きぐるみのはな #2
智己は、はなの名前をよく呼んだ。
なにかしゃべるたびに「はな」と発した。
不思議に思って聞いてみると、彼は、その響きが好きなのだと、はなが『はな』であることがあまりにも自然だから呼びたくなるのだと、そう答えた。
はなは、
「そうなんだ」
と曖昧な笑顔を浮かべるだけだった。
はなは自分の名前がきらいだった。
けれど、自分の名前にとても従順であった。
『はな』という名前に合わせてパステルカラーの服を着たり、背中まで伸ばした髪をふわふわさせてみたりして、周囲がいだく『はな』の印象に沿うよう努めていた。
そうすれば、なにもかもがうまくいくような気がしていたから。
幼いころからいいこになるのが得意だったはなは、「優しくてのんびり屋の『はな』」を自分の外側につくりあげ、着ぐるみをまとうように、頭のてっぺんから足の先までをしっかりと覆いつくした。
智己の恋人も「着ぐるみの『はな』」である。
それは彼女自身もよくわかっていたし、それに対して嫌だと思うこともなかった。彼が好きだと言ってくれること、大事にしてくれることが何より嬉しかったから、はなは『はな』に疲れることがあってもなお、懸命に『はな』で居続けた。
それ以外の自分がどこにいるのか、すでにわからなくなっていたというのもあるけれど。
付き合い始めてから二か月の間は、小さな問題すら起こらず、ふたりははにかみながら手をつないで、少しずつ恋人としての距離を縮めた。ゆっくりと、関係を深めていった。
けれどその後、はなが『はな』を見失いかけるできごとが起きた。智己との、初めてのセックスである。
男性に体をひらいたことのなかったはなは、初めて経験するすべてのことに、ただただ驚愕した。
いつも優しくて穏やかな智己が、瞳をぎらぎらさせてはなの体をむさぼりつくしたのだ。はなは、生きたまま肉食動物に喰われているかのような恐怖をおぼえた。
まるで、『けものの時間』。ひとが、人間じゃなくなる時間。
きっと、はなが『はな』であることに疲れるように、『人間』でいることに疲れたひとが『人間』である必要をなくす時間を設けたのだと、はなはそう理解した。
痛みもあったからなおのこと、その行為を苦手に思った。たった一回で、きらいになった。
――でも。
はなは思った。恋人とのセックスを拒否するのは、たぶん、間違っている。
いいこになるのが得意なはなは、すべてを着ぐるみの内側に押し込めて、雑誌を読みあさり、インターネットを駆使してけものの時間を必死に学んだ。どんな仕草をするのが、どんな声を出すのが、どんなふうに動くのが正解なのかを少しずつ勉強し実践していった。
智己がよろこんでくれるたびに、はなは、ひっそりと安堵の息をつく。
セックスに対する抵抗感や嫌悪感は消えることなく、薄れることすらなかったけれど、それを表に出すのは間違っているのだと自分に言い聞かせ続けた。
それでも、回数を重ねるにしたがって、押し込めたその感情が、ゆっくり、ゆっくりと心の奥底から持ち上がってきて、あふれはじめた。水にひたしたドライアイスの煙みたいに、もわもわと、閉ざされた着ぐるみの中に広がっていったのである。
付き合い始めてから一年と半年が経ったある夏の夜、はなはとうとう、智己とのセックスを拒んでしまった。
その日のはなは、本当に、本当に疲れていた。
はなは大学への進学を機に、小さなアパートで一人暮らしを始めていた。
大学は実家から通えない距離ではなかったし、一人娘ということもあって両親には猛反対されたのだけれど、彼女はそれまでに見せたことのない強い意志でもってそれを押し切った。
憧れていた。渇望していたのだ。
自分以外の誰の目もない、自分だけの空間を。着ぐるみを脱ぎ捨ててもなにも言われない、自由な時間を。
初めて迎えたひとりぼっちの雨の夜は、得も言われぬ解放感をはなにもたらした。町を濡らしていく優しい雨音に、がんじがらめになっていた心が静かに解きほぐされ満たされていくのを感じた。
両親からの仕送りを生活費にあてることにしたはなは、交友費や『はな』を保つために必要な雑費をまかなうために、一人暮らしと同時にアルバイトも再開していた。店舗は違うが、高校生の時と同じ系列のファストフード店である。
この日――智己を拒んでしまったこの日――、以前の経験と、すでに勤務を始めてから一年以上が経っていたこともあって、新人スタッフの面倒を見るようにと頼まれた。
紹介された新人スタッフは、高校生の女の子だった。はなとはまるで真逆の、気の強そうな、攻撃的な声を出す子だった。
苦手意識を出さないように気をつけながら、マニュアルの接客用語やレジの打ち方を、少しずつ、丁寧に教えていった。
彼女は、ミスが多かった。間違えるたびに、謝るでもなく「説明わかりにくいんですけど」とぶっきらぼうな声で非難してくるので、はなはふくれ上がる苛立ちを、申し訳なさを装う『はな』の顔の下に押し込めるのに精一杯になり、すっかりくたびれてしまった。
だからどうしても、体と心が疲弊するけものの時間を、『はな』として乗りきる自信がもてなかったのである。
初めてはなに拒まれた智己は、とても変な顔をした。
嫌そうな、それでいて悲しそうな、傷ついたみたいな、暗い感情がまぜこぜになったなんとも言えない表情だった。
「ごめんね」
はなが慌てて謝ると、智己は「ううん」と首を振って、静かに微笑んだ。無理やりくちびるを持ち上げたような、形ばかりの笑み。
そして彼は、その日、はなの家に泊まらずに帰っていった。
はなはひどく後悔するとともに、智己にとって、けものの時間がないはなとの夜はなんの価値もなくなってしまうのだろうかと考えた。
ぐるぐる回る負の思考は渦を描いて暗闇の底へと伸びていく。
智己はセックスのために、性欲を発散するためにはなと一緒にいるのではないか、と、そんな疑心まで生まれてしまった。それがはなをもやもやとさせ、ますますけものの時間をきらいにさせた。
このときふたりの間に、傍目にはわからないくらいの、また自覚するにも小さすぎるほどの微かなほころびが、生じた。
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