佐藤さんの記録
「佐藤さん」という呼び名は、私がつけた。
ある日突然現れた彼女と、言葉を交わしたことはまだ一度もない。
誰、どうしてここにいるの、どこから来たの。何度聞いても、何を聞いても、佐藤さんは何事にも無関心といったふうな顔をして、いつも私の横に張りついている。
佐藤さんが私にしか見えないらしいことは、なんとなく分かっていた。
私のまわりの人たちは佐藤さんを空気のように扱うし、佐藤さんに目を向けることもない。もしかすると、「佐藤さん」という存在をそういうふうに扱う決まりでもあるのかもしれないと思ったりもしたが、私には分からなかった。べつに確かめるつもりもない。
そんな佐藤さんの声は、凛としていてよく響く。
張り上げた声は、まるで、一纏めにした無数の鈴を振り鳴らしたときのように鋭く鼓膜をつき破って脳を揺さぶる。とてもきれいな声。なのに、佐藤さんの口から放たれる言葉は、とてもきたなかった。
佐藤さんがなにか言うときは、決まって、私に悪意が向けられたときである。
私は悪意に弱い。
刺々しい声や、視線や、言葉が身体に巻きつき、喉に絡んで身動きがとれなくなっているときに、佐藤さんは、口を開く。そして激しい罵倒の数々を、その悪意のかたまりに向かって浴びせ続けるのだ。そのうち悪意のかたまりがどこかへ行ってしまうと、佐藤さんはぴたりと声を止めて、いつものように私の隣にただただ佇んでいる。
それが、「佐藤さん」という存在だった。
しかしある日を境に、佐藤さんの居場所が変わった。私の隣から斜め後ろへと移動して、しばらくすると真後ろへ移った。その次の日には、一歩下がったところにいた。
一日一日、一歩一歩、佐藤さんは私から離れていった。
この「佐藤さんの記録」を書いている今は、もう、部屋の扉にぴたりと背中をくっつけている。
明日の朝、きっと私は孤独を感じるのだろう。
でも、そんなことはすぐに忘れてしまうことを、私は知っている。
だからこうして残しておくことにした。私の「佐藤さん」が存在したという、証を。
【了】