無機質な、石膏像みたいな顔が異様な圧を湛えている。
そんな男に「様」付けされて、伊明はたいへん吃驚した。
というか生まれてこの方、そんな仰々しい呼び方をされたことなど一度もない。
「そちらの方は」
男は伊明の返答を待たず、無感情な瞳で琉里をさした。声もずいぶん淡泊だ。
琉里は伊明の隣で固まっていた。小柄な彼女にはそれこそ巨人にでも見えるのだろう、口をぱくぱくさせている妹に代わって「琉里です」と伊明が答える。琉里が慌ててお辞儀をする。
男の片眉がぴんと小さく跳ねた。
「お一人でいらっしゃると伺っておりましたが。伊明様とはどういったご関係で?」
「関係もなにも――」
言いかけて、ああそうか、と思い直す。
伊明と琉里はそもそも似ていないのだ。初見で双子だとわかる人はほとんどいない。
「妹です。双子の妹の琉里。……実那伊さんならわかると思いますけど」
男は、今度はほんのわずかに眉をひそめた。
怪訝そうに琉里を見、「少々お待ちいただけますか」と声を低めて、背広の内ポケットから携帯電話を取りだし伊明たちから離れていく。
実那伊に確認しているのだろうか。やり取りは聞こえない。
男の黒い背中を眺めていると、つんつんとまた裾が引かれた。
「伊明、言ってなかったの?」
不安そうな顔で琉里が訊く。
伊明は頬を掻きながら、いや、と言い訳じみた声をもらし、
「だってお前、来ないと思ってたから」
文化祭に向けた猛練習期間である。日曜日である今日も、部活はあるのだ。
病院から帰った日、一応、栗色女子たちから預かった伝言をつたえてスマホを確認させると、琉里はとたんに大わらわ。
演劇部員たちからの怒涛のメッセージにやばいやばいと泣きそうになりながら返信していたし、翌日には三年生からこっぴどく叱られ同学年の部員からもちくちくやられたことを彼女自身の口から伊明も聞いたし、もうぜったい休めないー降ろされるーとわんとわめいて倒れこんだのもしっかり見ている。
だから琉里には事前報告と父への口止めだけをして、一人で来るつもりだったのだ。
けれど琉里は「一緒に行く」といった。部活は、と訊くと「法事だって言う、それなら大丈夫だから」と言いきり、頑としてゆずらなかった。
実那伊に改めて連絡しなかったのは、俺一人で行きますと明言したわけではなかったからだ。以前、自分たちが小さいころに世話になったと聞いていたからでもある。
赤の他人を連れていくわけでもなし、父にさえ黙っていれば問題ないと――そう思ったのだ。
確認が取れたのか、やがて男が戻ってきた。
「結構です。どうぞ、こちらへ」
しかし男は、なぜか琉里を空気のように扱った。
伊明だけに瞳を向け、伊明だけに言葉を掛け、伊明だけに開いた傘を差そうとする。
――なんだ、こいつ。
少なからぬ反感に、伊明は「傘いらないです雨そんな降ってないんで」とぶっきらぼうに断って、戸惑っている琉里を先に立たせて自分は付き人のようにその後ろにくっついた。
形上、男は琉里を車に案内し、琉里のために後部座席のドアを開けることになった。
それでも男はぴくりとも表情を変えなかった。それどころか、本当に琉里が見えていないかのように、澄ました瞳は彼女の頭を飛び越えて伊明にだけ向けられ続ける。
不愉快だった。
ただ、待遇という点においてはかなりのVIP扱いである。
男は自分のために傘を開こうともしなかったし、車内へ誘導するときの振る舞いもドアを閉める手つきもいちいち恭しく、運転における手捌き足捌きもまた、その見た目から想像しえないような丁寧さである。
発進でも停止でも体がいっさい振れないというのはなかなか凄いことではないのだろうか。少なくとも父の運転ではこうはいかない。
とりあえず、彼を運転手に雇っている御木崎実那伊が只者ではないらしいことは、伊明にもわかった。
車は市街地を走っている。
前方にお椀型の山がこんもりそびえているのが見える。
「伊生様はお元気ですか」
黙って運転していた男がなんの前触れもなく、唐突に声を発した。しかも様付けされた父の名を伴って。
伊明は思わず「はッ?」とすっとんきょうに訊き返してしまう。
男の瞳が、バックミラー越しに伊明に向いた。
「あ、父さ……父、ですか? 元気なんじゃないんですかね」
「……一緒に暮らしておられるのでは」
「あんま話さないんで」
「そうですか」
男の瞳が前方へ戻って行く。
短い沈黙が落ちたかと思うと、男はまた唐突に、
「申し遅れましたが」
そう前置きをして、張間と名乗った。
沈黙しては口をひらき、ひらいては伊明の返答を聞いて沈黙してを繰り返す。男――張間の話をまとめると、こうである。
彼は『KRAT』とかいう御木崎家が統括・運営する警備会社に所属しており、もう三十年近く、今向かっている実那伊の家、つまり御木崎邸――彼は『宗家』という言い方をした――の警備を担当している。
基本的には邸の警備ではなく主人やその家族を護ることが彼の主な役目であり、以前は父、伊生のそばにもついていた。
もしも伊明があの家で育っていたなら、きっと今頃、伊明の警護担当になっていただろう――というようなことを、感慨のかけらもない無感情な声でぽつぽつ語り、ひとり言めいた話を締めくくった。
それを聞いて、伊明は一抹の不安を覚えた。
実那伊がどうのこうのというより、御木崎家そのものがかなりの大家であるらしい。これから行くのはその頂点たる宗家、しかも父の実家である。
父は勘当されたと言っていたが、はたしてその実子である伊明たちが行って問題になったりしないだろうか。実那伊は歓迎すると言ってくれていたけれど。
「そういえば、実那伊さんって……父の姉妹かなんかですか」
「…………」
張間は答えなかった。視線を動かしもしない。
完全なるシカトである。
伊明はあからさまに眉根を寄せて、乱暴にシートの背もたれに体を預けた。音と態度で不愉快感を出そうとしたのだが、背もたれはもすんと間抜けな音を立てただけ。
ちら、と琉里を横目に見る。
琉里は張間と顔を合わせて以降、黙りこくっている。うつむきがちに顎を引いて、ただ窓の外を眺めていた。
張間の態度がそうさせているのだ。
だから余計に腹が立つ。
伊明は真一文字に口を結んで、流れる景色に目をやった。張間もそれ以上は話しかけてこなかった。
遠くから見ただけではわからなかったが、市街地とお椀型の山のあいだには大きな河が流れていた。年季の入った石造りの欄干橋が山と町とを繋いでいる。
伊明たちを乗せた車は橋を渡り、山間に入っていった。
すると今まで滑るように走っていた車ががたがたと揺れだした。
なだらかな山道は、車道としての舗装がなされていない。
一応、車一台が余裕で走れるだけの幅はあるけれど、土のままの地面は車輪でならしただけのような粗雑さで、まるで車のけものみちといったふう。
がたつくがたつくしばらく走って車はそっと停止した。
着いたのかと前方に顔を向けて、伊明はまた驚いた。
フロントガラスいっぱいに木造りの観音扉が広がっている。
それが、張間同様の黒いスーツをきっちり着込んだ男二人の手によってゆっくりと仰々しく開かれていくのだ。
車はふたたび発進し、敷地内に入ってからまた停まった。
張間が車を降りるのと同時に、門を開けたうちの一人が駆け寄ってきて後部座席のドアを開けた。おずおずと琉里が出て、伊明もそれに続く。
全員が下りたのを確認した黒服は、張間に代わって運転席に乗りこみ車を右奥へ走らせていく。
――ある程度は覚悟していた、けれど。
御木崎邸は、思った以上に凄かった。
まず門構えからしておそろしい。残ったもう一人の黒服がきっちり閉めているあの門は、腕木門――というやつだろうか、裏から見てさえたいそう歴史を感じさせる古さ、大きさ、ご立派さ。
中学の修学旅行で寺社仏閣をまわったときに似たようなのを見た憶えがある。というかそういうところで見た憶えしかない。
門から伸びる瓦屋根つきの白塀は、横幅もさることながら奥行きがまあ凄い。敷地自体が長方形であることはわかるのだが、いったいどこまで続いているのか――家屋に阻害されて見えないというのもあるにしろ、広さは相当である。
見まわしてみると、どうやら右手に車庫があるらしく、セダンの尻が並んでいるのが見える。
その奥には蔵――だろうか。
手前には塀を背にした小さな祠と小さな池があった。祠を抱くように松が枝を伸ばし、水面には蓮の葉が浮いている。ししおどしまである。こじんまりとしていても風情があった。
そして。
敷地の真ん中にでんと構える、圧倒的日本家屋。
歴史的建造物といっても過言ではないくらい――こんな家がまだあるのか、人が住んでいるのかと思うような――時代錯誤とも思える純和風な数寄屋造りの家屋である。
伊明の真正面、敷石を踏んだ先が、正面玄関に当たるようだ。
奥に向かって縁側――というか外廊下が伸びていて、それに面した左手側には美しく調えられた日本庭園が広がっている。
築山があり、小さな家ならすっぽり入るのではないかと思えるくらいの大きな池があり、池の中央には六角形の茶室みたいな御堂が浮かぶように建てられていた。いくつかの大きな飛び石によって庭と結ばれている。
とんでもない家だ。
これが父の実家だなんて――到底、信じられない。
こんな風流な家から、どうして父のような情緒の欠片もない人間が排出――けっして輩出ではないと伊明は思う――されたのか、まったくの謎である。
「こちらです、伊明様」
張間が隣に立って正面玄関を手で示し、誘導する。
いつのまにか頭の上には黒い傘がひらかれていた。持っているのはむろん張間で、琉里は例のごとくのけものにされている。
伊明は張間をちょっと睨んで、逆隣にいた琉里を間に入れようと手を伸ばした。とたん。
ぱしん。
触れる寸前で、手が払われた。琉里本人に。
伊明が驚いて振り返る。
「……ごめん……伊明……」
蚊の鳴くような声。
胸の前で握りしめた両手が、小刻みにふるえていた。
うつむいているせいで表情は見えないけれど――なにかに、ひどく怯えているようだった。
「琉里?」
どうしたのかと背中をこごめると、琉里は、伊明が近づくのを怖れるように半歩ほどあとずさった。薄く開いた唇がわなないている。
言葉は、ない。
「来海」
張間が屋敷に向かって片手を挙げた。
いったいいつからそこに居たのか。
さっきまで確かに閉め切られていた玄関の引戸が開いていて、そのふちに凭れかかるようにしてこちらを眺めている青年がいた。
張間の呼び声に応じるようにひょいと身を起こし、かかとを引きずる緩慢な足取りで近づいてくる。
170センチそこそこの背丈で、猫のような顔つきをしている。
二十歳を越したくらいだろうか。緑がかったアッシュグレイの奇抜な髪色に、カラーコンタクトでもしているのか瞳の虹彩は緑色、シルバーピアスまみれの耳が異質な雰囲気を作っていた。
彼も黒いスーツを着ているが、ジャケットの釦もシャツの釦もだらしなく外され、ネクタイも胸元でたゆんでいる。
――このとき初めて気がついたが、彼の襟にも張間の襟にも白銀のピンバッジが留まっている。弁護士やなんかが付けているようなもので、小さな菱形のなかに十字が刻まれていた。
来海と呼ばれたその青年は琉里をじろじろ見下ろして、
「ふーん」
と小さく鼻を鳴らした。
かと思うとおもむろに琉里の二の腕をがしりと掴んだ。琉里がびくっと肩を跳ねさせ、抵抗するように小さく身じろぐ。
「おい、なんだよ」
ほとんど反射的に、来海の手首を掴んでいた。
来海は瞳を上げると、今度は伊明をまじまじ眺めた。
唇を真横に引き伸ばしてにたりと笑む。舌先を、蛇のようにのぞかせた。
――舌にまで、ピアス。
たじろいだ伊明の肩に、張間の手が乗せられる。
「伊明様。手をお離しください」
「……琉里から手ェ離すように言ってください」
「伊明様」
ぐッと力が込められた。肩関節に痛みが走る。
来海は緩んだ伊明の手からするりと抜け、飄然と、琉里を引きずるようにして歩きだした。
「おい、ちょっと待てよ!」
追いかけようとしたとたん肩を引かれ、止められる。
伊明はとっさに、その手を乱暴に払いのけた。少しも崩れない張間の、石膏像みたいな顔を睨めつける。
「……なんなんだよ。琉里をどこに――」
「離れでお待ちいただきます」
おっかぶせるようにして張間が言う。
「彼女は、母屋へ近づくことができませんので」
「は?」
張間は静かに見下ろしてくる。伊明の喧嘩腰にも動じない。
「彼女の様子が普通でないことには、あなたもお気づきになられたでしょう。ここの空気は彼女にとっては毒も同然。お気持ちはわかりますが、伊明様、彼女を――妹さんのためを思うのであれば尚のこと、口を出さないでいただきたい」
「……はあ? なんだよ、それ……」
言っている意味がわからない。
――毒? ここの空気が、琉里にとって毒? 空気が?
