【短編】眠らぬ幽の夜(よ)
文字が怖い――。
そう言い遺して、去年の秋、友人が死んだ。自殺だった。
死んだ人間が夢枕に立つというのは、まあ、聞く話ではある。が、奴は墓の傍に立っていた。墓石の前に大股開いてしゃがんでいた俺を、腕組みをして、冷ややかに見下ろしていた。
雪の降る夜。
四度目の、月命日。
奴は言った。
「君達があまりに執着するから、僕は此処から離れられない」
不貞腐れた顔。口は動いているのに声はどこか違う場所から聞こえてくる。もやしみたいな色の皮膚が、雪の所為なのか、蒼白く発光して見えた。
俺は胆を潰して尻餅をついてしまった。
なんて顔をしているんだ、と奴が笑う。
「おまえ――」
「人の念(おもい)というのはまるで蔓草だね。剥がしても剥がしても絡みついてきて、僕を縛る」
――幻覚を見ているのだろうか。
腹の底に燻り続けている後悔が、俺に幻影を見せているのか。
だって奴は、在りし日の――そう、以前の、奴がまだ〈奴らしく生きていた頃〉そのままの姿で、其処に居る。其処に、在る。
「幻影だというのなら、まあ、そうなのかもしれないね。けれど君が創り出したわけじゃない。僕には僕の意思がある」
俺の思考を読んだみたいに奴は言い、また小さく笑った。
生の気配がない。
存在感はあるくせに、存在している感じがしない。質量が――薄い、というべきなのか。俺と違って、絶えず動く奴の口からは白い息は出ていない。
それでいて憎たらしいほど生き生きとしているように、俺には見えた。
容姿の所為か。
もともと不健康を絵に描いたような男だった。
だが、俺が最後に会った時――奴が自殺する二日前――の、骨に皮がへばりついているだけの疲弊しきった体つきではなくなっていて、こけていた頬も膨らみを取り戻している。落ち窪んでいた目もだ。元のとおりの、涼しげな色を湛えている。
昔話に出てくる幽霊のような、白い着流しに三角頭巾。そんな冗談みたいな格好で、少し皮肉な、悪戯めいた雰囲気を漂わせているのが妙に奴らしく、たとえばハロウィンの夜に狼の被り物をして玄関先に立っていたり、クリスマスにそれらしい付け髭だけをつけてにやにやしていたり――まともだった頃の姿をいちいち思い起こさせる。
奴の口角が片方だけ吊り上がった。
「いつまで腰を抜かしているんだ。冷たい石畳に長く尻をつけていると、痔が悪化してしまうよ」
「……余計な世話だ」
俺はようやく答えらしい答えを返して、尻をあげた。立ちあがろうとすると膝が軋み、腰が軋む。
長時間、墓の前でしゃがんでいた所為だ。
濡れた尻をはたき、泥のついた手をはたく。指先が悴んで感覚が麻痺していた。そのことにさえ気がつかなかった。舌打ちがもれる。
奴は相変わらず腕組みをして、俺を眺めている。
――こいつはずっと此処に居たのか。
届かぬものと思ったからこそ、ぽつぽつと、声に出さずに語りかけていた俺の言葉も――すべて、聞いていたのだろうか。
この思考も奴には届いてしまうのか。
「まさか、化けて出てきやがるとはな」
声で、思考を掻き消した。
奴の眉がわずかに持ち上がる。
「恨みごとを言いにきたわけじゃない」
「じゃなんだ」
「さっき言っただろう。君達の所為で僕はここから離れられないんだよ」
「恨みごとじゃねえかよ」
奴が笑った。ようやく俺から視線が外れ、墓石へ向く。
墓も、供えられた花も、薄っすら雪を冠(かむ)っている。俺が来た時に置いた煙草とウィスキーのポケット瓶だけが白を弾くように、濡れて、つやめき、モノクロの墓場から浮いて見えた。
奴は花を見つめ、昼間、と呟いた。
「由里子も来た」
「……そりゃ来るだろう。嫁さんなんだから」
できるかぎり、ぶっきらぼうに。それが奴の求める反応でないことはわかっている。
沈黙が落ちた。
ふたたび思考が働きだすのを防ぐため、俺は乱暴に頭を掻いた。脳も心も空っぽにして、聞く。
「おまえ、あいつの前にも化けて出たのか、そうやって」
「いいや」
奴はゆったり答える。
「彼女の前には出られないよ」
「合わせる顔がねえか」
「それもある」
「ほかに何がある」
「いろいろある」
「おまえ――」
危うく怒鳴りそうになった。
頭を掻きむしって、コートのポケットから煙草を取り出し、火をつけた。思いっきり吸い込み、空に向かって煙を吐く。濃く長い紫煙が、噴き上がるように昇っていった。
「本当はね、君の前に出るつもりもなかったんだよ」
瞳を下ろす。奴は変わらず、己の墓石を見つめている。
「二度と会いたくないと思っていたからね」
「……そりゃどういう意味だ」
煙草を挟んだ指が震えた。
――寒さの、所為だ。
「俺の顔なんざ見たくもねえってことか。墓参りにも二度と来るなと、おまえはわざわざそれを言うためにそんなフザけた格好して、墓の横に突っ立ってやがるのか」
「そうじゃないよ」
「じゃなんだ」
「君も由里子も――泣くだろう」
俺は返すべき言葉を失った。
ふ、と奴が息を吐く仕草をした。細い肩がそっと落ちる。
