きぐるみのはな #3
その日以来、智己はセックスの前にかならずはなの手を握るようになった。窺うようにじっと、上目がちに見つめてきて、はなが顔を上げるとキスをする。
はじめはくちびる同士を軽く触れあわせるだけ。そのあと、はなが離れていくくちびるを追いかけると、智己がもう一度顔を近づけてきて舌を寄せあう。すりあわせ、からめとられて、その動きが少しずつ激しくなっていく。
面積の広い、大きなてのひらがはなの胸をつつんで、細長い指がうごめきだして、けものの時間が始まる。
木杭みたいな固い熱が何度も何度も、まっすぐに、ななめに、ゆっくり、はやく、はなの内側を侵している間中、彼女は『はな』らしい嬌声を上げることに専念し、『はな』らしく肢体をくねらせるに努めた。
はながけものの時間を拒むことはなくなった。
けれど、その時間の訪れを迎えるときの憂鬱な気持ちは日増しに強くなっていくばかりだった。
加えてアルバイト先の件の女子高生と一緒に働く時間も増え、大学内でもまた歯に衣着せぬ物言いをする――と言えば聞こえはいい、でも要するに相手を貶める悪口で笑いを取るような――一部の友人との関係にもまた疲れを感じつつあって、秋ごろにもなると、『はな』の笑顔にも翳りが見え始めるようになった。
「どうしたの」
眉を下げて、心配そうに覗きこんでくる智己の優しい瞳。
はな自身の本音、弱音、『はな』らしくない毒々しい言葉の数々が、喉からあふれ出しそうになった。はなは一度ふるわせたくちびるの奥でぐっと言葉をかんで、飲みこみ、大きくて重たいそのかたまりを腹の底へ押しやってから、『はな』らしくあろうと微笑んだ。
「なんでもない、だいじょうぶだよ」
とたんに智己は、あの悲しそうな、傷ついたみたいな顔をした。それから、なぜだかむつりと怒りだした。
「はな、俺のことどう思ってる?」
「どうって」
「恋人だと、思ってる?」
はなは驚いた。ふたりきりの部屋の中で、じゅうたんに並んで腰を下ろしていた智己を見上げる。
「思ってるよ」
すぐにそう返したけれど、智己は戸惑うはなの顔をじっと見てから顔を伏せ、考え込むように押し黙った。
それから、穏やかなのにどこかひんやりした声で「今日は帰るね」とだけ言って、はなの部屋を出て行ってしまった。あのときみたいに。
取り残されたはなは、呆然としたまま彼の薄い背中を見送った。
それから二週間、智己からの連絡はなかった。はなも、自分から連絡することはしなかった。
何度かメッセージアプリの画面を立ち上げてはみたものの送るべき言葉というのが見つからなかったし、電話を掛けたとして、あのひんやりした声を出されたらと思うと怖かった。
智己から「話そう」と連絡がきた三日後、ふたりはようやく会うことになった。いつもどおり、はなの家で。
はなはよその家が苦手だ。慣れない匂いにつつみこまれると、とたんに緊張してしまう。他人の支配する空気に飲みこまれると、とたんに「はな」を見失ってしまう。だからはなはいつも、このときも、自分の小さな空間に智己を呼んだ。
二週間と三日ぶりに顔を合わせた智己は、小さめの黒い瞳をゆらゆらと揺らしながら、どこか気まずそうに微笑んでいた。はなも同じような顔をしていたのだと思う。
外から秋らしい澄んだ空気が流れ込んでくる玄関先で、互いに言葉を探して沈黙したあと、はなはぎこちなく智己を招き入れ、彼もぎこちなく部屋に上がった。
「ごめん」
智己が謝った。はなも、謝った。
なにに対しての「ごめん」なのかはっきりと口にはしなかった。
けれど二週間と三日前から今日にいたるまでにいだいた、「ごめん」につながるすべての思いはそこにぎしりと詰まっていて、混じり合ったふたりの空気が、それぞれにそのことを伝えていた。
智己は、はなの支えになりたい、と言った。
たった一言、とてもシンプルな言葉。
でも、それだけで、はなの心はじんわりとあたたまっていった。