伊明は呆然としたまま首をめぐらせた。
来海に引っぱられていく琉里の様子は――たしかに、普通ではない。熱に浮かされた人のように覚束ない足取り、刑を科せられた囚人のごとくやつれて見える背中、ふるえる肩、竦んだ首。
なにより――。
琉里はこちらを振り返ろうとしなかった。
救けを求めることもなくむしろ伊明から逃れるみたいに、離れていく。
張間の案内で通されたのは、母屋と呼ばれた日本家屋の客間らしき部屋である。
畳敷きの和室で、広さは十畳くらいだろうか。中央に座卓が置かれており、入って右に位置する床の間には水墨画の掛け軸が品よく飾られている。
左は襖で仕切られているが、どうやら間続きになっているらしい。
伊明は襖に背を向けるようにして座卓の前に胡坐を掻き、むっすりと腕組みをして、御木崎実那伊の現れるのを待っている。
つい今しがた、旅館の仲居さんみたいな和服姿の若い女性――彼女も張間同様、伊明に恭しい態度を取っていた――が、淹れてくれた上品な香りのするお茶にも、用意してくれた高級そうな茶菓子にも、ちょっと惹かれるものはあったが手をつけなかった。
張間が離れと呼んでいたのは、池に浮かぶ六角堂のことらしい。
位置関係から察するに、たぶん、この客間は庭に面している。
床の間を正面にして左を見れば、立てきられた障子の向こうから、さらさらと――雨が池を撫でる音か木の葉を濡らす音か、聞こえてくる。
それほどにこの家は静かだった。
「失礼いたします、伊明様」
どのくらい待たされたろうか。内廊下側の襖の向こうから張間の声が掛かった。伊明は胡坐に腕組みの体勢のまま顔を向ける。
すう、と襖が静かに開いた。
入ってきたのは張間ではなかった。
張間は彼女のために襖を開けただけだった。
冬の夜空のごとき桔梗の紬に銀糸の織りこまれた象牙色の帯、藤の羽織を肩に掛けた――まさしく和の麗人。
伏し目がちな黒い眦は横に切れ、長くも密度の薄いまつげに繊細にふちどられている。つんと高くとがっているわりには華奢な鼻梁、すっきりとした細面。
全体的に日本人らしい薄い造作ではあるけれど、それゆえか、控えめで気品の漂う端正な顔立ちである。
肩がほとんど揺れず足音さえさせない楚々とした歩き方も、伊明の正面に静々と腰を下ろすその所作も、どこをとってもどこを見ても育ちの良さが窺える。品の集合体のような人だった。
いくつくらいの人なのか、伊明にはまるで見当がつかない。
三十代だといわれても頷けるし、四十代だといわれてもやっぱり頷ける。
年齢不詳の旧家の若奥様。
まさにそんな感じの女性だった。
彼女に続いて、もう一人入ってきた。
中学生くらいの細身の少年で、彼もまた松葉色の紬という和服姿。
目元が彼女によく似ている。
口が小さく唇は薄く、ちゃんと食事をとっているのかと疑いたくなるほど線が細い。触っただけでぱりぱりとひび割れてしまいそうな硝子細工みたいな少年である。
若奥様風の女性が座るのを待ってから、彼も襖の前に控えるように正座した。
室内の空気が変わったのが、伊明にもわかった。
濃密な緊張感に支配される。
最後に先ほどの仲居さんのような女性がそろりと入ってきて、手つかずのうちに冷めてしまった伊明のお茶を取りかえて、若奥様風の彼女の前にも茶を置いて、またそろりと出て行った。
襖が閉まる。
伊明は無意識のうちに腕組みをとき、背筋をぴんと伸ばしていた。
目の前に座るこの人が――おそらく、御木崎実那伊その人だ。
「遠路はるばるわざわざお越しいただいて。――本当に遠かったでしょう、途中で迷ったりしなかった?」
丁寧な挨拶からやや言葉をくずして、穏やかに微笑む。伊明は直視できずに斜め下へ視線を逃がしながら、
「スマホのナビとかあるんで。それに、迎えにも来てもらったし」
もそもそと答えた。
「早めに向かわせておいてよかったわ。なにせこの天気だし、こちらから呼び立てておいて待ちぼうけだなんて申し訳ないものね」
「いや、……すみません、その、約束の時間よりかなり早く着いちゃって」
「いいのよ」
ふふ、と笑う彼女の印象は、電話で受けたのとそう変わらない。たおやかで優しそうな――。
「ご挨拶が遅れてしまったわね」
彼女は居ずまいを正すと、
「御木崎実那伊と申します。あれは、次男の識伊。あなたさえ良ければぜひ同席させたいのだけれど」
少年が頭を下げる。座ったままでも綺麗な辞儀だ。
断る理由もないので会釈を返しながら了承し、それから気づいたように、御木崎伊明です、と呟くように名乗る。同じ苗字を返すことなど初めてで、なんだか妙に気恥ずかしい。
実那伊は、ええ、と応じて笑みを深めた。
「久しぶりね、伊明。ずいぶんと、大きくなって」
感慨深げに細められた目。
黒々とした瞳がやけに大きく、白い部分はほとんど見えない。
だからなのか、彼女の視線には重力がある。長く目を合わせていることができぬような重たさが。
「たしか、十七歳になった――のよね?」
「そう、ですね」
「八月で」
「……はい」
頷きつつも、伊明はちょっと戸惑った。
彼女の言うとおり、伊明は八月――先月、誕生日を迎えたばかりだ。
「いま、高校二年生ね」
「はい」
「黎光に通っているの?」
「……はい?」
「高校は、黎光学園に通っているのかしら」
きらきらと、少女のように黒い瞳を輝かせている。
伊明はわずかに眉をひそめた。
「……違いますけど」
「そう。……やはり行かせてもらえなかったのね」
ひどく落胆した様子で実那伊は目を伏せた。
黎光学園といえば、国内でもトップクラスのエリート私立校だ。幼稚園から大学まで一貫で、幼等部と初等部、中等部、高等部、そして大学と、四つのキャンパスが関東各地に散らばっている。
金持ちが多い、頭がいい、そこさえ出れば出世街道まっしぐらとまで言われているが、学園の規模自体はそれほど大きくはない。入学受け入れ数も少なく、ゆえに難関――超難関と言われている。
倍率はさることながら、学力とは別のなんらかの基準が設けられているらしく「頭と金がなければ入れないが、頭と金だけでは入れない」なんて噂もまことしやかに囁かれている。
実際、中学の同級生で黎光学園高等部を受験した者があったが、自己採点では合格ラインを優に超えていたはずなのになぜか落ちた、という話を伊明も耳にしていた。
――なによりも先にそこを確認するのか。
いきなり理不尽なものさしを当てられたような気がして、伊明のなかに反発が生まれた。
「いや、っていうか。進路は自分たちで決めてるんで。行かないです、黎光とか」
実那伊はより落胆の色を濃くして伊明を見た。
それから襖の前にじっと控えている少年へと視線を流す。
「あの子は――識伊はいま十三歳なの。黎光学園に通っているわ。幼等部から、とはいかなかったけれど、初等部からずっと黎光なのよ」
「はあ、そうですか。頭いいんですね」
投げやりに返すと、
「いいえ、シンルーだからよ」
口の中で呟くようにして実那伊が言った。
え、と伊明が訊き返すのも聞こえぬ様子で憂えるように嘆息し、
「……でも、そうね。これも仕方のないことね」
ふたたび口の中で呟いてから改めて伊明に視線を戻す。
「あの」
「話がしたいと言っていたけれど」
伊明の声を実那伊が浚う。
「なにか訊きたいことがあって、ここへ来たんでしょう?」
たおやかな声。穏やかな微笑み。
実那伊はあっというまに、もとの彼女に戻っていた。
伊明は毒気を抜かれたように一瞬ばかりぽかんとする。
「えっと……」
訊きたいこと。
訊きたいことなら山ほどある。あるけれど――。
伊明は惑うように瞳を揺らしてから、おずおずと口を切った。外堀から埋めるべくひとつひとつ確認していく。
「ここは、父の実家なんですよね」
「ええ、そうよ」
「親戚って言ってたけど、あなたは父とどういう関係……っていうか、父の何にあたるんですか? 兄妹とか、いとことか、そういうの」
「そうね。血のつながりで言うなら、いとこよりももっと離れている――かしら。遠縁ってほどでもないけれど、そこまで近くもない。……そんなことを訊くために、わざわざこんなところまで?」
口元を押さえるようにして、くすりと笑う。
伊明は、いや、と口ごもった。
「俺、知らないから……知らないんです、なにも。なんにも聞いてなくて。父さんは、俺たちが生まれる前からずっと、実家とは絶縁状態だって言ってたんです。勘当されたからって。……でも、この前、実那伊さんから連絡があって」
「ええ」
「あのとき言ってましたよね。小さいころ、俺たちが世話になったことがあるって。それって、つまり」
「伊生さんが嘘をついていた――ということになるわね」
「やっぱり……」
――そうだったのか。
伊明は重たく息を吐きだした。力無く頭が垂れる。
「伊明」
「いや、いいんです」
同情的な実那伊の声を遮る。
「べつにショックとか、そういうのないから。父さんの話が嘘だってのは、まあ、ここに来る前からわかってたし。あいつの過去とか正直どうでもいいし」
実那伊はなにも言わずに伊明をただ見つめている。奥に渦巻く感情を読み取ろうとするかのように。
「そんなことより」
伊明は口元を引き締めて顔をあげた。
「俺が知りたいのは……俺たち自身のことなんです」
「たち、というのはあなたと――」
「琉里です」
実那伊の目がすうと細まる。
「そういえば電話で話したときに言っていたわね、変なことがあった、って」
「……変っていうか、奇妙っていうか……説明するのむずかしいんですけど――とにかく普通じゃなかった。幻覚を見てるみたいな、夢の中にいるような……全部が全部、ありえねーだろって思うようなことで」
視線を落として伊明は続ける。
「……父さんは、なにか知ってる。医者も――ガキの頃から世話になってる医者がいるんですけど、その人も、たぶんなにか知ってる。でも俺と琉里にはいっさい教えてくれなくて」
じつはあれから一度だけ、伊明は遠野と父それぞれに問いただしている。
遠野はあの日――伊明がスリッパのまま病院を飛びだしたその日の夜に、わざわざ自宅に電話をよこした。尋常ならざる伊明の様子を心配してのことだったが、結局、聞かされたのは「父ちゃんに訊け」という一言のみだった。
ならばとその日の夜遅く、父が帰ってくるのを待って訊いてみると、「いずれ話す」とまた突き放されて終わってしまった。
「……実那伊さんなら、もしかしたらなにか知ってるんじゃないかって。教えてくれるんじゃないかと思っ――」
瞳をあげたとたん伊明は声を飲みこんだ。
視線がかち合った、ほんの一瞬のことだった。実那伊の黒い瞳が異質な彩を放ったのだ。白刃が閃くような鋭い瞬き。
実那伊はすぐに目を伏せてしまった。
口元に微笑みを湛えたまましばし黙り、やがて、ゆっくりと口をひらく。
「勘違いをしているようだから、まずは一つ訂正させて頂戴。あなたはさっき、『小さい頃に俺たちが世話になった』という言い方をしていたけれど――それは違うわ」
「え?」
「私のもとにいたのは、伊明、あなただけよ」
「……え? 俺、だけ……?」
愕然とする伊明を見据え、実那伊は笑みを深くする。
「私は琉里という子を知らない。会ったことはもちろんないし、見たことさえ一度もない。その名前すら今日まで――ついさっきまで、知らなかったのよ。だから……迎えにやった張間から、双子の妹と名乗る少女があなたと一緒に来ている、そう連絡を受けたときには本当に驚いた。……だってありえないもの。あなたが双子であるはずがないんだから」
「……ちょっと……待ってください。それ、どういう……」
「あなたの母親は、あなたしか産んでいない」
どこまでも、やわらかく。
実那伊は言う。
黒い湖面のような双眸が、息を詰め、目をみはる伊明を映している。
「私はあなたしか産んでいないのよ、伊明」
◇ ◆ ◇ ◆
――ここの空気はどうしてこんなに重たいのだろう。
まるで深い海の底。
纏わりつく澱んだ空気が、口をふさぎ、喉をふさぎ、肺の中で滞る。
体が熱くてたまらない。
喉がかわいて仕方がない。
あれからどのくらい経ったのか。離れと呼ばれるこの場所に閉じこめられてから、いったい、どのくらい――。
壁に寄りかかることでかろうじて座っていられる。琉里は、じっとりと汗ばむ額に手をやりながら首をめぐらせた。うまく力が入らない。こてんと、壊れた人形のように顔が傾く。
池に浮かぶ木造の六角形のこの堂は、四畳程度の広さしかない。
古い板張りの床はろくに手入れもされていないらしく、身じろいだだけでも軋みを上げるし、なにかで引っ掻いたような傷跡もそこかしこにある。
手をつくたびに、動くたびに、手のひらや露出した足がささくれに擦れて痛かった。
出入口は一つだけ。こちらも古い木戸である。
きっちりと閉め切られていて一筋の光さえ入ってこない。
窓はあるようだが外側から塞がれていて、堂内は薄暗かった。
木戸の横に設えられた、時代遅れの置き行燈だけがほのかな灯りをともしている。
――どうしてここに閉じこめられているのか、わからない。
なぜあの家に近づくことができなかったのかも、わからない。
伊明の手を拒んだのはなぜなのか、それも、わからない。
あのとき感じたのは漠然とした恐怖だった。
本能的ななにかが、伊明に触れられることを怖れ、あの家に近づくことに慄いた。
どうして恐怖なんて。兄妹なのに。双子なのに。
この家に来たのだって初めてなのに。
朦朧とした意識のなかで、答えのない疑問ばかりが泡のように浮かんでは消える。とめどなく移ろっていく。
伊明はどうしているだろう。実那伊という人には会えたのか。
喉が渇いてたまらない。苦しくって仕方がない。
琉里は静かに、目を閉じた。
――なにか、聞こえる。
音が聴こえる。
森のささやきのような、小鳥のさえずりのような、優しい音。
音。
音とは違う。
これは――歌、だ。
不思議な感覚だった。
美しい旋律が、優しい声が、血をめぐるように体中を流れていく。
鼓膜ではなく体の裡から――いや、それよりももっと深いところから――琉里を満たし、包んでいく。
これはどこの国の言葉だろう。日本語じゃない。英語でもない。わからない。わからないのに、この歌を、知っている。
琉里の唇が小さくふるえた。音をたどる。優しい旋律を追いかけ、なぞる。そうしていると鉛のように重たい体が、砂のように渇いた体が、少しだけ、軽くなるような気がした。
「――なんのおうた……?」
ふいに耳に飛びこんできた声に、琉里はまぶたを持ちあげた。
閉め切られていたはずの木戸が少しだけ開いている。
その隙間から誰かが覗いている。子供、だろうか。ずいぶん低い位置に頭がある。顔は、よく見えなかった。
「……だれ……?」
返事をしない代わりに、その子は、周りを確かめるように左右に頭を振り、少しの躊躇を見せてから、がた、がた、とぎこちない音を立てて木戸を開けた。
子供一人がようやく通り抜けられるだけの隙間を作ってそろりと中に入ってくる。そしてまた、がた、がた、と――たぶん建付けが悪いのだろう――音を立てて、きっちりと木戸を閉め直す。
琉里はただぼんやりと眺めていた。幻影でも見るように。
するとその子供も、なにか不思議なものを見るような顔つきで琉里を眺め返してきた。
この暗がりに目が慣れているせいもある、その子が足元の行燈にやわく照らされているからでもある、ふたたび外から遮断された空間で、琉里の目にはその子の姿がはっきりと映った。
五、六歳くらいの女の子だ。
細い目の中に黒々と輝く大きな瞳が印象的で、子供らしくない、すでに完成されたような美しい顔立ちをした――意匠を凝らした人形みたいな少女だった。
薄闇のなかで、桜色の振袖が、ほのりと浮かぶ淡い光のように見える。
少女は木戸の前に立ったまま、話しかけるでもなく近づくでもなく、ただじっとこちらを窺っている。
「……きれいな着物だね」
声を掛けてみると、少女はちょっと身じろいだ。
「ここの子……?」
少女がこくんと頷く。
「お名前は、なんていうの?」
ゆめ、と小さな声が返ってきた。
「……ゆめ、ちゃん?」
「ゆめい」
「ゆめいちゃん」
少女がまた、こく、と頷く。
「名前も、かわいい」
「……」
笑いこそしなかったけれど、少女の頬に嬉しそうな朱が差した。
うつむきがちに瞳をそらし、胸のあたりで手をもじもじさせながら、今度は少女のほうから口をひらく。
