トガノイバラ #50 -3 異端者たち…13…
「……あんたらもシンルーなのか」
伊明の問いに、来海は一瞬、拍子抜けしたような顔をした。つまらなそうに肩を落とし、和佐たちのいるほうへ向き直る。
「俺は、ですかね」
他人事みたいに、温度のない声でいった。
「Kratには御木崎家の末端と、ギルワーに恨みを持ってる一般庶民との二パターンがいるんですよ。俺ァ末端」
末端。卦伊が蔑んでいた分家の末端というやつだろうか。
ひらひらと手を振る来海の背中を見据え、伊明は必死に言葉を探した。できるだけ、彼を煽れる言葉を。彼の意識をできるだけ、和佐ではなく自分のほうへ向けさせる言葉を。
「……だから『伊』が入ってないのか」
「ハイ?」
「御木崎家の人間には名前に『伊』が入ってるって聞いた。それがシンルーの証でもあるんだろ? あんたにそれがないのは、分家の末端だから?」
果たして来海は、こちらを向いた。しかしその表情は、伊明の期待していたものとは程遠い、不思議そうなもので。
「――……あァ、はは。名前ってソレ、『来海』って名前のこと言ってンです? だとしたら、そりゃ違いますよ。来海は仕事用の呼名みてェなもんで――下手すりゃ同姓同名が居たりするンでね、俺の本名は別にあります。『伊』も入ってますよ、ちゃァんとね」
にんまり笑って、またひらひらと手を揺らす。そうして一歩、踏み出した。先ほどと変わらず緩慢な足取りで。
「まァそんなわけですから」
二歩、三歩――歩みを重ねて事務机の前で、止まる。
身を固くして蒼白になっている和佐のそばで。
冷えきった笑みを落としながら、腰のあたりを右手でまさぐった。
「相手がギルワーならどんな手段でも使いますし、どんな手段にも使いますよ。たとえばこんなふうに――」
掲げられた右腕、握られていたのは黒い警棒。
声を上げる間もなかった。
振り下ろされた黒い凶器が和佐の頭を殴りつけた。来海が嗤う。和佐の華奢な体が前に傾ぐ。それを迎えたのは床ではなく、薄汚れた革靴の、尖ったつま先だった。
なんの躊躇も、遠慮も、加減もない。
来海は繰り返し、和佐の腹部を蹴りつける。つま先をめりこませる。
「和佐さんッ! ――やめろ、やめろよッ!」
身をよじる。体が軋む。肩が軋む。
それでも渾身の力で、拘束を振りほどこうともがく。
失礼、と上から声が落ちてきて、今度は頭を押さえつけられた。もがいても、もがいても、頬が床をこするばかりだ。
肉を打つ鈍い音が鼓膜を苛む。
やめろ、とこぼれた声は、もはや懇願に近かった。
「来海」
黒縁眼鏡が静かに呼んだ。暴行の音がぱたりとやむ。くぐもった和佐のうめき声と来海の浅い呼吸音がほんの数秒、室内を支配した。
「――ご理解いただけましたァ?」
伊明の抵抗はそのまま和佐への加虐に返る――。
来海がこちらを向いて笑っているのが、わかる。悔しさで気が狂いそうだった。うんともすんとも言わないまま――言えないまま――伊明は奥歯を強く噛みしめた。
「……ごめ……伊明くん……」
苦しげな息遣い。ぽつりと届いた和佐の声。
彼が謝る必要などどこにもないのに。
来海がふんと鼻を鳴らした。何時だ、と問う。黒縁眼鏡の手が伊明の頭から離れ、午後五時二十四分三十六秒――七秒、と神経質に秒針まで読みあげる。
――コン、コン。
事務所の扉が、ノックされた。
◇ ◆ ◇ ◆
時刻は一時間ほどさかのぼる。
午後四時半を過ぎたころ。
御木崎邸の門前にシルバーのレクサスが停まった。
門番の黒服が運転席に近寄り、二、三言葉を交わして門を開ける。難なく迎え入れられたレクサスは、その所有者から黒服へ引き渡されて敷地の奥の駐車スペースへと滑っていく。
