トガノイバラ#70 -4 悲哀の飛沫…11…
◇ ◆ ◇ ◆
――皮肉なものだ。
檻の中に座りこんだまま、伊生は自嘲気味に唇をゆがめた。
この地下牢に、彼は、彼自身の手で幾人ものギルワーを放りこみ己の血でもって殺してきた。
自分がまだ、御木崎家の殺戮人形だった頃。
ギルワーを狩ることこそが己の存在理由だと信じて疑わなかった頃。
――文音と、出逢う前のこと。
そこにいまは、自分が閉じこめられている。
いつのまに鍵など付けたのだろうか。昔はそんなもの必要なかった。この家に一歩でも踏みこめば、ギルワーは逃げる力を失うのだ。指一本動かすのがやっとというくらいに衰弱する。
自分が居なくなったからか――。
ふとよぎった考えに、伊生はまた自嘲する。
生まれた頃から植え付けられてきた選民意識は、どんなに嫌悪していても、ふとしたときに顔を出す。この家で育った以上、おそらく、真に『まっとうな人間』には戻れない。
いや、なれないのだ。
もともと壊れているのだから。
まっとうぶるのがせいぜいだろう。
わかっているのだ、伊生自身も。
だからこそ、同じ道を伊明には歩ませたくなかった。再生産される自分を見るのだけはなにがなんでも避けたかった。
『エゴだ』
『てめえのそれはただのエゴイズムだ、結局自分がかわいいだけじゃねえか』
遠野に叱責され、取っ組み合ったこともある。無性に腹が立ったのは、きっと図星を突かれたからだ。
――もしも。
もしも、自分が家を出なかったら。
もしもあの夜、伊明を連れだしたりしなければ。
もしもあの日、産まれたばかりの琉里を遠野に任せていたら。
もしもあのとき――文音との縁を断ち切っていたら。
不自然な自然の摂理にもとづいて、すべてはうまく回っていたのだろうか。こんなふうに誰も彼もが傷を負い、なにもかもが滅茶苦茶になることは、なかったのだろうか。
伊明のことも、琉里のことも、
――和佐のことも。
すべては己のエゴが、浅はかさが、招いた結果。
清算の時は、もう目の前まで迫っている。
ポケットに忍ばせていた折りたたみ式のジャックナイフを取りだした。ぱちん、と軽やかに飛びだす刃は、古ぼけた蛍光灯の――消えかけの魂のような青白い光を吸い込み、奇妙に発光して見える。
常に携行しているこれは、護身用でもなんでもなく、壊れている自分を律するための戒めのようなものだった。
文音の血を吸ったナイフ。
次に吸わせるのは、自分の血だと決めている。
早ければ今日、遅くとも明日には御影が動きだすだろう。
ここに来る前に、御影佑征には一報入れてあった。卦伊との話がうまくいけば連絡する、うまくいかなくとも連絡する、――宗家の出方次第ではすぐに動いてもらうことになろうから準備だけはしておいてくれ――そう伝えておいた。
御影佑征は、連絡がない場合は、と訊いてきた。任せる、と答えると、陽気な彼にしてはめずらしい真面目な声で「ほんなら今日中に連絡がなかったら、僕らは明日動きます。構いませんね?」と形ばかりの確認でもって宣言された。
ただ、実那伊や卦伊の話が本当だとすると――まあ本当なのだろうが――遠野が黙っているはずがない。確実に『御影』を頼るはずで、とすれば彼らの計画が前倒しになる可能性もかなり高い。
遠野のことだ、下手をすれば一緒になって乗りこんでくることも考えられる。清算を前にして、あの変に律儀でアツい男とは極力顔をあわせたくないが――。
カタ。
物音がした。扉のほうだ。
格子に背中を凭せかけたまま伊生が振り返る。
錠の外れる音がして、階段に薄明りが落ちた。
少年が降りてきた。よどみのない足取りで、するすると衣擦れの音だけをさせて。
檻の前で足を止め、袂に両手を突っこむようにして腕を組み、不遜な顔つきでこちらを見下ろしてくる少年は、全体的な雰囲気からしてどことなく実那伊に似ていた。目元には幼いころの卦伊の面影も色濃く出ている。
「――識伊、か」
会うのも見るのも初めてだったが、一目でそうだと確信できる。
「なにか用か」
「おとうさまに御挨拶をしておこうかと思いまして」
淡泊な声である。抑揚がない。感情が入っていない。
「お前の父親は卦伊だろう」
「そうですね」
少年は、表情をぴくりとも動かさない。
「ご気分はいかがですか」
「……俺に、なにか用があって来たんじゃないのか」
「御挨拶だって言ってるじゃないですか」
そう言うと、識伊は格子の扉をあけて自ら中に入ってきた。横に立ち、変わらぬ不遜さで見下ろしてくる。
「この家に戻ってくるんでしょう? 当主として、伊明と一緒に」
「卦伊がそう言ったのか」
「ええ。間違いなく戻る、と。あなた方が大事にしているあの混血の女も、いまや俺たちの手の中にあるわけですし」
「無事なのか、あいつは」
識伊は答えなかった。
まるで聞こえていないかのように、その場に膝を抱えてしゃがむ。
「……格好いいですね、それ。見せてもらえませんか」
伊生の持つジャックナイフを見つめ、片手を出す。
――なにを考えているのか、まるで読めない。
しばし無言で識伊を見返していた伊生はくるりとナイフを半回転させ、柄を少年に向けて差しだした。刃は、伊生の手の中だ。
識伊が柄を握る。
しかし伊生は手をひらかない。
「……離してくださいよ。手、切れますよ」
わずかに識伊の眉根が寄った。
ぱ、と手をひらくと、識伊は妙なものでも見るような目で伊生を窺いながら、そっとナイフを取りあげた。表に返したり裏に返したり、刃の先を指でつついてみたり、興味深そうに検分している。
「琉里は無事なのか」
「さあ。でも元気みたいですよ。張間を誑かして脱出を企んでいたくらいですし。俺の妹を使ってね。ああ一応いるんですよ。母様の三人目の子供――五歳の妹が。誰も気に掛けてませんけどね」
ナイフをいじくりまわしながら、こちらの反応を見るでもなく待つでもなく、淡々と言葉を連ねていく。
「にしてもいったいどう丸めこんだんでしょうねえ。昨日までギルワーを怖がっていた妹が『ルリは怖くないほうのギルワーです、いいほうのギルワーです』って真面目な顔で言うんですよ。驚きましたよ、俺。張間を探してうろうろしてるところで出くわしましたから、止められましたけどね」
伊生が、ふ、と笑った。
識伊が怪訝そうに瞳をあげる。
「張間がそれで揺らぐとは思えないが」
「どうでしょうね。あの人、妹には相当甘いですよ」
「なら尚更だろう」
識伊がますます怪訝そうに眉を寄せたが、答えるつもりは伊生にはなかった。口を閉ざし、牢内へ瞳を投げる。
「……まあ、いいですよ。どちらでも。俺が心配してるのはそこじゃない」
識伊はふたたびナイフに視線を落とした。
「張間が揺らごうが揺らぐまいが、どうでもいいんです」
ぱちん、ぱちん、と刃を出し入れする音だけが、地下に響く。
伊生は少年を横目に見やった。感情の読み取れなかった顔が、仮面が剥がれ落ちたみたいに完全なる無に変わっている。まるで静止画の人形。手だけが機械のように動いている。
ぱちん、ぱちん。
――ぱちん。
刃が飛びだした。手が止まる。
「あなたは」
識伊がひそりと口をひらいた。
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