「さっきのおうた……なんのおうた? きれいだった」
「……なんの、かな。わからないんだ、私にも」
「わからないの?」
「うん」
「わからないのに、うたってたの?」
「うん。なんでだろうね」
琉里が力なく笑ってみせると、少女はいっそう不思議そうに琉里を眺める。
「おねえちゃん、ほんもの?」
「……なぁに?」
「ほんものの、ギルワー?」
「ぎる、わー……?」
なんのことだろうと瞬いていると、少女はごそごそと袂を探って小さな巾着袋を取りだした。
中からつまみだしたのは、一本の銀色の針。
刺繍針だろうか。
普通の縫い針よりも少しだけ太く、少しだけ長い。
少女は、おもむろに自分の人差し指の先を、針でつついた。
「……ゆめい、ちゃん……?」
少女がおそるおそる近づいてくる。
人差し指を、琉里に向けて。小さな血のふくらみを見せつけるみたいにして。
どくん、と心臓が脈打った。
――ああ、だめだ。これは、だめ。
鼓動が激しくなっていく。
心臓からだくだくと送りだされる血液が、片っ端から蒸発して失くなっていくみたいだった。
喉が渇く。
体が渇く。
果実のような紅い粒が、欲しくて欲しくて堪らなくなる。
あのときと同じだ。
伊明の血を、見たときと。
手を伸ばす。あたたかな手に、指が触れる。
頭の芯をしびれさせる濃密な甘い匂いが、狭く暗い堂内にふあんと広がる。
少女が怯えたように息をのんだ。小さな手が引っこめられる。
追いかけようとさらに手を伸ばそうとした、そのときだった。
「由芽伊様!」
ガタガタガタッと――外れんばかりの音を立て、木戸が勢いよく開け放たれた。
堂内がぱっと明るくなった。とはいえ、ぶあつい雨雲に隔てられた夕闇である。木戸から差し込んでくる光には目を射るほどの明度はない。
なのにそれは、やけに強烈なまばゆさでもって琉里の目を焼いた。
琉里は、火に慄くけもののように、小さな悲鳴をあげ顔を覆った。バランスをくずして倒れこむ。
「いったい――なにをなさっているのです、由芽伊様」
「はりま」
男の怒っている声がする。少女の戸惑う声がする。
「ここに近づいてはならないと、あれほど言ったではありませんか。私の名を使って見張りの者に嘘までついて、中にまで入って」
「だって、ゆめ、ほんもののギルワー見てみたくて。見たことないから」
「……この指はどうなさったのです。まさか――」
「ちがう、ちがうの。ゆめが自分でしたの。針で。シンルーのこどもはこうやって練習するって、兄さまが」
「識伊様が……。――いずれにせよ、由芽伊様には早すぎます。ここは危険ですから、ともかく外へ。……あれに、血は与えておられませんね?」
「まだ」
「結構です。――由芽伊様をお部屋へ。指を怪我されている、手当を頼む」
はい、と別の声がして、二つの足音が遠ざかっていく。
琉里は床に突っ伏したままそれを聞いていた。
残光がまぶたの裏でちかちかしている。体の渇きも喉の渇きもひどいままだ。心臓が脈打つたびに血が消える。
このままでは死んでしまう。
――ほしい。
――この渇きを癒すものが、命を繋ぎとめるものが。
――ほしい。
片手が縋るように床をさまよう。床を掻く。
ゴツ、とすぐ近くで足音が聞こえた。
前髪を掴まれ、顔を上げさせられた。振りほどこうとした手が容赦なく振り払われる。
「目を開けろ」
逆らうことの許されない、無慈悲な声だった。
琉里は薄くまぶたをひらいた。
四角い輪郭をもつ男の顔が、すぐ目の前にあった。まぶしくて、よく見えない。
男は琉里の瞳を覗きこむようにしてから手を離した。
足音が離れていき、もそもそとした話し声が聞こえた。またひとつ、足音が近づいてくる。ゴト、と傍になにかが置かれた。
木戸が閉められた。
ふたたび閉ざされた堂内に静寂が戻る。
琉里は、動けなかった。目も開けられず、声も出せなかった。
床に伏せたまま、ただ静かにふるえていた。
「――……伊明……」
兄を呼ぶ声は、ほとんど音にならなかった。
――伊明。
――私、やっぱり普通じゃない。
つむった目から涙が落ちる。
どこかで、小鳥が、鳴いている。
◇ ◆ ◇ ◆
話の最中、実那伊は張間に呼ばれて廊下に出て行った。
なにかトラブルでもあったのか、静寂に包まれていた屋内が複数の足音でにわかに騒がしくなり、やがて顔を覗かせた張間が「ご報告が」と短く言って実那伊を連れだした。
そうして空いた間が、伊明にとってはありがたかった。
次々と明かされた真実に頭はすでに容量超過。少しでいいから整理する時間が欲しかった。
ここまでの実那伊の話で、父が自分たちにとんでもない嘘をついていたことがまずわかった。
その嘘は、大きくわけて二つある。
一つは、父は勘当されたのではなく、己の意思でこの家から出て行ったということ。
もう一つは、伊明と琉里が双子ではなく、異母兄妹であるということ。
蒸発したという母親――伊明の、と注釈がつくけれど――は、この家に残された実那伊である。
一つめの嘘は、言ってしまえばどちらでもいいことだった。
ただ二つめの嘘に対する衝撃、それに付随して知った事実を自分の中でどう処理していいのかわからない。
琉里のことももちろんだが、なにより目の前で話していたその人が、自分の母親だという事実。まさしく晴天の霹靂。吃驚しすぎた感情と思考が見事に迷子になっている。
「ごめんなさいね、騒々しくって」
客間に戻ってきた実那伊が、先ほどと寸分違わぬ所作でもって、寸分違わぬ位置に落ち着く。
迷子の伊明は、ひとまず『迷子の自分』を脇にどけて平静を取り戻そうと努めた。
「……なにか、あったんですか」
「末の娘が粗相を、ね」
実那伊が識伊を横目に見る。
識伊は身じろぎもせず、眉ひとつ動かさず、襖の前に控えている。まるで幽霊みたいだった。完全に気配を消して瞳を畳の上に投げている。
伊明はあらためて彼が実那伊の次男であることを思いだした。加えて屋内をにわかに騒がせたという――。
「娘さんも、いるんですね」
おそらくは、伊明とは父親の違うであろう二人の兄妹。
少しだけ口調に苦いものが混じった。
すると実那伊は、誤解のないように言っておくけれど、と前置きをして、
「私と伊生さんの関係は、俗世的なものではないのよ」
「……はい? え、ぞく……?」
「そとで育ったあなたには、理解しがたいかもしれないけれど」
ぽかんとする伊明に困ったように笑ってから、実那伊はかみくだいた言葉で説明を加える。
御木崎の人間には、俗世的な婚姻――つまり伊明たちにとっては普通である恋愛結婚が許されていない。自由恋愛そのものさえ『有り得ない』とされている。
幼いうちから宗家によって縁が組まれ、双方の年齢や環境が整うのを待ってから婚姻関係を結ぶ。その徹底した許婚制度こそが、御木崎家の普通であり、伊生と実那伊の関係もそれだった。
識伊や末娘にも、すでに分家に決まった相手がいるとのことである。
「ずいぶん、なんていうか――」
時代錯誤というか。
「――古風、ですね」
「そうかもしれないわね、あなたから見たら」
くすりと笑って実那伊が言う。
伊明はその微笑みを窺いながら、
「でも、分家って……要するに親戚同士ってことですよね。実那伊さんもさっき、父とは親戚だって……言ってましたけど」
「ええ、そういうしきたりなの」
「しきたり、ですか?」
思わず訊き返す伊明に、ええ、と実那伊が頷く。
「もちろん現在は法律も整備されているから、三等親以上は離すようにしているけれど。御木崎家は、なによりも血を大切にする家系なの。だから余計なもの――つまり外部の血はいっさい入れない。入れてはならない。自分たちの血を守り、紡いでいくことこそ私たちの役目」
「血を、紡ぐ……?」
「そう。――私には、あなたのほかに二人、伊生さんの子ではない子供がいる。末娘の由芽伊と、あそこにいる識伊」
実那伊が識伊へ瞳をやった。つられて伊明も視線を移す。
わかってはいたが、あらためて言葉にされると複雑だ。
「伊明、あなたがショックを受ける気持ちもわからないでもないけれど、でも、それも仕方のないことなのよ。……私たち、御木崎家の女性は、婚姻関係を結ぶ相手だけではなくて、産むべき子の数も決められているの。――三人よ。それ以上でもそれ以下でもいけない」
子供の人数、まで。
そんなことって――。
愕然とする伊明に、実那伊が微笑む。
「だからはじめに言ったでしょう。そとで育ったあなたには理解しがたいかもしれないけれど――って」
「……あの、そとって……」
「もちろん御木崎家のそとよ」
伊明は言葉を失ったまま、実那伊の顔を凝視した。
「いろいろと疑問に思うこともあるでしょうね、御木崎家は少し特殊だから。でもそうまでして守らなければならない『血』が、私たちには流れている。伊生さんにも、あなたにも。そしてそれが――おそらくは、あなたに起きたという異変の核」
唐突に――まさしく核心に触れる実那伊の言葉に、伊明ははっと瞬いた。今さらながらに思いだす。
そうだ、それを聞くために自分はここまでやって来たのだ。
あの夜、伊明と琉里のあいだに起きた異変の――核。
実那伊が続ける。
「あの琉里という少女に関してもおそらく同じね。あなたとの間で、同時に、別々の形で顕れたのであれば、それは受け継いだ『血』によるもの。ただし彼女の場合は、母親のほうの『血』でしょうけれど」
「琉里の……母親の」
実那伊の言葉を懸命に追う。必死に記憶と繋ぎ合わせる。
きっかけとなったのも、たしかに血だった。
いまでもはっきりと憶えている。
あの妙な高揚感が琉里に向かって流れていく感覚、呼応するよう感覚。
今の話を――素直に嚥下できるかどうかは別にして――そのまま当てはめるなら、あの夜の出来事はそれぞれに流れる『血』が反応しあったということだ。
だとしたら――。
「その『血』って、いったいなんですか。俺と琉里の『血』は、普通じゃないってことですよね。なにが――どこが、どう違うんですか? 琉里の母親は――実那伊さんは知ってるんですか、琉里の母親のこと」
堰を切ったようにあふれだす疑問をあふれだすまま口にする伊明に、実那伊は困ったように笑って言う。
「順を追って説明するけれど……最後のは答え方の難しい質問ね。それは、彼女個人を知っているかどうか、という解釈でいいのかしら」
伊明は思わずきょとんとした。
ほかに解釈の仕方があるだろうか。
それをほとんどそのまま口にすると、実那伊は苦笑を噛むように指の背を唇において「ええ、あるの」と言った。けれど言っただけで説明を加えることはせず、指を顎の先へずらしながら「そうね」と少し考えるようにして、
「会ったことはない。彼女の名前も、その存在すらも、当時の私は知らなかった。情けない話だけれど、まったく気づきもしなかったわ。……伊生さんが出て行ってようやく知ったのよ。うちの者から――張間から聞いて、ようやく、ね」
首をかたむけ、淋しげに微笑む。声がしとりと濡れている。
胸のあたりが微かに痛んだ。と同時に、腹の底に燻り続けている父に対する苛立ちの火種が、ほのかに熱をはらみだす。
「父が、出て行ったのは……」
やはり琉里の母親と一緒になるため、だろうか。口に出すのが躊躇われる。
実那伊がそっと瞼を伏せた。
「……伊生さんは――」
そして、静かに語りだす。
十七年前、十月初旬――。
その日も雨が降っていた。
音はなくとも山を濡らし、夏の名残を留めた緑を秋のくれないへ染め上げていくような、冷たく静かな霧雨だった。
『遠野』と名乗る男から伊生宛に緊急の電話が入ったのは、ちょうど夕餉を終えたころのことである。
それを受けるや伊生は血相を変え、取るものもとりあえず転がるように車に乗りこみ、ひとり家を飛び出していった。行先も告げず、一言も口をきかないままに。
普段めったに取り乱すことのない――それどころか、喜怒哀楽が欠如したような人である。そんな彼のただならぬ様子に、実那伊はひどく不安を覚えた。
実那伊だけではない。
口にする者はなかったが、家中の誰も彼もが、予感としか言いようのない好くない何かが忍び寄ってくるのを感じていた。
実那伊の腕に抱かれた赤子までも、火のついたように泣きだした。
当時、生後二か月を迎えたばかりの伊明である。
もともとよくぐずりよく泣く子供だったが、このときの泣き方は異常だった。
なんとか宥めすかして寝かしつけた実那伊は、日ごろの疲れもてつだってか、雨がさらさらと山を撫でる音に取りこまれるように伊明の傍で寝入ってしまった。
「――! ――――!」
いつのまにか強まった雨足が、山を、庭を、家屋を、礫のように激しく打ち付けている。それにも負けぬ家の者たちの騒ぐ声、廊下を乱暴に踏み鳴らす足音に、実那伊はふと目を覚ました。
なにごとかと廊下へ出てみると伊生の姿をそこに見つけた。
張間たちの制止を振りきって、どたどたと彼らしからぬ足音を響かせて、猛然とこちらに向かってくる。
実那伊は驚きのあまりに声を失った。
伊生の服は血にまみれていた。
頬や手にも、おびただしい量の血が付着していた。
充血した目、逆立った髪、すっかり青褪めた顔はまるで幽鬼のようである。
どうなさったんです、どこかお怪我でも――。
駆け寄った実那伊を押しのけて、伊生は部屋に入っていく。
とたんに空気を切り裂く赤子の泣き声が母屋中に響き渡った。
実那伊は慌てて部屋に戻った。
眠っていたはずの伊明の姿は、そこにはなかった。
開け放された部屋の障子。開け放された外廊下の雨戸。
冷たい風が吹きこんでくる。
横殴りの激しい雨が板張りの床を越え、畳を濡らす。
伊生はそれらに身を晒すようにして、部屋と外廊下とのちょうど狭間に立っていた。立ち尽くしているようにも見えた。
悄然とした背中。糸が切れたように落ちた肩。
ふと振り返った彼の腕の中で、幼い息子が泣いている。
伊生はなにかを呟くように口を動かしたが、伊明の泣き声に掻き消されて実那伊の耳には届かなかった。
そして、彼は出て行った。
庭に飛び降り、一直線に門に向かって駆けていく。その背中を、張間たちが追いかける。
お待ちください、伊生様――。
伊生様、どちらへ――。
男たちの太い声と赤子の甲高い泣き声が、冷たい嵐の中で入り乱れる。
茫然とへたりこんだ実那伊の視界から、夫と息子の姿はあっというまに消えてしまった。門の向こうへ、そとの世界へと――。
「あの日、伊生さんになにがあったのか、それは今でもわからない。でも……」
微かなふるえをもって、実那伊の声のトーンが落ちた。
「最後に聞いたあなたの泣き声を、最後に見たあなたの顔を、一時だって忘れたことはない。しきたりに倣って子は産んだけれど、だからって、あなたの代わりになるわけじゃない。ぽかりと空いた穴は、いつまで経っても空いたままなの」
「…………」
伊明は、うつむく実那伊の顔をただ見つめるしかできなかった。
いろんな感情が複雑に絡み合って、整理がつかない。
どの感情が正解で、どう受け止めるのが正解で、どんな言葉を返すのが正解なのか――どう、反応すればいいのか、わからない。
実那伊は最後に細く息をついて、閉じていた瞼をゆっくり上げた。続く声も、その表情も、落ち着きのあるものに戻っている。
「あなたを取り戻したくて、私は伊生さんを捜しまわった。私だけじゃない。彼自身が御木崎家にとって重要な人でもあったから、家をあげての大捜索よ。興信所も使ったし、Kratの人員もずいぶん割いた。それでも、見つけだすのに三年掛かったわ」
「三年……」
――そのころから、父は彼女と繋がっていたのか。
「そう、ですか。あの、父さんが重要な人、って……?」
「あなたもよ、伊明」
「……え?」
訊き返しても、微笑みが返ってきただけだった。
明確な説明のないまま、話は進む。
「伊生さんには何度も掛け合ったわ。戻ってきてほしい、あなたは御木崎家になくてはならない人だから、と。でも彼は応じてくれなかった。それなら伊明だけでも返してほしいと頼んだけれど、彼は頑なに拒否をしたわ。会うことはもちろん話すことも許されなかった。一目でいいからあなたを見たいという願いも……彼は聞いてくれなかった」
「まあ……でしょうね、俺たちに大嘘ついてたわけだし」
会わせたら嘘がばれるとでも思っていたのだろう。
「でもね、伊明。ああ見えても彼は優しい人なのよ。私たちには、とっても」
「……はい?」
耳を疑った。優しい――?