残された所有者――訪問予定のない客人――濃灰色のスリーピーススーツをきっちり着込んだしかつめらしい顔をした男は、無感動な瞳で、午後の陽光にやわらかく照らされた庭、離れ、母屋、尻を並べるセダン、鎮魂のために建てられたと云われている小さな祠を順繰りに眺めやり、門の内側にいた黒服に伴われて母屋へと入っていった。
「――兄さん」
実弟の声で、伊生は浅い眠りから目を醒ました。
通された客間で座布団の上に胡坐をかき、腕を組み、寝不足と疲労でにぶくなった頭を整理していたはずだが――どうやら自分でも気づかぬうちに舟をこいでいたらしい。
腕時計に目をやる。ゆうに三十分は待たされていたようだ。
内廊下の襖へ顔を向けると、実弟――卦伊の姿がそこにあった。苦笑を浮かべて突っ立っている。その目じりや口元には、以前はなかった薄いしわが刻まれていた。
「……老けたな」
「あなたがそれを言いますか」
苦笑を深めて卦伊が返す。
――お互い様か。
ぼんやりと考えながら、伊生は目頭を揉んだ。どうにも頭が、まだ完全には醒めきっていないらしい。
「そういう冗談も、言うようになったんですね」
座卓を挟んだ向かいに腰を下ろし、卦伊が言った。なんだか感慨深い口調である。あながち冗談でもないが、と伊生はまた胸の内だけで呟いた。
こんなふうに顔を突き合わせるのは実に十七年ぶりである。
当時伊生は二十五歳、弟は二十一歳でまだ大学生だった。互いに、老けこむに足る時間は十分に流れている。
あとから入ってきた老女が卓上に淹れなおした茶を並べ、伊生に対して深い辞儀をして出て行った。この家に長く仕えている女性である。彼女もまた、以前に比べてずいぶん縮んだように伊生には見えた。
変わらないのは、この家だけか――。
「驚きましたよ、兄さん」
老女を見送った微笑みを、卦伊はそのまま伊生に向ける。
「まさかこうして、あなたから出向いてもらえるとは思ってもいなかった。……けれど、ずいぶんお疲れのようですね。顔色が好くない」
昨夜、遠野の診療所を出てからすぐに車を飛ばして和佐のところへ行き、安良井の事務所へ戻ったのは日付も変わった真夜中だった。
実那伊からの連絡を受けたことで放りだしてしまった事務作業を片付け、可能なかぎり前倒しのできる仕事もすべて片付け、和佐への今後の指示書を作成し――なんやかやしているうちに午前の時間を使い切った。
そこからまた車を走らせ、実家であるここまでやってきたのだ。
途中、何度か仮眠はとったものの、蓄積された疲労の色は隠そうとして隠せるものでもないのだろう。
「先に少し休みますか? 兄さんの自室はそのままにしてありますよ。昨夜、少し片付けさせましたが――」
「いや、いい」
部屋で爆睡などという選択肢は、ない。
「実那伊はどうした」
単刀直入に伊生が訊く。自分の来訪を知ればいの一番に飛んでくるであろう彼女が、いっこうに顔を出さないのが気にかかる。張間の姿も見ていない。
すると卦伊は首をかしげて、
「久しぶりだというのに、兄さん。僕は挨拶さえさせてもらえないのですか」
「実那伊は?」
重ねて訊くと、卦伊の双眸が眼鏡の奥で細められた。厭な感じのする笑顔だ。
「識伊と――次男と出掛けていますよ。大事な用があるとかで。――わざわざ実那伊に会いに来たんですか? そちらから出向かなくとも、彼女なら、兄さんが一声かければどこへだって行くでしょうに」
「…………」
しばらく見ないうちにずいぶん舌が回るようになったものだ。皮肉めいた調子といい、まるで亡き母と対峙しているようである。
「……卦伊。ひとつ訊くが――」
「どうぞ、いくつでも」
すかさず返ってくる軽口に、まさしく霜がおりるように――伊生の瞳が少しずつ、つめたさを増していく。気づかない卦伊ではないだろうに、厭味なほどに柔和な笑みはくずれない。
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