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きぐるみのはな #4(最終話)


 萩尾から結婚の知らせを受け、披露宴に招待されたのは、それから三か月ほど経った冬のことだった。

 はなはとにかく驚いた。

 もともとの浮ついた印象に加えて先日の智己の一件もあったから、彼と結婚というものがまるで結びつかなかったのである。それに、智己と違い、店をやめて以来いっさい連絡を取っていなかった自分が呼ばれるなんて思いもしなかった。

 躊躇したけれど、断るための明確な理由も思い浮かばず、智己に「一緒に行こう」と強く誘われたこともあって、はなは彼にくっついていく形で参加することにした。

 披露宴と言っても結婚式場で行われる大々的なものではなく、小さな洒落たカフェバーを貸し切っただけのこじんまりしたパーティーのようなものだった。

 招かれたのは、彼らのごく近しい友人ばかりのようで、その中には、はなの知っている顔もいくつかあった。前の店のアルバイト仲間たちだ。

 久々に会った萩尾は、智己を介してはなにも親しげな笑顔を向けてくれた。
 当時と変わらない、人懐っこい犬みたいな笑顔。
 相変わらず軽やかに、流れるようにしゃべっていたけれど、二十代も半ばに差し掛かろうという年齢のせいか、結婚という大きな節目を迎えたからなのか、あるいはただ黒いタキシード姿のせいなのか、どことなく落ち着いたようにはなには見えた。

 はなをまたびっくりさせたのは、萩尾の妻になったひと――真由美という名前の、大人しくて真面目そうな感じのひと――のお腹に、小さないのちが宿っていることだった。

 付き合って一年と経たずに入籍した彼らに対して、出来婚だ出来婚だとささやくひそやかな声ははなの耳にも入ってきた。しかし萩尾は、真由美の肩を誇らしげにしっかりと抱いて、「授かり婚」という言葉を強調していた。

 はなと同世代にも見える真由美は、彼の腕の中で、何も言わずにただ微笑んでいた。

 ぷくりとふくれたお腹を隠すような、胸の下からふわっと広がった優しい水色のAラインのドレスに身を包んだ彼女の、控えめな、でもどこか不自然に持ち上がったくちびるや輝きの少ない瞳で作られたその表情が、はなの目に焼きついた。

 そして、真由美の友人らしき華やかで露出の多いパーティードレスを纏った女性たちの、心からの賛辞と悪意のにじむささやき声――どっちも本音で、どっちも建前であるような不思議なものだった――もまた、はなの耳にこびりついた。

 披露宴の帰り道、都心の大きな駅からローカル線の小さな駅へ、小さな駅からはなの家へと続く暗い夜道を歩く間中、智己は目をきらきらさせて、ずうっとひとりで喋っていた。

「萩尾さんが『お父さん』かあ。すごいね、はな」
「付き合う前から、萩尾さん、真由美さんと結婚するって宣言してたんだよ。あの人らしいっていうか。俺も聞き流してたんだけどさ、本当に結婚しちゃうんだからすごいよね」
「赤ちゃんが生まれたら遊びにおいでって。はなも行こうよ」

 声を弾ませる智己に、はなは、そうだね、とか、うん、とか、短い相槌だけを繰り返していた。

 電灯がところどころに作りだす光のかたまりを抜けながら、ぼんやりと、微笑んでいた真由美の姿を思いだす。

 彼女自身は、萩尾と結婚するつもりはあったのだろうか。

 もしなかったのだとしたら、妊娠を知ったときにはどんな気持ちでいたのだろう。いまは、どんな気持ちでいるのだろう。でも、時々ぷくぷくしたお腹を撫でていた手は、とても優しく動いていたな。