「だって私、再会してから今日まで、一度だって無下にされたことはないのよ。話があると連絡すればかならず都合はつけてくれるし、約束をすっぽかされることもなかった」
「そんなの――」
普通、じゃないのか。
嬉しそうに語る内容じゃないと伊明は思ったが、しかし実那伊は反対にますます黒い眼を輝かせて、
「私とあなたのあいだに立って壁になっていたのだって、彼なりに、あなたを想ってのことなのよ。ただ、それが――」
すうと細められる双眸。
深淵のなかに、白刃の光が鋭く閃く。
「少し間違った方向にいってしまっただけ」
なにか、厭な感じがした。
深みを増した彼女の声音が、ゆっくりと、鼓膜から侵食してくる。
「私ね、ずうっと言っていたのよ。伊明はうちで育てるべきだって。伊生さんと私の最初の子だもの。宗家を継ぐに相応しい『血』を、あなたは持っている」
実那伊がするりと立ち上がる。座卓を回り、伊明の隣に膝をついた。
白い手が、伊明の手に重ねられる。
「――よかったわ、あなたが戻ってきてくれて」
ねとりと絡みつく視線、引きずりこまれそうな黒い双眸。
染みついた穏やかな微笑みに、狂気が見える。
湿り気を帯びたなまぬるい指先は、この部屋の――どころか、この家を包んでいる空気が凝固したもののようで気味が悪い。家全体で伊明を捕らえようとしているみたいだった。
うすら寒さが背筋を走る。
伊明はとっさに手を引っこめた。
「……戻る、とか……そういうのじゃないんで」
顔を背けてそれだけ言う。
穴のあくほど――とよくいうが実那伊の視線はまさしくそれだった。表情を消した彼女は、伊明の瞳を追いかけ、覗き込むように凝視してくる。
耐えきれず、逃げるように伊明は立ち上がった。
「……伊明?」
細い、少女のような声だった。
「すみません、俺……ちょっと、トイレ」
実那伊がすっと上体を引いた。
「識伊」
たおやかな声で呼びかける。
はい、と静かに返事をして、識伊がするりと立ち上がった。
「ご案内します」
機械的に言いながら、襖を開ける。
「いや、場所だけ教えてもらえれば」
「お手洗いは少し離れているの、迷ってしまっては大変だから」
くすくすと笑う実那伊を見ることができないまま、伊明は仕方なく、識伊について廊下に出た。
襖の向こうには張間が銅像のように立っていた。実那伊に呼ばれ、伊明たちと入れ替わりに室内に入っていく。すれ違いざま、彼は伊明に目礼した。
トイレに向かっているときも、客間に戻るあいだも、識伊は口をきこうとはしなかった。トイレの前で機械的に「こちらです」と言ったのみで、澄ました顔で案内役に徹している。
たしか、十三歳――中学一年生だと言っていた。
背丈は琉里よりも高いようだが、その後ろ姿は――和装が大人びた雰囲気を纏わせているが、その骨格は――まだ少年の域を抜けていない。
気配を消すのがうますぎてつい忘れがちになっていたけれど、彼もまた、客間で実那伊の言葉を聞いていたのだ。けっして心地の好い話ではなかったはずだ。とくに後半、実那伊の言葉にはところどころ少年の心を抉るものが混じっていたように思う。
客間を目指して廊下を歩きながら、伊明はためらいがちに、前を行く識伊の背に声を掛けた。
「……知ってたのか?」
「はい?」
識伊は振り向こうともしなかった。
声変わりの最中らしい少し高めの掠れた声だけが返ってくる。
「俺のこと。……その、父親の違う兄弟がいるってこと」
「ええ、まあ」
――ええ、まあ。
中一とは思えない受け答えだ。
取り澄ました背中に向かってどう思いましたかとはさすがに訊けず、
「変わってるな、この家」
ひとまず当たり障りのない方向へ転じてみる。
「そう見えるんでしょうね、そとの人間には」
「……やっぱりそういう言い方するんだな。この家では、俺が変わってるって思うようなことも、ソトとかウチとかで区別すんのも、全部普通?」
「ええ」
単調な、短い相槌。
伊明は溜息まじりに頭を掻いた。
「じゃあ着物も普通? いつもその格好?」
「まあそうですね。家に居るときは」
識伊がふと足を止めた。振り返る。
「次は、どうしてそんな格好をしているのか、ですか?」
伊明は思わず口ごもった。識伊がふんと鼻で笑う。
「しきたり、ですよ」
小馬鹿にするような薄笑みを浮かべて言い放つと、少年は袂に両手を差すようにして腕を組み、視線を宙へ浮かせた。頭の中の文字でも読むように、
「御木崎家は由緒ある一族だから――格式高い家柄だから――それを纏める宗家だから――なんて、いくらでも言いようはありますけど、しょせん理由なんて有って無いようなものです。制服を着て学校へ通うのと同じですね。校則という単語がしきたりに変わるだけ」
淡々と言う。
――達観しているというか、冷めているというか。
「まあでも、そうですね。強いて違う言い方をするなら、凡人との差別化、ですかね」
「……なに?」
「差別化ですよ、凡人との」
繰り返して、識伊はくるりと背を向けた。
それからまたちょっと振り返って、
「俺たちは神の矢なんですよ。兄さん」
にい、と口角を引き上げる。
冗談とも本気ともつかぬような笑みを刷いたまま、識伊は顔を前へ戻して歩きだした。伊明の反応も待たず、取り澄ました背中を見せて――。
#2 神の矢
客間に戻るとそこに実那伊の姿はなく、さっきまで彼女の座っていたところには別の人が座っていた。
眼鏡を掛けた線の細い――これまた和装の男である。
その人があまりにも自然な感じでそこに居るので、中に入ろうとした伊明は部屋を間違えたかとたじろいだ。目印よろしく廊下に立っている張間、隣で伊明が入室するのを待っている識伊を振り返る。
伊明の様子に、識伊は怪訝な顔を見せてからひょい客間を覗いた。
「父様」
意外そうに目をみはる。
眼鏡の男は、さも今気づいたと言わんばかりにこちらを向いて、「ああ、識伊」と少年の名を気軽に呼んだ。それから伊明へ視線を移す。しかし挨拶を交わすことはできなかった。
「いつお帰りになったんですか」
伊明を先に通そうとしていたはずの識伊が、なんの憚りもなく、すたすたと客間へ入っていく。
眼鏡の男は軽く苦笑をこぼしながら、
「ついさっきだよ。三十分くらい前かな」
「母様はどちらへ?」
「『失礼ながら少し席を外します』、と」
これは伊明に向けられた。
詳細は、ふたたび識伊へ語られる。
「一本電話を掛けてくると言っていた。僕も挨拶に出るつもりでいたし、ちょうどいいタイミングだから選手交代」
「驚きました。張間もなにも言わないから」
「僕が黙っているように言ったんだよ」
いたずらっぽく肩をすくめ、眼鏡の男は笑った。
伊明が横目に張間を窺うと、彼はやはり無表情のまま銅像のように立っている。
「まったく、人の悪い」
識伊が溜息まじりに呟いた。
思いだしたように伊明を振り返り、
「なにをしてるんですか、そんなところで。入ったらどうです」
先ほど言葉を交わしたからか、それとも眼鏡の男がそうさせるのか――今まで機械的だった少年に、少年らしいぬくみが出た。
部屋の空気も明らかに一変している。
主が実那伊からこの男に代わったせいだろう、緊張感に満ちていたのがずいぶん穏やかなものになっていた。
「すまないね、識伊は少しひねくれたところがあるから」
「あなたが言うのですか、それを」
眼鏡の男は肩を揺らしてのんきに笑っている。
伊明は拍子抜けしつつもほっとしつつ、元の位置――男の正面に腰を下ろした。識伊は定位置のごとく襖の前に正座する。
あらためて見てみると、彼もやはり品のある、古風な優男という感じだった。
細くて丸いノンフレームの眼鏡を掛けた顔はまるで大正時代から抜け出してきたかのようで、実那伊同様、年齢不詳の気味であるが――たぶん、彼女と同年代くらいだろう。灰色の紬に藍の羽織という出で立ちで、にこやかに座っている。
識伊が「父様」と呼んでいたから――この人が、そうなのだろう。
「大きくなったね、伊明君。……いや、しかし驚いたな。本当に、昔の兄さんにそっくりだ」
髭の気配のまるでしない細い顎をさすりながら、眼鏡の男が言う。
「兄さん……?」
「ああ、失礼、名乗っていなかったね。初めまして――と言っておこうか」
君は憶えていないだろうから、と言って男は顎から手を離し、
「僕は御木崎 卦伊という。一応、御木崎家当主代理という立場にあるんだけれど……君の叔父だと言ったほうが親しみやすいかな」
「叔父」
――兄さん。叔父。ということは。
父の――伊生の、弟。
「はあ!?」
おそろしく唐突なカウンター。
「え、……ちょっと、待ってください、じゃあ……」
つまり実那伊は、夫が出て行ったのち、その弟と婚姻関係を結び直したということになる。そしてその息子である識伊は伊明にとっては異父兄弟であり、従弟でもあり――。
「あれ。実那伊は話してないのかな。どこまで話したんだろう?」
卦伊がのんきに首を傾げる。
識伊が簡潔に、実那伊の語った内容を説明していく。
二人の声が、伊明には、どこか遠い。
「なるほど。じゃあ御木崎家のことやシンルーについては、まだ無知も同然なのか」
「『特殊な血が流れている』ということだけは、先程、母様が」
「それがなんなのか――は、まだなんだね。そこを説明せずに血族婚の話をしたら、そりゃあ伊明君みたいな現代っ子は驚くだろう。実那伊も人が悪いなあ」
「母様に悪気があったわけではないと思いますが……」
識伊が控えめに反論すると、卦伊はちょっと笑って「わかっているよ」とちぐはぐな返答をした。
「識伊、お前はもういい。下がっていなさい」
一瞬、惑うような間をおいてから識伊は「はい」と小さな返事をした。「失礼いたします」と機械的に深い辞儀をして客間から出て行く。
「さて、伊明君。――伊明君」
二度目の呼びかけで、伊明はようやく顔を上げた。
「いきなり驚かせてすまなかったね。ただ――先に伝えておくけれど、僕たちの生きているこの世界の常識と、きみの生きてきたそとの世界の常識はずいぶん違う――大きく剥離していると言っても過言ではないから、そのつもりで。血族婚くらいで驚いていたら心臓が止まってしまうかもしれないよ」
「……っていうかすでに脳みそぶっ壊れそうです」
「はは、それは困るな。体だけじゃ使いものにならないからね」
冗談――なのだろう、きっと。
にしてもその言葉のチョイスはどうなのか。
伊明は複雑な顔つきのまま、卦伊から卓上へと瞳を落とした。
いっさい手を付けていない――付ける余裕のなかった湯飲み茶碗に片手を添える。席を外しているあいだにまた淹れなおしてくれたらしい。じんわりとした熱が指に伝わってきた。
湯飲みを口にはこんで、ず、と一口すすると、がさがさに乾いた喉に優しい熱が沁みていく。
「君が何故ここに来たのか、それについてはさっき実那伊から直接聞いた。自分たちのルーツを知るため、だってね」
「ルーツっていうか――」
言いかけて、はっとした。慌てて湯飲みを卓上に戻す。
「あの。琉里、どうしてますか?」
「ルリ?」
卦伊は不思議そうに首を傾げてから、ああ、と思い当たったように頷いた。
「君が連れてきたギルワーのことか」
「ギルワー……?」
「というより混血か、兄さんの血も引いているわけだから。彼女なら、離れにいるよ。ここへ呼んであげようか」
「え、けど……できないんじゃ」
だから離れで待たせるのだと――聞いたけれど。
「不可能か可能かで言えば、可能だよ。とはいえギルワーの血の性質がかなり濃く出ているようだから、まあ、ただでは済まないかもしれないね。試してみるかい? 僕も少し興味がある」
「いや、ちょっと……待ってください」
伊明は思わず眉をひそめた。
「それ、どういうことですか?」
「どうもこうもない。そういうことだよ」
「いや、だから――」
「百聞は一見に如かずとも言うからね。呼んでみればわかることだよ。もしかしたらシンルーの血が勝ってうまく適応できるかもしれない。そうなれば非常に興味深い事例となるね」
なんだろう、この人は――まるで、相手を混乱させて愉しんでいるみたいに、見える。
じゅうぶん自覚ができるくらいに伊明の表情は苛立ちでこわばっているのに、彼は、眼鏡の奥にのんきな微笑みを湛えたまま、そらっとぼけて顎をさすり、「どうする」とふたたび問うてくる。
「……どうもこうもないですよ」
伊明は低く言い返した。
「さっき、あの張間って人が言ってました。ここの空気は琉里にとって毒と同じだって。そういうことなんですよね、あんたが言ってんの」
卦伊はやはり顎をさすりながら、荒くなっていく伊明の言葉を聞いている。肯定も否定もない。
「――なら、いいです。琉里は呼ばなくていい。そのかわりちゃんと説明してくださいよ。シンルーとかギルワーとか……当たり前みたいに言われたって、俺にはわからない」
「ふむ」
卦伊は動かしていた手を止めた。思案するような短い間をおき、
「……伊明君は、その二つの存在――シンルーやギルワーについて聞いたことはあるかい?」
「ないですよ、そんなの。ここに来るまで、そんな単語があるのさえ知らなかった」
「そう、……やはりそうか。兄さんは本当に、なにも話していないんだね」
寂しいなあ、と卦伊は呟いた。
それまでとは打って変わった素直すぎる声音である。伊明の気勢が、少し削がれた。
「これは、御木崎家が代々血族婚を繰り返してきたことにも関係してくる。――もしかしたら実那伊の話と被る部分があるかもしれないから、知っていたらそう言って」
やおら顔から手を離し、袂の中で腕を組み、卦伊は静かに語りだした。
「僕たちの体に流れている血は、とても特殊なものなんだ。『聖なる血』と呼ぶ者もあるくらいでね。――まるで三文小説みたいだろう? 実際いまでもそんな言い方をするのは、末端の分家のじいさんばあさんや、おべっか遣いの馬鹿くらいのものだけれど……まあでも、その通りではあるんだよ。ごくごくわかりやすく言うとね」
辛辣な言葉を並べた卦伊は、そこで一息つくようにして微笑んだ。伊明が相槌――はあ、という気の抜けたものになってしまったが――を打つのを待って、先へ進む。
「ゆえに、僕たちには昔から、連綿と受け継がれてきた御役目がある。それを担う者に与えられるのは、御木崎の家名と――伊明君ももう気づいているかな、僕たちの名前に共通してつけられている、とある文字があるね」
「……『伊』?」
「そう。伊明君の『伊』、伊生兄さんの『伊』、実那伊、識伊、由芽伊――は知らないかな、実那伊の末娘だよ。そして僕、卦伊。全員同じ、この字だ」
言いながら卦伊は卓上に指先をすべらせ、伊、と書いて示した。
「ちなみに先代、君のお祖父さんは伊亮といってね、もちろん彼にも『伊』の文字が入っている。先日亡くなってしまったけれどね。……この『伊』の文字と、御木崎家の家名、特殊な血――これらを持つ僕たち一族は、シンルーと呼ばれている」
「シンルー……」
一瞬。
ほんの一瞬、伊明の脳裡に幼い頃の記憶が走った。
みきざきいめい。
なにかあったらまず名乗れと教えてくれた父の声。名乗ったとたんに逃げだしていく人の顔、慌てふためくその背中。
「いったい――」
伊明の声は掠れていた。
「なんなんですか、それ。役目とか、特殊な血とか」
「それを説明するためには、もう一つ、話しておかなければならないことがある。シンルーと相対する存在、ギルワーのことだ」
――ギルワー。
「琉里が受け継いでるっていう……」
もう一方の、特殊な血。
「そう」
卦伊の穏やかな瞳が伊明から外れた。庭に面した障子へと向けられる。
「あれは害虫みたいなものでね」
「……は?」
あまりにもさらりと――毒を含んだ言葉が放たれた。卦伊は障子へ顔を向けたまま、瞳だけを伊明に戻して意地の悪い笑みを浮かべる。
「せっかくだからこれも三文小説風に言おうか。ギルワーと呼ばれる存在は、言うなれば世に蔓延る魔物であり、悪戯をはたらく妖魔であり、人間に危害をくわえる悪鬼でもある。あるいは――」
眼鏡の奥で、右目だけが細められる。
「生き血を啜る殺人鬼」
なによりも重たく響いたその一言。
伊明は大きく目をみはる。
「それが、ギルワーだよ」
そう結んで、卦伊は伊明の反応を見守るように口を閉じた。
生き血を啜る――。
殺人鬼――?