性欲の対象でしかないのでは、という真冬の雪氷のように固まりきった疑心や不安が、さらさらと、とけていく。
着ぐるみでしか自分を守れない、人に寄りかかる術をもてないはなにとっては、それはどんな言葉よりも優しくて、心強くて、彼の胸にそれさえあればいいと思えた。
ふたりの手が重なったとき、智己の携帯電話がぴりぴりと甲高く、無機質な音を立てた。
彼は画面を見たとたんに顔をこわばらせてはなを見た。電話なのか鳴りやまないそれを握りしめ、慌てふためいて、隠すように後ろにやった。
それだけの動作だったのに、はなは、彼が隠そうとしている秘密に気がついてしまった。
視線をかわすと、智己は苦い顔をして目をそらした。何か言いたげにふるわせたくちびるを歯にはさんで、またゆらゆらと、瞳を揺らす。
べつに、いいのに。
はなはただ、そう思った。
けれど何も言わないまま、智己の言葉を静かに待った。彼の行動に合わせようとしたのだ。
知らないふりをするならはなも気づいていないふりをして、言い訳をするのならそれを聞いて、謝るのなら頷こうと考えた。
智己は、ごめん、と言った。
はなは、うん、と頷いた。
かたまった空気が沈殿していくような張りつめた重たさの中で、智己がふるえるくちびるをひらいた。
「萩尾さん、覚えてる」
あまりにも抑揚のない声だった。
一拍遅れてそれが問いかけであると気づいたはなは、急いで小さく頷いた。
萩尾は、ふたりが出会ったファストフード店で共に働いていた、はなよりも四つ年上の、当時大学生だった男性スタッフだ。
ちゃらちゃらしたお調子者というイメージが強くてはなは苦手だったけれど、智己はよく懐いていて、萩尾もまた智己を弟のように可愛がっていた。今でも連絡を取り合ってたまに会っていると、智己の口から聞いたことがある。
はなをちらりと見た智己はすぐに顔をうつむけて、ぽつぽつと話し始めた。
ふたりの間に起こった静かなけんかの直後、智己は、萩尾に「気晴らしに」と誘われて飲み会に参加した。
アルコールに弱いにもかかわらず、慣れない場の雰囲気にのみこまれて酒が進み、その勢いに押されるまま、隣に座っていた女性にはなのことを相談しているうち酔いが回った。
世界がぐるぐるまわっているような、熱に浮かされたようなわけのわからない状態に陥って、さめたときにはすでに、その女性と過ちを犯してしまったあとだった。
「その一回だけだよ。連絡もとってない。むこうから電話くるけど、俺、出てないから」
悪さを言い訳する子供みたいに口早に言った智己は、背に隠していた携帯電話をことりとテーブルの上に乗せた。それからまた、苦々しく顔を歪めたあとに、ごめん、と、重たい声で謝った。
べつに、いいのに。
そんなに苦しそうな顔をしなくても、いいのに。
そんなに背中を丸めて、ちぢこまって、親とはぐれた仔猫みたいな、さびしくて怯えた目をしなくたって、いいのに。
恋人であるひとと性欲を満たす相手がイコールである必要性は、いったいどこにあるのだろう。
智己が、支えたいと、恋人としてはなが必要だと言ってくれるのなら、はなはもう、それだけで十分なのだ。優しい瞳が向けられるだけでも、ほこりとあたたかい気持ちになれるのだ。
むしろけものの時間は、それ自体を一緒に愉しめるひとと持ったほうがいい。
もちろん、こんな考え方をするのは自分だけだということを、はなはよくわかっていた。口に出してはいけないものだということも、知っていた。
『はな』が、破綻してしまうから。
はなは何も言わずに、しょぼくれている智己のくちびるにキスをした。
智己は一瞬、驚いた顔をしたけれど、そのまま強くはなを腕の中にしまいこんで、ぎらぎらとした匂いをはなった。
けものの時間の間中、はなの脳裏に、知らない裸の女性の影がちらついていた。
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