 はなは、智己の言葉を受け止めるでもなく聞き流しながら、ずっとそんなことを考えていた。

 その夜、智己はコンドームをつけなかった。
 外に出すから、と言って中に押し入ろうとする彼を、はなは必死に止めようとした。
 まって、やだ、と訴えて、真上にいる彼の肩を押したとたん、両手を取られてシーツの上に押しつけられた。びっくりして智己を見上げると、彼はいつも以上にぎらぎらした目ではなを見下ろし、力任せに彼女の体を熱で貫いた。押し上げた。はなの口から上がったのは、演技でもなんでもない、驚きと困惑に満ちた悲鳴にも似た嬌声だった。

「やだ、ともき。まって。ともき、ともき」

 懸命に訴えても智己の腰は止まらず、いっそう激しい動きではなを蹂躙した。

 抵抗の言葉を奪い取るようにくちびるを重ねられた。はなが顔をそむけると、すぐに智己の顔が追いかけてきて、またふさがれる。はなのすべてを支配しようとする、乱暴な動きだった。

 ほとばしる熱い飛沫を奥に感じたとき、はなの体から力が抜けた。注ぎ込まれた熱に押し出されるように、ほろほろと涙がこぼれた。

「ごめん」

 体の中で、智己の熱が急速に溶けていく。乱れた呼吸の中で、彼は重たい声を出した。

「ごめん、はな。ごめん」

 はなを抱きしめる智己の腕はふるえていた。首筋からのぼっていたけものの匂いも、消えていた。はなは力のない手をゆるりと持ち上げて、汗で濡れた智己の髪を、指で梳いた。

*      *      *



「怖かったんだ、ずっと。はなが少しずつ、少しずつ、離れていくみたいで」

 それぞれがけものの名残を熱いシャワーで流したあと、ふたり並んでじゅうたんに座ってしばらくしてから、智己が呟くようにそう言った。

 はなはクッションを抱え込んだ。はなもまた、豹変した智己の目が怖かった。知らないひとみたいで怖かった。

 けれどはなはなにも言わなかった。言えなかった。なにをどう伝えたらいいのかわからず、『はな』らしい振舞い方も見失ってしまっていた。

 ふたりの間に、のしかかるような静けさが落ちる。

「すきだよ」

 ぽつんと落ちた、智己の声。そっと重ねられた手の下で、はなのこぶしが微かにこわばり、小さくふるえた。

 細長い指がくっついた、面積の広い、大きなてのひら。

 いつもみたいに握るでもなく、ただただ包み込むようにかぶさっているだけのそのてのひらを、はなは、ちらりとも見ることができなかった。

 智己がいまどんな顔をしているのか、はなは知っている。

 わかっては、いるけれど。

 智己の手が、ゆっくりと離れていく。
 はなはクッションを握りしめた。

 立ち上がった彼は、何も言わないまま、部屋着用のスウェットからぱりぱりと糊のきいた黒色のスーツに着替えはじめた。

 披露宴のためにおろしたと話していたそれは、智己を大人っぽく、別人みたいに見せる。まるで慣れ親しんだ「智己」という着ぐるみを脱ぎ捨てて、はなの知らないどこか別の世界の住人に着替えているように思えてならなかった。

 ――ともき。

 呼び止める声が、出なかった。
 出そうとした彼の名前が、石みたいに重たく引っ掛かって喉をふさぐ。

「はな」

 いつもと違う、智己の声。
 しとりと濡れた春の雨みたいに、静かで、彼自身の内側に「はな」を染み渡らせるような声。

 智己は、はなの部屋から出て行った。
 はながようやく顔をあげたときには、閉まりかけた扉に隙間から、黒いコートに覆われた彼の薄い背中が見えただけ。

 玄関の扉が、重たい音を立てて閉まった。

 はなの口から、つっかえていた智己の名前が嗚咽と一緒にこぼれだした。ぼろぼろ落ちる涙が、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔を濡らしていく。

 智己はもう、この部屋には戻らない。

 はなは、指に残った彼の優しい匂いにすがりながら、ひとりぼっちの部屋で泣きじゃくった。

 落ちたしずくが新緑の葉っぱを色濃く変えても、ぼうっと熱をもった頭がずきずきと痛みだしても、はなのなみだは涸れることなく、とめどなく、とめどなく、あふれ続けた。


【了】






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