言葉を失った伊明を見、一拍おいてから卦伊はふたたび口を切った。
「シンルーはね、彼らに対抗できる唯一無二の存在なんだ。なぜかというと、僕たちには特別な血が流れているから」
特殊、ではなく、特別、と言い換えて。
「この血はね、ギルワーを死に至らしめることが可能な――猛毒なんだよ」
――嗚呼。
繋がった。繋がってしまった。
あの夜の出来事から今の今まで、散らかされるだけ散らかされた情報が、この瞬間、一気に――雪の斜面をふくらみながら転がっていく雪玉みたいに――駆け抜けていく。
凡人との差別化なんて言葉を使い、自分たちを『神の矢』と喩えた識伊。
常軌を逸しているとしか思えないしきたりを『血を守るため』と言いきっていた実那伊。
あの夜、血を見た瞬間に琉里がとった行動。倒れたとき、苦しそうにしていた琉里は喉をおさえていなかったか。まるで毒を呑んだ人のように。
そして、父は訊いた。こだわっていた。
琉里が自分から血に口をつけたのか、どうかを。
話そうとしなかったのは――。
琉里がギルワーの血を引いているから。
『生き血を啜る殺人鬼』と称される、ギルワーの血を。
家族のなかでたった一人、琉里だけが。
眩暈が、した。
額をおさえる。頭が鉛のかたまりにでもなったみたいだ。手のひらだけでは支えきれず、座卓の上に肘をつく。ぐにゃりと背中が丸まった。体の芯まで抜き取られてしまったみたいだ。
「さて」
卦伊がぱんと手を叩いた。
「僕は宗家の当主代理なわけだけれどね、伊明君」
世間話でもするようなほがらかさで、卦伊が勝手にしゃべりだす。
「本来、僕には当主としての資格はない。僕は次男ではあるけれど、家族構成でいえば第三子――末子なんだ。伊生兄さんと僕のあいだに姉がいる。つまり、兄姉の中で僕はもっとも血が薄い」
伊明はのろのろと目を上げた。
「分家、宗家にかかわらず、家督を継ぐのはもっとも血の濃い第一子と決められているんだ。男女関係なくね。……さっきも少し触れたけれど、実は先日、先代が――僕たちの父が亡くなってしまってね。僕は急場しのぎの代理でしかないから、できれば早いうちに、兄さんか伊明君に、正式に当主の座についてもらおうと考えているんだけれど」
どうだろう、と卦伊が首を傾げる。
そのほとんどの言葉が伊明の頭にまでは届いていなかった。眉をひそめ「は……?」と訊き返す。
卦伊はそれをないものとしたらしく、また勝手にしゃべりだした。
「実那伊は、まずは伊生兄さんに宗家を継いでもらって、そのあいだに伊明君からそとの匂いを消すのが一番――という考えらしいんだけれど、僕としてはどちらでもいいと思っている。
君が伊生兄さんの血を濃く受け継いでいるのは一目瞭然だし、……ああ、心配しないで。もしも伊明君が継ぐとなっても、学生のうちは細々としたことは僕がやるから。徐々に引き継いでいく形にすればいい。もしも事務的なものが苦手なのであれば、そっちはそのまま僕が続けてもいいよ。当主に大事なのは、御木崎家の象徴として――」
「ちょっと待ってください、待って」
さすがに、止めた。雲行きがずいぶん怪しくなっている。
卦伊は不思議そうに瞬いて、
「なにかな」
首を傾げる。
「いや、なにかな、じゃなくて。なんの話してるんですか?」
「なんのって、だから――」
「当主とか、跡を継ぐとか……なんでそんな話、俺にするんですか。俺、関係ないですよ」
すると卦伊はさもおかしそうに笑い、
「いやいや。関係ないわけがないだろう。君は伊生兄さんと実那伊の息子なんだから」
「血のつながりはそうかもしれないけど」
「『血』がすべてなんだよ、伊明君」
言葉じりを喰らわれた。
伊明を見据える彼の瞳には、父によく似た高圧的な光が見えた。冷然たる微笑みは、実那伊と同じ不気味な冴えを孕んでいる。
「……あいつが」
伊明はふいと視線を外した。
「識伊が、いるじゃないですか」
ぽつりと呟く。
微笑む卦伊は、しかし呆れたように息をついて、
「伊明君、僕の話ちゃんと聞いてた? 家督を継ぐのは第一子と決まっている――そう言っただろう。識伊は実那伊の二番目の子供だし、父親である僕がそもそも末子なんだ。無理だよ、あれには」
言ってから、卦伊は袂に両腕を差し入れて、伊明の顔色を窺うようにじっと覗きこんできた。
「君は――すこし混乱しているようだね。まあ無理もないか、いきなりだもの。整理する時間が必要かもしれないね」
「…………」
整理もなにもない、とは思う。
けれど伊明は、あえて「はい」と頷いた。
卦伊はどこまでもマイペースに、強力に我を押しつけてくる。真っ向から反論しても無駄だというのはもうわかった。琉里のこともある。細かいことはあとで父なり遠野なりを問い詰めるとして、今はとにかく、一刻も早くここを離れるべきだろう。
卦伊が立ちあがったのをしおに、伊明もそばに投げだしてあったかばんを引き寄せた。
「ああ、待ってて伊明君。いま、部屋を用意させるから」
「……部屋?」
「夕食をとってゆっくり眠ったら、少しは気持ちも落ち着くよ。あいにく洋間はないけれど……畳で寝るのもいいものだよ。大丈夫。客人に出す布団は常に清潔にしているし、ふかふかしてるから寝心地も悪くない」
見当違いな説明をして、卦伊は当然のように笑っている。
「……泊まっていけって、ことですか」
「泊まるっていうか――……ああ、伊生兄さんのことなら心配しなくていい。実那伊が連絡を入れているはずだから」
「いや、そういうことじゃ」
言いかけて、はっとした。
実那伊が父に連絡を入れた――。
黙っているようにと言っていた実那伊が、自ら父に――。
「……帰れると思っていたのか」
ぽつ、と耳に届いた呟き。
卦伊はすでに内廊下へ続く襖を開けていて。
「案外、可愛いところがあるんだね、伊明君」
いたずらっぽい笑みの中で、不気味に冴えた卦伊の瞳。いっそう細められたそれが、襖の向こうに消えていく。
◇ ◆ ◇ ◆
いつのまにか気を失っていたらしい。それとも眠っていたのだろうか。
琉里は重たい体をのろのろ起こした。
――少しも、楽になっていない。
むしろ倦怠感は増している。体の渇きも、喉の渇きも、癒えるどころか先ほどよりもいっそう強くなっている。
壁に肩を預け、琉里は腕を伸ばして自分のリュックを引き寄せた。手を突っこんで中を探る。指に触れたものを片っぱしから取り出していく。
財布、タオルハンカチ、ウェットティッシュ――出しては床に落としを繰り返し、ようやくスマホを探り当てた。
液晶画面のまぶしさに目を細めながら、伊明の番号を呼びだした。発信の表示に触れる。
つながらなかった。
圏外だった。琉里のスマホ自体が。
「…………」
手からスマホが落ちた。
ゴト、と無情な音を立てて床を打つ。
どこかで。
小鳥がぴぃと鳴いた。
朦朧とする意識のなかで首をめぐらせると、薄暗い室内にほんのりと白く浮かびあがっているものがある。
ぴぃ。――ぴぃ。
小さな鳥。文鳥だろうか。白い文鳥。
ときおり羽根をふるわせながら鳴くそれを、琉里はぼうっと眺めていた。それもじっと琉里を見ていた。
手を伸ばす。
カシャ、と指先が鳥かごに触れた。
閉ざされていたかごの戸は簡単にあいた。そっと手を差し入れると、導かれるように、小さな足が指先に乗る。
ぴぃ。――ぴぃ。
右に、左に、傾ぐあたま。
両手で包みこむと、とくとくと血の脈動が伝わってくる。
温もりを運ぶ血の脈動――。
生命をつなぐ豊潤な水音――。
琉里の唇から。
渇いた吐息が短くこぼれた。
#3 父の背中
このままではまずいと、さすがに思う。
伊明は客間に坐したまま黙然と考えこんでいた。
雲行きが怪しいどころか、事態はとんでもない勢いでとんでもない方向に転がりつつある。伊明自身もいまはほとんど軟禁に近い状況に置かれていた。
廊下には言わずもがな張間がいる。庭に面した障子の向こうにも、卦伊が出て行ってからすぐに見張りらしき影が二つばかり追加された。
襖で仕切られた隣の間には誰もいないようではあるが――実際に視認したわけではなく、物音もなく人の気配もしないという理由からの推察だけれど――、家屋の造りからして、どこへ行くにも結局は内外どちらかの廊下に出なければならず、見張りの黒服たちの目を盗んで行動するのは不可能に近い。
こっそり逃げだすのはまず無理だ。
離れで待っているらしい琉里と連絡を取ろうと何度かスマホを見てみたが、山の中だからなのか――圏外だった。
けれど、だからといって。
このままのんびりお泊まりなんて冗談じゃない。
――よかったわ、あなたが戻ってきてくれて。
――帰れると思っていたのか。
実那伊と卦伊、二人の言葉が耳の中で重たく響く。
卓上から目をあげた。内廊下へ続く襖を見やり、障子を見やり、ぐるりと首をめぐらせて隣の間に通じる襖を見やる。
無謀かもしれない。
でも、これしかない。
伊明はかばんに手を掛けたが、邪魔になるかと思いとどまり、財布とパスケースだけを取り出した。スマホとともにポケットにねじこみ、息を殺して立ちあがる。
この部屋からではどっちみち飛び出した瞬間に捕まるだろう。逃げるのなら隣の部屋からだ。うまくいけば数秒くらいは、きっと稼げる。
外廊下に出て、庭へ飛び降り猛ダッシュで離れに行く、琉里を連れて外へ逃げる――成功率は限りなくゼロに近いが、なにもしないよりは幾らもましだ。
伊明はそろりと襖に近づき、ゆっくりと開けた。
隣の部屋にはやはり誰もいなかった。明かりもついていない。
外廊下に面した障子が開け放されていて、訪れて間もない夜の空気が静かな雨音とともに流れこんでいる。
音を立てないよう壁に背中をくっつけて、そろそろと障子の陰へ移動する。
さすがに緊張した。
こわばる体を慰めようと深呼吸をひとつして、離れまでの距離、位置関係、見張りの二人の様子を窺うべく、障子の陰から顔を出した――ときだった。
「なにしてるんです、兄さん」
驚いた。心臓が口から飛んでいってしまいそうなほどに。
外廊下の縁に、識伊が座っていた。
雨の庭に足を投げだし、湿った前髪を耳の後ろに撫でつけながら、伊明を見あげて笑みを浮かべる。
識伊、と出た声は、思った以上に響いてしまった。
とっさに口をおさえたがもう遅い。すぐに隣で、すぱん、と障子や襖を開ける急いた音が聞こえ、張間が客間から、見張りの二人が縁伝いにやってきた。
覚悟はしていたが、まさかこんなところで、こんな形で見つかるなんて思わなかった。伊明は口をおさえていた手を額にやって、はあ、と深く嘆息する。
「なにやってんだよ、お前……」
「それはこちらの台詞ですよ。というか俺がいま言いましたよね。『なにしてるんです、兄さん』って」
澄ましきっている識伊に、伊明は恨めしげな目を向けて、
「俺はお前の兄貴じゃねーよ」
「兄でしょう、母親が同じなんだから」
「父親が違うだろ」
「ええ、そうですね」
識伊はあっさり頷いた。小さく笑って庭のほうへ顔を戻す。
傍らに立った張間に「伊明様、こちらへ」と、客間へ戻るよう促される。従うべきかいっそ強行突破すべきか、伊明が判断しかねていると――。
「俺が弟でないのなら」
うたうように、識伊がいった。
「母親の違うあの女も、妹ではない?」
指をさす。光のない庭。
影そのものみたいに森閑と浮かんでいる、黒い離れを。
「……は?」
感情が、波立った。
伊明を横目に、識伊は器用な動作でするりと板敷の上に立ちあがった。尻の汚れをはたきながら、ふたたび離れへ顔を向ける。
「あそこは――あの離れは、もともとは茶室だったそうですが、今はギルワーを幽閉するために使っているんです。こちらの準備が整うまでの――いわば一時的な牢獄ですね」
自然、伊明の瞳も離れへ、動く。
「この家には、ギルワーの牢獄が二つあります。一つはいま言ったとおり、幽閉に使う庭の離れ。もう一つは、地下にある。俺達は地下牢と呼んでいますが……要するに処刑場です」
「……なに……?」
しょけいじょう――処刑場、と言ったのか。いま、識伊は。
「識伊様」
見かねた様子で張間がたしなめる。
しかし識伊はそれには応えず目もくれず、伊明の神経を逆撫でするような厭味な笑みをわざとらしく顔中に広げ、なのに声は無邪気らしく、
「この母屋や地下牢よりはましでしょうけど、ギルワーにとっては、あの離れの空気も相当苦しいはずですよ。あなたがここでのんびり話しているあいだ、腹違いの妹は――ああ妹じゃないんでしたっけ? 彼女はあそこで一人苦しんでいたわけです。可哀想にね」
「識伊様、それ以上は――」
「無事だといいですね、あの女」
識伊様、と張間が語気を強めるのと。
伊明が大きく一歩踏み込んだのと。
同時だった。
ごつッ、とにぶい衝撃が拳を通して腕に伝わる。
ほとんど無意識だった。体が勝手に動いてしまった。堰を切る。箍が外れる。膨れあがった苛立ちの、暴発だった。
識伊の左頬を力任せに殴ってしまったことに一瞬遅れて気がついて、伊明はちょっと動揺した。が、動揺したままでもいられなかった。
視界の端に、息をのんで立ち尽くす黒服二人の顔が映る。後方で張間が動く気配があった。
瞬きひとつ落とせるか否かの時間が、スローモーションみたいに伊明のなかで流れていく。
決断は、早かった。
吹っ飛ばされた識伊の体が仰向けに庭に落ちていくのを見届けることなく、伊明は駆けだしていた。靴下のまま庭に飛び降り、一直線に離れに向かう。
識伊様、と慌てふためく声がする。
伊明様、と発したのは張間だろうか。
黒服たちの声を背に、伊明はがむしゃらに突き進んだ。
離れにも見張りが一人立っていたようだがすぐに異変を察知したらしい、伊明が気づいたときにはもう、軽やかな足取りで、トン、トン、トンと池の飛び石を渡っているところだった。庭に足を着けるや身をひるがえし、こちらに向かってくる。
緑がかったアッシュグレイの髪。母屋からもれる灯りを受けて、耳のあたりがちらちらと光っている。
好戦的な笑みを浮かべた、その顔。
憶えている。琉里を無理やり引きずっていった男だ。
名前は、たしか――。
「来海!」
背後から、張間の太い声が飛んできた。
思いのほか、その声は近かった。真後ろではないにしても、張間が追ってきているのは間違いない。
ただ、振り返って確認する余裕は伊明にはなかった。
前方――すぐ先に、来海がいる。待ち構えるつもりはないらしく、向かってくること猪のごとしである。
足を止めれば張間に捕まる。このまま進めば来海とぶつかる。
うまく躱すしか、ない。
幸い、というか皮肉にもというべきか、父の教育のおかげで慣れているのだ。迫る来海の一挙手一投足――肘の動き、肩の動き、足の動き――微細な変化も見逃すまいと、伊明は全神経を集中させた。
殴りにくるか。
――いや、真正面からぶつかるつもりか。
ならば、と伊明は相手の左をすり抜けようと重心を移動させる。ぶつかるか否かのぎりぎりのところで。
すれ違う。
目と目が合った。
その一瞬のことだった。
伊明は呆気なく――本当に呆気なく、仰向けに引き倒された。
なにが起こったのか、なにをされたのか、わからなかった。それほどに相手の動きは無駄がなく、なめらかで、そして速かった。
感覚と視覚情報だけでいうのなら。
体が、くん、と後ろに引かれた。動かしていた足が宙を掻き、雲に塞がれた空が視界いっぱいに広がった。叩きつけられる、というより、背中から落ちていくような感覚だった。
そこに来海の行動を添えるのなら。
すれ違いざまに内肘に手を引っ掛けた――ただ、それだけだった。
伊明は慌てて起き上がろうとした。
途端、どつッ、となにかが顔の真横に突き立てられる。その勢いたるや。雨でぬかるんだ土が飛んで、伊明の頬に数滴跳ねた。
見ると――警察官が持っている、黒い警棒のようなものだった。
横にしゃがみこんだ来海が、伊明を見下ろし、にっこり笑う。
「次、口ン中いれますからね? 伊明様ァ」
音と音がつながっているような間延びした喋り方。うすら寒さを覚える笑顔。伊明は一瞬怯んだが、すぐに己を奮い立たせ、
「……やってみろよ、できるもんなら」
「ハイ?」
訊き返してくる暢気な顔目掛けて、握りこんだ泥土を投げつけた。
おぁ、と来海が顔をそらし、よろけるようにして立ちあがる。伊明はその隙に跳ね起きた。
が、駆け出すことはできなかった。
立ち上がりかけたところで後ろからのしかかられ、ぬかるみの中に、今度はうつ伏せに倒される。抵抗する間もなく腕を取られ、捻りあげられた。肩関節が軋む。みし、と厭な痛みが走る。
「くっそ、離せ……!」
逃れようと身をよじる伊明の背中に、有無を言わせぬ負荷がかかる。頑丈な木杭のような膝が伊明を地面に縫い留める。
「伊明様」
張間だった。
「貴方を傷つけぬようにと、実那伊様からも卦伊様からもきつく言われております。あまり手荒な真似をさせんでください」
「ア――――、クソ、泥食っちまったァ、気ッ持ちわるー」
平淡な張間の声。悪態をつく来海の声。
まるで赤子の手をひねっただけとでもいわんばかりの二人の態度に、伊明は悔しげに歯噛みした。顔を上げ、池に浮かぶ離れを睨む。
――琉里は。
琉里は、無事なのか。
距離はそう無いはずなのに、やけに遠い。やけに静か。
そこだけが別の空間に在るかのように。
琉里、と。
妹の名が、唇の隙間から漏れた。
無事ならばそれでいい。識伊の話が、伊明を煽るための嘘であったならどんなにかいい。少しでも顔を出してくれたら、きっとそれもわかるはず――。
「琉里ッ……!」
と、そのとき、不意に張間の拘束が緩んだ。
「識伊様……?」
惑う声が落ちてくる。
少し離れた位置に、さっき殴り倒したはずの識伊が立っていた。
着崩れた着物もそのままに、わなわなと震える手には何かが握られている。湯飲み茶碗、だろうか。先ほどまで客間の卓上に乗っていた――。
左頬が赤く腫れあがっている。口の端に血を拭ったような跡もある。
その表情は、怒りに満ちていた。
目が合うなり識伊はいっそうまなじりを吊り上げた。握っていた湯飲みを思いっきり、伊明に向かって投げつける。
自由を奪われた伊明に避ける術はむろんなく、とっさに顔を背けたけれど無駄だった。ゴッ、と頭蓋を直接殴られるような衝撃が、こめかみのあたりに鋭く走る。
「識伊様、なにを……――お待ちください」
識伊はなおも気が晴れぬといった様子で、憤然と、猛然と、大股でこちらに近づいてきた。張間が素早く来海に目配せをした。片手を挙げて母屋でおろおろしている黒服二人を呼び寄せる。
唖然としていた来海がまず、慌てて識伊に駆け寄り、止める。
「ちょッと、識伊様――」
「よくも!」
発せられた識伊の声は、これまでの彼からは想像もできないようなヒステリックなものだった。
「よくもッ……裏切り者の血を引くお前が! 禁忌を犯して、母を捨て、家を捨てた、穢れた男の血を引くお前が、宗家の嫡子たるこの俺を――」
言葉を途切らせ唇をふるわせる。
殴った、と口にするのも忌々しいと言わんばかりに。
「――よくも、よくもッ!」
「ちょッ……落ち着いてください、識伊様」
「うるさい来海! 離せ、離せッ!」
「識伊様!」
「邪魔をするな!」
来海の腕のなかで識伊は手足を振り回した。
駄々をこねる幼児のようだが、目は血走って鬼のよう。
「殺してやる。薄汚いギルワーの血を引くあの女も、こいつも、今ここで殺してやるッ!」
「……識伊様を奥へ」
苦々しく、張間が命じる。母屋から駆けつけてきた黒服二人がそれを受け、識伊の両脇を抱え込むようにがしりと掴んで来海から引きはがした。
すると識伊は目をむいて、髪を振り乱しながら黒服二人を交互に睨めつけ、
「なんだ、なんでここにいる! 向こうにいろと言ったはずだ、お前らまで俺の邪魔を、――離せッ、離せって言ってるだろ!」
変声期特有のひび割れた声で息つく間もなくわめき散らす。
それを必死になだめながら、黒服二人はほとんど引きずるようにして、識伊を母屋のほうへ連れていった。
「……はァ、びびッたァ。なんですか、ありゃ」
見送りながら、来海が気の抜けた声を出す。
張間はやはり苦い顔で、
「識伊様は――聡明な方には違いないが、いささか情緒不安定なところがある」
「へェ? でも俺、宗家付きになってから三年経ちますけど、初めて見ましたよ。識伊様があんなンなるの」
「酷かったのは幼少期だ。今はずいぶん落ち着いた、と――思っていたんだが」
溜息まじりにそう言って、張間はようやく呆然としている伊明へ視線を落とした。
「大丈夫ですか、伊明様」
ろくろく返事もできなかった。
この家に宿る狂気を、識伊という少年を介して――全身に浴びせられたみたいだった。そのショックは大きく、伊明のすべてが錆びついた。
拘束を解いた張間の気遣わしげな手に支えられながら、やっとのことで上半身を起こす。ぎっちり締められていた肩関節の尾を引く痛みも、湯飲みをぶつけられた頭部のずきずきとした熱も、どこか他人事のように感じられた。
土の上に、スマホや財布などポケットの中身が散乱してるのさえ、伊明には、灰色の景色の一部に見えた。
――だから、気づかなかった。
静寂に包まれた山道を駆けのぼってくる、車の走行音があることに。
それを聞き留めた張間が、来海が、動きをとめて門のほうへ視線をやったことに。
空気を裂くようなブレーキ音が、響き渡った。
外で短い悲鳴が上がったかと思うと、門のすぐ隣に設置されている勝手口が、吹き飛ばんばかりの勢いで開け放たれた。
押し入ってきた人影が、まず一つ。
伊明たちが来たとき同様、門の内側には――おそらく常時、門の外にも――門番よろしく待機している黒服が居る。その人影は、目にも留まらぬ速さと野獣のような豪快さで、突然の事態におののく黒服を一撃で殴り倒した。
それとほとんど同時に、もう一つ、人影が飛びこんでくる。
門の内側で合流した二人の侵入者は、脇目もふらず、庭を――こちらを目指して駆けてくる。
「まさか――……」
張間の目が、驚愕に見ひらかれる。
一方来海はさして取り乱す様子もなく。
「迎撃しますよ、張間サン」
それは共闘を促すものではなく、ただの意思表示だった。先ほど伊明に対したときと同じように好戦的な笑みを浮かべ、迫りくる侵入者たちのほうへ駆け出す。
「待て、来海」
聞こえなかったのか、それとも聞こえぬふりをしたのか。
来海は止まらなかった。
張間の手が伊明から離れる。立ち上がりかけていた伊明は突然支えを失って、ふたたび地面にくずれてしまった。膝をつき、両手をつく。痛めた肩が悲鳴をあげた。片方の肘がかくんと抜けてぬかるみに落ちる。
鼓膜が分厚い皮膜にでも変わったみたいに、張間たちの発する声がにぶって聞こえる。
錆びついた思考は、視界さえもぼやけさせていた。
伊明はのろのろと顔をあげ、騒動のほうへと目を凝らす。
来海が侵入者の一人に襲い掛かっている。張間がそれを止めようとしている。
侵入者のほうは――臨戦態勢をとってはいるが積極的に攻撃を仕掛けるつもりはないらしかった。
知っている、あの動き。
相手の攻撃を誘うような――あれは――。
「……――い、おい!」
ぐいと胸ぐらをつかまれ、乱暴に引き起こされた。
伊明はとっさに腕を振るう。本能的な防御行動だった。が、腑抜けた状態にあるせいか大した抵抗にもならず、逆に、思いっきり頬をはたかれた。
「俺だ、伊明!」
聞き慣れた声。
良く知っている顔が目の前にあった。
「……遠野、先生……?」
ここにいるはずのない近所の町医者。
どうして、こんなところに、この人が――。
「琉里はどこだ!?」
「……え……?」
訊き返したとたん、ばしん、とまた頬をはたかれる。
「しっかりしろ馬鹿野郎! 琉里はどこにいる!?」
「……あ、池の――」
と、伊明が言いかけたとき。
「遠野、伊明を頼む」
頭上に落ちてきた低い声。
首をめぐらせた伊明の横を、走り抜けていく者があった。
広い背中。しわ一つないベスト。肘まで捲り上げられたワイシャツ。
左腕の、傷痕。
「……父さ――」
「おい、ぼけっとしてる場合じゃねえぞ」
下からがしりと顎を掴まれ、遠野のほうに向かされる。両頬に掛かる親指と四指に無遠慮に力が込められ、ひょっとこみたいな顔にさせられる。
さっきの平手打ちといい、これといい――。
伊明は無言でその手を払った。
「……あんた、ほんとに医者なのかよ」
「ああ?」
うつむいた伊明の口元がほのかに緩んだ。
言葉のわりに、声にいつもの尖りはない。よそよそしさも、素っ気なさも。
「やりすぎだろ、患者の顔ひっぱたくとか」
「お前が阿呆ヅラ晒してるからだろうが」
「それが医者の言うことかよ」
「医者医者ってうるせえな。知るか」
伊明の唇が、ゆるやかに弧を描いていく。肩をおさえて立ちあがった。
「……どっか痛めたか」
しゃがんだままの遠野の瞳が、伊明の肩に、赤くなっているだろうこめかみのあたりにちらちら動く。
「べつに。たいしたことない」
「そうか。――いけるか、伊明」
遠野が母屋のほうをちょいちょいと指さした。
十人以上はいるだろうか。母屋から、警護の者たちが侵入者を排除しようと吐きだされてくるのが見えた。
ほとんどが黒いスーツに身を包んでいるが、中には、伊明にお茶を出してくれた仲居さんのような女性たちが老若含めて三人ばかり、たすき掛けに六尺棒を装備して混じっている。彼女たちは庭に飛び降りたところで構えの体。母屋の護りを仰せつかっているらしい。
一方、黒服たちは離れに向かう父のほうへ半分以上、残りが伊明たちへ向かってくる。
片腕、しかも利き腕が肩の痛みでままならないのは厳しいが――いくしかない、と伊明は頷いた。
遠野がにやりと笑み、立ち上がる。
「面倒だから振りきれる奴は振りきるぞ」
その場で迎え撃つつもりはないらしい。
彼らを横目に、父を――伊生を追って駆けだした。
伊明もそれに続きながら、ふと思いだしたように首を巡らせた。
さっきまで父と対峙していた来海は、尻もちをついた格好で鼻をおさえ呻いていた。張間は傍らに膝をつき、牽制するように来海の胸のあたりに太い腕をおいたまま、信じられないものでも見るような目で伊生の背中を追っている。
外廊下には、騒ぎを聞きつけて出てきたらしい卦伊と実那伊の姿もそれぞれあった。実那伊のそばには振袖姿の少女がいる。たぶん、末娘の由芽伊――なのだろう。
卦伊も実那伊も、張間同様、愕然と――まるで瞳を縛られたみたいに、伊生の姿を追っていた。
◇ ◆ ◇ ◆
外の騒がしさに、琉里はようやく瞼をあげた。朦朧とした意識のなかで、閉ざされた木戸へと顔を向ける。
あれ、私――……。
声にならない声でつぶやく。
記憶が飛んでいる、気がする。
いや、飛んでいるのか元からないのか――自分が起きていたのか寝ていたのか、意識があったのか無かったのかさえ、琉里にははっきりしなかった。頭のなかにぽつぽつとある空白が、本当に空白であるのかどうか、わからない。どの記憶があってどの記憶がないのかも、わからない。
琉里、と。
呼ぶ声が聞こえた。
あれは伊明の声だろうか。
琉里。
また聞こえた。今度は父の声によく似ている。
琉里は、体を引きずるようにして木戸の前まで這っていった。懸命に、懸命に。自分を呼ぶ声に縋るように、その声の主を確かめるべく。
重たい腕を持ちあげて、木戸に手を掛けようとした、そのときだった。
ガタガタガタッ――。
木戸が揺れ、ぎこちなくも勢いよく、ひらかれた。
「琉里……」
伊明だった。
双子の兄が自分を見下ろし、大きく目をみはっている。
「……伊明……」
伊明は泥だらけになっていた。服も、顔も、どこもかしこも汚れている。彼も酷い目に遭ったのだろうか。
「琉里、お前……」
伊明が喉を詰まらせた。
「大丈夫か、なにされた?」
その腕に抱き起こされる。
ここへ来たときに感じた伊明への恐怖は、もうなかった。堪えがたい渇きもなくなっている。
なにかに支配されそうな漠然とした感覚だけが、ほんの微かに、頭をしびれさせるだけだった。
その正体を掴めないまま、琉里はぼんやりと伊明を見あげた。
「大丈夫か、琉里。――おい、琉里」
切羽詰まったような顔で繰り返す兄に、琉里は思わず笑ってしまう。
――ぼろぼろになっているのは、伊明のほうなのに。
「伊明こそ……泥だらけ。大丈夫……?」
「人の心配してる場合かよ」
どっちが、と言いたくて、でもどうしても声にならなくて、琉里は伸ばした手で伊明の頬をふにとつまんだ。泣き笑いみたいになる、伊明の顔。
「ごめんな、琉里。――帰ろうな」
優しい声に、安心した。すうと意識が遠ざかっていく。穏やかな夢にのみこまれていくようだった。
頭の芯がしびれる。
甘い匂いが鼻をくすぐる。
どこかで、だれかがうたっている。
ああ、こもりうただ、と琉里は思った。
小さいころにお父さんとよく歌っていた、優しい異国の子守唄――。
◇ ◆ ◇ ◆
琉里を助けだした伊明たちは、伊生の運転するレクサスで地元、矢方町への帰途へついていた。
山をくだり、市街地を抜け、高速道路に乗る。追手はなかった。先ほどまでのすったもんだが嘘みたいに、車内には静かな空気が流れている。――すったもんだ、なんて、そんな生易しいものではなかったけれど。
十人強の黒服を相手に、伊生と遠野が奮戦した。
本気の伊生はすさまじかった。伊明を相手にするときとは比べものにならない速さで、鮮やかに黒服たちを蹴散らした。遠野も遠野で、まるで野獣同然だった。暴力的な荒々しさで、こちらも黒服と応戦していた。
伊明も父仕込みの体術を駆使して奮闘したが――言ってしまえば『奮闘』が精一杯だった。
肩を痛めたせいもあるし、頭を打っていたせいもある。
伊明自身が父の教えに不真面目だったせいも、多分にある。
ただ、他の黒服たちも確かに武闘派ではあったけれど、来海みたいな洗練さも、張間みたいな熟練感もなかったように伊明には思えた。もしもあの二人が加わっていたら、きっともっと手こずった。
ともかくも、若干苦戦気味だった伊明は、すぐに「お前先行け」と背中を押され、大人二人に護られる形で離れへと駆けこんだ。
そのタイミングで、卦伊が退くようにと張間に指示を出したらしく、以降はスムーズに事が進んだ。
あれだけ執着を見せていた卦伊も実那伊も、なぜか引き留めようとはせず、出て行く彼らを、母屋からただ静かに見守っていた。
結果として、無事に脱出できたのだから良かったには違いない。
けれど――。
伊明は目頭をおさえて頭を振った。
あのとき目にした光景が、どうしても、離れない。
網膜に焼きつけられたみたいに、あのときに見た琉里の姿が――。
琉里は木戸のすぐそばにいた。
口のまわりには大量の血が付着していて、それが首や胸元までもを汚していた。足元には、血に染まった白い小鳥の亡骸が落ちていた。
生き血を啜る殺人鬼。ギルワー。
嫌でも卦伊の言葉がよみがえる。恐ろしいほどの真実味をもって。
伊明は必死にそれを思考の外へ追いだそうとし、懸命に否定しようとしていた。妹が、琉里が、そうであると――ただ、認めたくなかったのだ、琉里のためにも、自分のためにも。
「おい。大丈夫か、伊明」
後部座席から遠野が声を掛けてくる。
運転席に伊生、助手席に伊明が座り、後部座席には琉里と、彼女を診るために遠野が並んでいる。
「お前、頭打ってんだろ。眩暈とかするか?」
伊明は、いや、とだけ短く答えて、後部座席を窺った。離れで気を失った琉里は、いまだ目を覚ます気配がない。
「……どうだ、遠野」
伊明に代わって、前方を見据えたまま伊生が訊いた。
「琉里か? 大丈夫、とは言えねえが、まあ大事ない。うちでしばらく預かることにはなると思うが」
伊生がバックミラーへ瞳を上げる。
遠野はその視線に応えるように肩をすくめた。
「一、二週間ってところだな。ああそれとな、一応あとで、しっかり検査のできるデカい病院に連れてくぞ。俺か柳瀬が付き添うが、それでいいか?」
「ああ。頼む」
琉里の口元の血は、離れを出る際に伊明が拭きとっていた。
ほとんど凝固していたが、リュックのそばにスマホや財布とともにウェットティッシュが落ちているのを発見し、おかげで肌についたものはある程度綺麗にできた。
訊かれるだろうと思ったのだ。この血はなんだ、どうしたんだ、と。説明したくなかった。自分の見たものを――あれを、伊明は言葉にしたくなかった。
けれど意外にも、父は、琉里の服についた滴り落ちたような血の染みを見ただけですべてを察したようだった。吐血でもしたかと慌てる遠野にただ一言、「鳥だ、前に話しただろう」と言い、遠野もまたそれで納得したように苦い溜息をこぼした。
それがあっての、今の会話。
伊明は二人のやり取りを複雑な顔つきで聞いていた。
車窓へと、顔を向ける。
来るときに電車から眺めた風景は、駅周辺に広がる平たい町と、町と町のあいだを埋めるような長閑な田園風景と、遠くに見える低い山々だった。
いま窓の向こうに広がっているのは、すべてを暗闇に染められた、なんの色も陰影ももたない真っ黒な夜である。
「伊明」
父の呼びかけに、伊明は返事をしなかった。
「お前、なんであの家に行った」
「…………」
「実那伊は、お前が『自らすすんで戻ってきた』と言っていた。本当か」
「…………」
「どうして俺に黙ってた」
伊明は徹底して無反応を貫いた。
夜を睨み、窓枠に肘をつき、顎の下で拳を強く握りしめる。
いったん口をひらいたら終わりだと思った。
己の浅はかな行動がこの事態を引き起こし、琉里を巻きこんだ。自覚はある。父や遠野が来てくれなかったら自分たちがどうなっていたかもわからない。それも理解している。
だからこそ、口をひらけなかった。
感謝と謝罪よりも先に、ずっとわだかまっている強い感情が――父への不信や不満が噴き出してしまいそうだったから。
「おい、伊明」
今度は後部座席から。遠野である。
遠野は自身の白衣――御木崎邸に乗りこんできたときには羽織っていなかったから車に置いていたのだろう――で琉里をくるんで一段落としたらしく、スラックスのポケットから煙草を取りだし、一本くわえた。
「返事ぐらいしてやれ。こいつ、半狂乱で診療所に飛びこんできたんだぞ。お前らが誘拐された拉致されたーってな」
「やめろ、遠野」
伊生がバックミラー越しに睨みつける。
「フォローしてやってんだろうが」
「いらん。黙ってろ」
遠野はへいへいと肩をすくめた。後部座席の窓を少しだけ開け、煙草の穂先に火を点す。車内に流れこんでくる外の音と湿った空気に、煙草の匂いが少し混じった。
「自分からあの家に行ったのか。――答えろ、伊明」
「……今は話したくない」
「伊明」
「話したくないって言ってんだろ」
逃れようと出した声は、攻撃的なとげをもって車内に響いた。なのに伊生は眉ひとつ動かさない。ちらと伊明を見やっただけだった。
「話したくないで済むことじゃない」
――どの口が、それを言うのか。
自分はなにひとつ話そうとしなかったくせに。嘘までついていたくせに。
「……あんたは……」
伊明の拳から力が抜けた。ばかばかしさに唇が緩み、ゆがむ。車窓に映る自分の顔も、父の横顔も見たくなくて、伊明はその手で目元を覆った。
「あんたは、なんで俺たちを騙したわけ?」
「……騙した?」
「勘当されたのも嘘。実家と絶縁状態だっていうのも嘘。母親が蒸発したってのも嘘。俺と――」
ぐ、と喉に詰まる言葉を、伊明は無理やり押し出した。
「俺と琉里が……双子だっていうのも、嘘」
「伊明、それはな――」
身を乗り出すようにして割り込んでくる遠野を、伊明は強く睨みつけた。
「あんたも知ってて隠してた」
「俺が口止めしたからだ」
伊生が応じる。悪びれる様子もなく、弁解すらなく、淡々と。
「……どーでもいいよ。口止めとかそんなの、どうでもいい。なんで嘘ついたかって訊いてんだよ。シンルーとかギルワーとか、宗家がどうとか血がどうとか、ほんッとまじで意味わかんねー。なんだよそれ。なんで琉里がこんな目に遭わなきゃなんねーんだよ!」
支離滅裂なのは伊明自身もわかっている。でも止まらない。止められない。思考が追いつかない。烈しくなっていく激情を、自分でも、どうすることもできなかった。
伊生は――激昂する伊明を見ることもなく。
「お前が勝手な行動を取るからだ」
一瞬、何への返答なのかわからなかった。
それが最後の一言に対するものだと――その一言しか父は拾わなかったのだと気づいたとき、伊明の顔から血の気が引いた。
沸点を遥かに超えた怒りに、
「……ふざけんなよ」
と呟く声が上擦った。
左腕を伸ばし、伊生に掴みかかる。急な動きにシートベルトががくんと音を立て、肩に食いこんだが、伊明は構わず無理やり身を乗りだして父のシャツに指をひっかけ力任せに引き寄せようとする。
ハンドルが揺れ、車体が揺れた。
「おいやめろ!」
遠野が慌てて止めに入った。短くなった吸いさしをとっさに窓から放りだし、座席の間から腕を伸ばして伊明を引きはがそうとする。
しかし伊明は、止まらない。
「あんたがなにもかも隠すから、だからこうするしかなかったんだろ!」
「落ち着け馬鹿野郎! 御木崎は運転してんだぞ!」
「知るかよ!!」
いまにも殴りかかってきそうな伊明、それを荒い所作で押し留めようとする遠野――車内でじたじた暴れる二人に、伊生が大きく舌打ちをした。急ハンドルを切る。
追い越し車線を走っていたレクサスが中央車線へ飛びだし、そのまま左車線にはみだした。左車線後方を走行していたトラックが速度を落として激しくクラクションを鳴らしてくる。
伊生はすぐさま反対にハンドルを切った。
間髪入れずの急ハンドルに、遠野と伊明の体が大きく振れた。
シートベルトもつけずに腰を浮かせていた遠野は座席から転がり落ち、襟を掴んでいた伊明の手は宙を掻いた。そしてしたたかに、側頭部を車の窓に打ちつける。
車体は緩やかな蛇行を繰り返したのち、ようやく中央車線上で安定した。
トラックが尾を引くような怒りのクラクションを鳴らしながら追い抜かしていく。
「伊明、てめえこの野郎、殺す気か!」
体勢を立て直すなり今度は遠野が激昂し、ふたたび座席の間から身を乗りだしてきた。その鼻面に、伊生の裏拳制裁が入る。うめき声をあげた遠野は、尻もちをつくようにして後部座席のシートに沈んだ。
「ガキじゃあるまいし。大人しくしてろ」
伊生の鋭い一睨みがミラー越しに遠野、横に座る伊明にも向けられる。
「……クソ、ひでえ仕打ちだ。御木崎てめえ、治療費と出張料ぼったくってやるからな」
「黙ってろ」
「クソ野郎」
やや低めた声で、大人げない悪態をつく遠野。
伊明は返事もしなかった。父の横顔を睨み、窓の外を睨む。
車内に重苦しい沈黙が落ちた。
これだけ騒がしくしても、琉里が目を覚ますことはなかった。
身じろぎひとつしないまま、死んだように眠っている。
#4 シンルーとギルワー
診療所についたときにはすでに午後九時をまわっていたが、柳瀬は着替えもせずに残っていた。琉里と伊明の到着を待っていたらしい。彼女もすべての事情をのみこんでいるらしく、ぼろぼろの二人を見ても驚かず、ただ少しだけ同情的な色を瞳に浮かべて優しく迎えてくれた。
琉里はまだ目を覚まさない。
遠野は琉里を病室へ運び、柳瀬にあとの世話を任せ、後ろからくっついてきた伊生と伊明を院長室に招き入れた。
そこに入るのは、伊明は実質的には二回目である。
が、前回は怒りに任せて大股で通過しただけなので室内に意識を向ける余裕もなかった。
病室の右隣、受付カウンターのちょうど真裏に当たる院長室は、さほど広さもなく、こじんまりした事務室といったふうである。
真ん中に四人掛けの応接セットがあり、病室から入って左の壁際に事務机、その隣にはブラインドの下ろされている窓があった。
右にはもう一つ扉があり、これが受付につながっているらしかった。
その扉の奥に分厚い事務ファイルや医療関係の専門書などがそれぞれびっしり並んだ棚が二つある。ファイルの詰まった棚のほうは、下部は引出し、上部は鍵付きの硝子扉のはまった戸棚である。
正面奥には小さなシンクがあった。その周辺には腰丈くらいの冷蔵庫、電子レンジ、ポットなどの家電製品も置かれていて、なんとはなしの生活感を漂わせている。
琉里のような一時的な入院患者が出たときには、遠野もこの院長室に寝泊まりするのだそうである。
「とりあえずお前ら、父子で話せるだけ話してみろ」
遠野は冷蔵庫から取り出した緑茶飲料の缶を、応接ソファに斜向かいに座った伊生と伊明それぞれの前に置いた。自分は缶コーヒーを片手に、事務机の椅子を引き、伊明たちを見下ろすようにふんぞり返る。
伊生がひどく嫌そうな顔で遠野を見た。
「あん? なんだ御木崎」
「お前も聞くのか」
「そりゃあな」
当然のように言いきる遠野に、伊生は小さく溜息をついた。
病室に続く扉に顔を向け、
「ここの声は隣にも聞こえるんじゃないのか」
「大声出しゃそりゃ丸聞こえだが、この程度のボリュームなら平気だ。まあでも、琉里に聞かれる心配はねえだろうな。少なくとも明日の朝まではあのままだ。……とはいえ、叫んだり怒鳴ったりはしないでくれよ。あくまでも『お話をする』で頼むぞ」
「……」
「……」
伊生と伊明の視線がかち合いすぐに離れる。
しばらく互いに黙っていたが、やがて、伊生が口をきった。
「お前は、なにが知りたい」
伊明はわずかに眉をひそめて瞳をあげた。
「お前があの家で、なにを、どこまで聞いたのかはわからない。俺自身、どこからどう話せばいいのかも正直言ってわからない。……だから、お前の訊きたいことに答えてやる。お前はなにが知りたい」
「……どうせまた、『必要なら』って逃げんだろ」
「いや」
伊生は悄然と首を振った。
「すべてだ」
ひらいた膝に両肘を乗せ、組んだ手に額を乗せて項垂れている。いかつい背中が丸くなっただけで、こんなにも小さく――頼りなく見えるものだろうか。
父が父ではないようだった。
「琉里は――」
伊生から視線を外して、固い声で伊明が切りだす。
「俺たちとは違うんだよな」
「ああ、違う」
「俺たちも、普通の人とは違う」
伊生が瞳をあげた。咎めるような、嫌悪感を滲ませたような複雑な顔つきで伊明を見る。
「シンルーやギルワーについて、どの程度聞いた?」
「……あんまり、詳しくは。名前ぐらい」
伊明の表情が微妙にゆがんだことに伊生も気づいたようだったが、「そうか」と返しただけで深追いはしてこなかった。組んでいた指をといて両手を下ろし、
「先に言っておく」
声を厳しくして続ける。
「御木崎の人間はシンルーをやたら神聖視しているが、はっきり言って『血が違う』というだけで特別な存在でもなんでもない。対してギルワーも、お前の言うところの『普通の人間』とは少し違うだけで、決して忌むべき存在じゃない。
……確かに、悪さをはたらく奴も中にはいるが……それはギルワーに限ったことでもないだろう。『普通の人間』だって悪事に手を染める輩はいる。わかるな、伊明」
――なぜだろう。
父の言葉はことごとく卦伊の主張の逆をいっている。真っ向から対立しているように思える。同じ家で育ったはずなのに、同じ環境に置かれていたはずなのに――実の兄弟であるはずなのに。
なぜだろう。
普段なら些細な一言にさえ反発をおぼえてしまう父の言葉が、すんなりと、耳に入ってくる。
「……ギルワーって……結局のとこ、なに? 特殊な血が流れてるっていうのは、聞いたけど」
「まあ、わかりやすく言えば。吸血種の人間だ」
――吸血種の、人間。
本当に、本当にそんなものがいるのか。
「それって、吸血鬼とか、そういう……?」
「簡単に言うとな。厳密には、まったく違う」
「……どういうこと?」
「いまお前が思い描いているのは、多くの伝承や物語に出てくる――そうだな、ドラキュラ伯爵のような吸血鬼像なんだろう。
だが、ギルワーは違う。十字架、というか聖職者の持つ銀器だが、そういったものや大蒜が苦手というわけではないし、吸血しなければ生を保てないとか、太陽にさらされると焼けて消えるなんてこともない。墓場から蘇った不死の亡者なんかでもない。
彼らも母胎から産まれ、俺たちと変わらん普通の食事によって栄養をとり、歳を重ね、寿命が尽きれば死んでいく。……ただ――」
伊生はそこで声を落とした。
「――欲求がある」
「欲求?」
訊き返して、はっとする。
血、と呟くと、伊生が苦々しく頷いた。
「そうだ。血への欲求。生きていく上で必要不可欠なものではないにしろ……実際に血液を目にしたり、血の匂いを嗅いだりするとその欲求が高まるらしい。渇きがふくれあがって吸血行為に及ぶことがある、と――そう聞いている」
言いながら伊生は、椅子にふんぞり返ったままじっと二人のやり取りを見守っていた遠野へ視線を送った。
遠野は緩慢に背もたれから身を起こすと、手にしていた缶コーヒーを事務机の上に置いた。代わりに、机上の隅に置かれていた加熱式煙草――外と院内とで使い分けているらしい――を取りあげながら、
「生まれながらの中毒患者ってところだな」
その言葉の悪さにか伊生が眉をひそめたが、遠野は構わず、
「なくてもいいが、目の前に出されたら欲しくて欲しくてたまらなくなる。ギルワーの血が濃ければ濃いほど――要するにギルワー同士の間に生まれた奴、血筋になんの混じりっけもない奴なんかは、発作的に禁断症状が出ちまう場合もある。
……ひでえもんだぜ、まともに呼吸すらできなくなっちまうんだから。外見も人間離れしてくるしなあ」
――あの夜、幻覚や錯覚かとも疑った琉里の顔。こちらを見あげる、青灰色の静かな双眸。
「もしかして、目の色……?」
「そう。瞳の色がまず変わる。皮膚の色も、微妙に変わる。あと歯だな、犬歯が少し伸びたりする。牙みたいに」
遠野は唇の上から人差し指で、そのあたりをとんとんと叩いた。
犬歯については伊明も気がつかなかったけれど、ともかく、あのとき見た琉里の姿はやはり幻覚などではなく、ギルワーの特性によるものだった――ということか。
「……でも、変じゃないですか?」
「あ? なにが」
煙草をくわえたまま、遠野が片方の眉を跳ね上げた。
「だって俺、ガキの頃とかよく怪我してましたよ。転んだり、父さんとの手合わせだったり、この前みたいに包丁で指切ったことも何回もあった。あいつの前で血を流したのは、あれが初めてじゃない」
遠野は、あー、と濁った声を上げながら、ぼりぼりと頬を掻いた。
「ギルワーの性質ってのはな、成長とともに出てくるもんなんだよ。早い奴はガキの頃から血を舐めたがったり、似た匂いや味のするもの――たとえば鍵とか硬貨とかだな、好んで口に入れたりもしやがるんだが……それでも覚醒するのは十五~十八歳くらいの間がほとんどだ」
「覚醒?」
浮いて聞こえたコミックみたいなそのワード。
遠野は臆面もなく笑って、
「俺はそう呼んでる。格好いいだろう、特別な能力って感じがしてよ」
「……成長しないなお前は」
伊生が呆れたような眼差しを向ける。
遠野はふんと鼻を鳴らして、
「そりゃお前だ、御木崎。その上から目線の物言い、いい加減になんとかしろ。さんざん言ってんだろうが」
不毛とも思えるおっさん二人の軽口などそっちのけに、伊明はまじまじと遠野を眺めた。
やたら詳しく――ないだろうか。
父はギルワーに関する説明を完全に遠野にゆだねている。
――まさか。
「もしかして……遠野先生もそうなの……?」
遠慮がちに訊いてみると、遠野はしぱしぱと目をしばたかせた。が、すぐに弾けたように笑いだす。
「馬鹿言え、そんなふうに見えるか? 俺はシンルーでもギルワーでもねえよ。平々凡々な一般庶民だ」
「でも、じゃあなんで……」
「こんなに詳しいかって? 伊明。どうしてうちが紹介制かつ完全予約制にしてるか、わかるか?」
今度は伊明が目をしばたかせる。
遠野は肩をすくめて、
「ギルワー専門のクリニックだからだよ」
あっさりと、そう告げた。
伊明にとっては、それはそれで衝撃だった。専門でクリニックを開いてしまえるほど、世の中に、この町に、ギルワーと呼ばれる存在が多く居るという事実。
嘘みたいな話がいよいよ現実味を帯びてくる。
ほかの患者とはち合わせることも稀ではあったがゼロではなかった。ついこの前も若い女性と出くわしたばかりだ。
――あの人もギルワーだったのか。
そう納得しかけた伊明の脳裡に、彼女の驚愕した表情や逃げるように去っていった後ろ姿が、ふと浮かんだ。それが御木崎邸についたときの琉里と重なる。空気が毒だ、血が毒だと言った張間や卦伊の言葉とともに。
「……あれ? ちょっと待って」
そして、いまさらながらに気がついた。
琉里の存在の、不自然さに。
「ギルワーの人って、相手がシンルーかそうじゃないか……わかるんですよね、たぶん」
「ああ、らしいな。独特の匂いがあるってのはよく聞くが」
それがどうした、と遠野が表情で問い返してくる。
伊明は己の思考を整理するようにゆっくり言葉を継いでいく。
「俺、あの家で『シンルーの血はギルワーにとって毒だ』って聞きました。だから天敵を見極めるじゃないけど、本能的に避けられるようになってるのかなって、俺、いま思って――……でも、もしそうだとしたら、琉里は? そうやって本能で避けるくらいの猛毒が、琉里の体にも流れてるってことじゃねーの? あいつ、父さんの血も引いてるんだろ」
確認するように父を見たが――。
「だから、月に一度、俺が診てたんだよ」
答えたのは伊生ではなく、専門医の遠野だった。
「どっかの誰かさんのせいで、何度かすっぽかされちまったが」
「それは――」
知らなかったから、とは言いたくとも言えなかった。伊明は口をつぐむ。
「まあ、さておき、だ。結論から言えば――平気だった、今までは。ここから先どうなるかは、俺にもわからん」
「わからんって……。あんた、ギルワー専門の医者なんだろ」
思わず非難するような声がでた。
すると遠野は、それを上回るような険をもって、
「お前馬鹿か、日本語わかるか? ギルワー専門の医者ってのは、文字通りギルワーを専門に診る医者なんだよ。シンルーとギルワーの混血なんざ専門外もいいところだ。……まあもっとも。そいつとは腐れ縁だし乗りかかった船でもある。前々からいろいろ調べちゃいる。調べちゃいるが――あいにく、前例がない」
そう言って、よりとげとげしい視線を伊生へ移す。
「それだけとんでもねえ事態だってことだ」
「……最悪だ」
それまで巌のように固まっていた伊生が、頭を抱えて低く呻いた。
「こうなることを、俺はずっと――」
言葉を飲みこむ。唇を噛む。
全身から、静かで、暗く、けれど強い懊悩が滲みだしてくるみたいだった。
そんな伊生を見下ろして、遠野はふんと鼻を鳴らした。
その瞳に同情の色は微塵もない。
「自業自得だ。一線だけは越えるな――、何度もそう忠告してやったろうが。お前にも、『あいつ』にも。お前ら自身でケツ拭けんなら文句はねえが、結局、それをまるごと負ってんのは誰だ。負わされてんのは誰だ。あんな小っせえ体で咎背負わされる琉里の身にもなってみろ」
容赦のない、矢のごとき鋭い視線と責めの言葉が伊生を貫く。
伊生は、なにも言わなかった。
重苦しい沈黙が落ちると、遠野は腹の底から溜息をついて、がしがしと頭を掻いた。
「……まあ、なんだ。過去をほじくり返したところで解決するわけじゃなし。心配しなくても、手は尽くしてやる。俺なりに、できる範囲でな。……だからおい、伊明もそんな顔すんな。琉里のことはなんとかしてやるから」
父から遠野へと瞳を移し、伊明は機械的に頷いた。
――自分はいま、いったいどんな顔をしていたのだろう。
ただ、あまりにもいつもと違う――いつもの父からは想像もできない打ちひしがれた姿を見て、少し、驚いてしまったのだ。
ふたたび落ちた沈黙が、それぞれの肩に重たくのしかかる。
遠野は新しい煙草を噛みながら、やや難しい顔をして病室の扉を見つめている。伊生は石像のようにうつむいたまま微動だにしない。
そんな父の姿をまたぼんやりと眺めていた伊明は――やがて、静かに口をひらいた。
「父さん」
伊生の肩が、ぴく、と動く。
「なんで嘘ついたの?」
自分でも驚くほど無感情な声が出た。
べつに追い詰めようと思ったわけではない。
ただ知りたかったのだ、その理由を。
けれど沈黙のなかで発せられた抑揚のない声はひどく冷然と、室内に――二人のあいだに、響いた。
伊生は、ふ、と息をはいた。こわばっていた肩が落ちる。薄く、乾いた唇が自嘲気味にゆがんだ。
「家のことか、母親のことか」
「俺たちのこと」
伊生は顔を上げて伊明を見、立ちあがった。ブラインドの下ろされた窓のそばに行き、事務机を人差し指でトントンと打った。遠野はすぐにその意を察したらしく、スラックスのポケットをまさぐって、煙草とライターを重ねて伊生の手元に置いた。
「窓開けろよ」
ブラインドが上がり、煙の逃げ道を作る程度に開けられた窓の向こうに、暗い駐車場と、父の車が停まっているのが浮かんで見えた。雨足が強まったのか、ざあ、と町をたたく雨の音も流れこんでくる。
煙草をくわえながら伊生は伊明を振り返って、すまんな昔吸ってたんだ、と言い訳するように言った。
この場にもしも琉里がいたら――体にわるい、とでも言いながらきっと取りあげていただろう。そんな光景をぼんやり思い浮かべながら、伊明はただ、父の返答を待っていた。
伊生は窓に向き直って煙草に火をともした。広い背中がゆっくりとふくらんで、やがて、吐きだされた煙が窓の外に逃げていく。
「俺たちの血は呪われている」
呟くようにして、父は言った。
「少しでも遠ざけたくて、嘘を重ねた」
「……どういう意味?」
「憶えてるか、伊明。お前がまだ小さかった頃、採血が済んだ後のことだ。――お前は、はっきり言って普通じゃなかった。今でこそだいぶ自制が利くようになったみたいだが、あのときのお前は、完全に煽られていたように俺には見えた。
……血を抜かれると妙な気分になるだろう。ひどく高揚するし、攻撃的にもなる。それが、俺たちの血にしみついた本能という名の呪いだ。――ギルワーを殺すためのな」
「ギルワーを、殺す……?」
「ああ」
伊生は静かに頷いた。
「さっき、血への欲求の話はしただろう。その欲求をなによりも高めてしまうのが、俺たちシンルーの血だ」
「……待てよ。猛毒なんだろ、俺たちの血はギルワーにとって」
「だからだ、伊明」
先ほどまで打ちひしがれていたとは思えないほど、伊生は淡々と説明していく。教科書でも読むみたいに。
「食虫植物にでも喩えればわかりやすいか。ギルワーにとっては、シンルーの血が毒であると同時に甘い蜜のようなものでもある。俺たちの放つ『匂い』に彼らは引き寄せられ、勝手に飢餓状態に陥るんだ。
さっき、お前は言ったな。本能によって天敵を避ける、と。だが、そうじゃない。本能的に惹かれるんだ。その先に待っているのが『死』だと知っているから、捕らわれる前に逃げだす。
――……シンルーの役目はな、花にとまった蝶に猛毒の蜜を飲ませて殺すことにあるんだよ」
そう言って、嗤う。
唇の端をもちあげて、つめたい光を瞳に湛えて。
皮肉めいた比喩と強い言葉を使う父に、伊明はなにを言うこともできなかった。まともに反応を返すことさえできない。
「お前と琉里は、もとから兄妹として育てるつもりでいた。双子だと偽ったのは、単純に、生まれ月が二月しか離れていなかったからだ。幸い、ギルワー関連の裏工作には遠野が精通しているしな」
「……人聞きの悪い。届出をだすときに出生日をいじっただけだ」
不満そうに言ってから、遠野は伊明に向けて簡単な説明を加えた。
「ギルワーってのは、まあ、いろいろ事情があってな。届出が遅れることもめずらしくないから、提出期限も一般よりも長めに定められてんだ。しかるべき機関に届け出さえすれば、ある程度のタイムラグは見逃してもらえる。それなりの口実は必要だが」
よく、わからないが――。
つまり、戸籍上でも琉里と伊明は双子になっている、ということか。いや、母親が違うのだから結局は出生日が同じになっているだけ――ということになるのか。
しかるべき機関というのも気にはなったが、訊くよりも先に伊生がふたたび語りだす。
「ただ、折を見て、いつか、すべてを打ち明けようとも思っていた。お前がシンルーであることも、琉里がギルワーの血を引いていることも。『普通』とは違う、相反する二つの存在のことも。……知っておくべきことだと、俺自身そう考えていたんだ、最初の頃は。でも、甘かった。採血のあとの様子を見て、間違いなく、お前にも俺の血が流れていると……実感した」
「……それは、当たり前だろ。俺はあんたと実那伊さんの――」
「そういうことじゃない。性質の話だ」
「性質? シンルーの――呪われたなんたらってやつ?」
ばかばかしい、とばかりに笑う伊明を、いや、と伊生は否定して。
「殺人鬼の性質だ」
「……は……?」
殺人鬼。
あの家でも、同じ言葉を聞かされた。卦伊が言っていた。ギルワーに対してではあったけれど――。
生き血を啜る殺人鬼。
殺人鬼を殺すための殺人鬼。
そんな物騒な性質を受け継いでいると――そんな狂気的な性質があると、父は言っているのか。息子である、自分に対して。
「そとで育てたからといって完全に拭いきれるものではない。知れば、自分の力を試そうとするかもしれないし、御木崎家に戻ると言いだすかもしれない。それだけは、なんとしてでも避けたかった」
「……なんだ、それ……」
握った拳が、ぎり、と音を立てる。
「あんたは、俺が『殺人鬼』になるかもって……本気で思ってたわけ?」
伊生の指のあいだでフィルター近くまで焼かれた煙草。長い灰がほとりと落ちた。窓硝子に映る伊生の顔は影のように真っ黒で、その表情はまるで見えない。
「ああ」
伊生が低く答えた、瞬間。
「ふざけんな!」
立ちあがった伊明が、テーブルの上に置かれたままになっていたボトル缶を引っ掴み、力任せに投げつけた。伊生の顔の真横を抜け、窓硝子にヒビを入れて床に落ちる。
「おい、なにやってんだ伊明! 落ち着け!」
父親に掴みかからんとする伊明を、二人のあいだに割って入って遠野が慌てて制止する。その声を聞きつけたか、何事かと柳瀬までもが血相を変えて病室から飛びこんできた。
しかしそれらのすべては、伊明の意識の外にあった。
ただまっすぐに、こちらを向こうともしない父の後頭部を睨みつけ、遠野の腕をしゃにむに振り払おうともがきながら、激昂するまま声を放つ。
「ふざけんなよ、そんな話があるかよ! あんた腐っても父親だろ、一緒に暮らしてきた父親だろ!? それなのに俺がそんな、そんな異常者みてーな……殺人狂になると本気で思ったのかよ! 俺がっ……実の息子が!!」
伊生が、ゆっくりと振り返った。伊明を見据える。
否定もしない。なにも言わない。
冷然と――ただ、こちらを見返してくるだけ。
伊明の膝から、力が抜けた。
「あんたはほんと……ほんと、なんでそうなんだよ……」
くずおれた体を遠野の腕に支えられる。駆け寄ってきた柳瀬の手が背中に添えられる。二人の同情的な手も、視線も、振り払うことができないまま。
伊明は小さく、ぐ、と喉を鳴らした。
◇ ◆ ◇ ◆
琉里はいまだ目を覚まさず、伊明は一人で帰っていった。ひび割れた窓硝子の、新聞紙とガムテープを駆使してのひとまずの補強を手伝って、柳瀬もまた帰っていった。
院長室には、伊生と遠野の二人が残っている。
「……お前は本当に言葉を選ばねえな」
遠野が言った。
両手を頭の後ろで組み、椅子にふんぞり返って。
「もうちっとあんだろうが、言い方ってもんが。あそこで『ああ』って言うか普通」
伊生から返ってくる言葉はない。届いているのかいないのか、ソファに浅く腰を掛けたまま、指先を擦り、眉間に深くしわを寄せて、何事かを考えこんでいる様子である。
遠野は少し語気を強め、
「伊明は昔のお前を知らねえんだぞ」
「わかってる」
そのトーンにつられるように、伊生も強く、けれど静かに答えた。ふたたび沈黙に返る。
虚空に視線を投げていた遠野が、また口をひらいた。
「そとの世界ってのも、なかなか厳しいもんだろう」
「……そうだな」
幾分か和らいだ伊生の声はどこか自嘲気味な響きをもって、
「まるで針の筵だよ」
「あの荊の檻とどっちがいい」
「檻のほうが楽ではあったな」
「まあ、そうなんだろうな。――……後悔してるか?」
その問いには伊生は答えなかった。さして寒くもない室内で冷えでも凌ぐように――それが癖でもあるような自然さで――左腕をさすりながら、立ち上がる。
「書くもの貸せ」
「あ?」
「なんでもいい。書くもの貸せ」
端的に繰り返す伊生に、遠野は机上にあったメモ用紙とボールペンをまとめて押しやった。隣に立った伊生が自身のスマホを操作し、表示された電話番号と住所を書き記して、遠野のほうへ押し戻す。
「……なんだこりゃ?」
「御影の連絡先だ」
「ミカゲ? ってお前、たしか――」
「もしも伊明たちになにかあれば、ここに連絡しろ。俺の名前を出せば『御影 佑征』という男に繋がる。御木崎家とは違った意味で過激な思考回路を持つ奴らだが――まあ、面倒見はいい。任せて問題ない」
みるみるうちに、遠野の眉が訝しげに寄っていく。
「なに考えてる、御木崎」
伊生は、ふ、と口元を緩めただけだった。そして続ける。
「それと明日、和佐を伊明のところへやる」
「和佐を?」
「ここへ来るだろうから、琉里と引き合わせてやってくれ。――頼むぞ、遠野」
最後に添えられた一言が、不穏な重たさをもって遠野の耳に響いた。ますます眉間をこわばらせ、低い声で、同じ問いを繰り返す。
「お前は、どうする」
「檻を潰す」
遠野がわずかに目をみはった。その視線を避けるように、続く言葉から逃げるように伊生は背を向けた。
「こういう日がいつか来ると、わかっていた。その前に行動を起こすべきだという声も、ずっと頭の中に響いていた。――ただ、少し……先延ばしに、しすぎた」
「……御木崎」
「あの家を離れたところで結局なにも変わらないんだ、遠野。御木崎家が代々重ねてきた罪は、荊となって、あの古めかしい檻に絡みついている。檻に居る人間に纏わりつく。どんなに逃げ回ったところでそれを断ち切るすべはない。――いや。俺自身がそうなんだろう。生まれた瞬間から、俺はすでに咎の荊のかたまりだった。そしてそれが業となり、伊明や琉里にも伸びていく。いずれ、飲みこむ。……そうなる前に、手を打つ必要がある。どんな手段を使ってでも」
遠野は黙って聞いていた。
機械のようなこの男がこうまで己の内面を、思考を、吐露するのはめずらしい。ただ、やはり、というべきか、口調からも声からもその感情を推し量ることはできなかった。それほどに彼の言葉は平淡だった。でも、それでも強固なまでの頑固さは巌のごとき背中に十二分に表れている。
他人の意見を聞くような男でないことは、むろん、遠野も知っている。
「どうせ無駄だろうから止めはしねえが……」
「だろうと思ったからお前に話した」
横顔に笑みを乗せる伊生を軽く睨みつつ、遠野は続ける。
「なにをする気か知らねえが、御木崎、次伊明と顔を合わせたら――ちゃんと謝ってやれよ、今日のこと」
伊生は、ほんの微かに目元を緩めただけだった。
そうして、院長室の奥、駐車場へ続く扉から、夜闇のなかにとけていく。
3.異端者たち