「僕は自ら命を絶った。『捨てた』んだよ、何もかも。君のことも、由里子のことも。何も言わず、何も――遺さず。普通は怒るべきだろう。酷いと、勝手だと、『僕を』責めて然るべきだ。なのに君達は――」
奴の瞳が戻ってくる。
「自分を責める」
そうして、また、墓石へと。
「僕には、それが――とても、痛い」
風が吹いた。細かい雪粒が礫(つぶて)のように、傘を持たない俺の頬に、手に、当たる。
煙草を吸おうとして、火が消えていることに気がついた。指が震えている。悴んで、痛いくらいに、震えている。
「確かに、おまえは勝手だよ」
俺はやっとのことでそう言った。ポケットから取り出したライターを、燃えカスみたいに黒ずんだ煙草の穂先に近づける。ガスが切れたか、風の所為か、擦っても擦っても微小の火花を散らすだけで点らない。
「昔ッからそうだ。――百も承知なんだよ、そんなもんは」
口に挟んだ吸いさしをぷッと飛ばし、使い物にならないライターは放り捨てた。
奴が片方の眉をわずかに上げる。行儀が悪い、と諫めるつもりだったのだろうが、しかし、奴は何も言わなかった。
俺も、奴も、由里子も、ガキの頃から付き合いがある。二十代前半あたりまでは、地元の他の連中も混ぜてたまに会うくらいだったが、歳を重ねるにつれて集まりも悪くなり、いつからか俺達だけで会うようになった。そうすると余計な気を遣う必要もなくなって、頻度も増えた。
奴と由里子が籍を入れると、独り身かつ物ぐさな俺を心配してか、飯に呼ばれる機会も多くなった。もう、三十年近い付き合いになっていた。
だから、互いのことは知りすぎるほど知っていて、互いの感情の動き方も分かりすぎるくらいに分かってしまう。
さっき、奴が敢えて『捨てた』のなんのと厭な言葉を選んで吐いた理由だって――そうだ。
なのに、俺は気づけなかった。
命を絶たなきゃならないほど、奴が追い詰められていたことに。
煙草を出し、一本咥えた。コートのポケットを両手で探り、スラックスのポケットを探る。いつ買ったのかも分からない安っぽいライターが、一つ、出てきた。片手を覆って火を点ける。
「なんで何も言わなかった」
俺は煙草を咥えたまま奴を見据えた。吐き出した煙が、奴の輪郭を暈けさせる。少しだけ不安になった。煙を手で払う。奴はいまだ其処に居る。口は閉じたままだった。俺の問いに答えるつもりはないらしい。
溜息をつくと、視界の下のほうがまた微かに白く染まった。肺に残った煙なのか、ただ息が白くなっているだけなのか、分からない。
「……残酷だと思ったよ」
消えていく白煙を追いながら、俺は言った。
「話してくれりゃあ良かったんだ。そうすりゃ俺も由里子も力になれた。実際、何ができるか分からねえが、それでも、必死になるぐらいはできたんだぜ」
返ってきたのは、ああ、という乾いた相槌だった。なんの感情も滲まない、ただ相槌を打つという役割しか成さない、声。
空しすぎて、可笑しくなった。笑ってしまう。
「そんなに俺は頼りねえかと、信頼できねえもんなのかと、柄にもなく考えちまった。おまえは、俺が自分を責めているなんて抜かしやがったが――由里子はどうか知らねえけどな、俺はおまえのことも十分責めたぜ。あの世で会ったら思いっきりぶん殴ってやろうと思ってたくらいだ」
「最初は、だろう」
虚ろな笑いはあっという間に引っ込んだ。
「……まあ、結局、言い訳だからな」
煙草を吸う。美味くもない煙を吐く。
分かっている。奴が話さなかったのが悪いんじゃない。俺達が、「大丈夫だ」と微笑う奴の言葉に甘えてしまったのがいけなかった。何が起きているのかも知っていた、苦しんでいたのも知っていたというのに、だ。
大丈夫じゃねえじゃねえかよ、と――俺は奴の固まりきった死に顔に向かって、錆びついた、間抜けな声でそう言った。
その時感じた心の空洞は、いまだ少しも塞がっていない。
「さすがに俺でも後悔くらいはするぜ。無理にでも聞き出すべきだった、おまえの心に溜まった膿を――」
死に繋がるほどの、黒く、重たい膿を――
「吐き出させるべきだった。そうすりゃこんなことにはならなかったかもしれねえし、おまえも――」
「そんなことは望んじゃいない」
遮られた。
「……あ?」
顔を見ると、痛みをこらえるように眉間を強張らせている。細めた目で、虚空を睨みつけていた。
「聞かれたところで話すつもりもなかったし、話したいと思ったことも一度もない。君や由里子には、特にね」
「なんだそりゃ」
――残酷だ。
怒りに任せて噛んだフィルターが、ぐぬりと不快な感触をもって、潰れる。
「そんなに、頼りねえか、俺達は」
奴は目を閉じ、肩を落とした。色のない息を吐く。
「……そうじゃない。逆だよ」
「逆?」
自嘲気味に奴が笑った。皮肉な、けれどどこか悲しげな瞳。俺を捉え、またすぐに離れていく。
「――僕が、特殊なのかもしれない」
ところどころ新雪に覆われた墓地を眺めながら、奴は呟くようにそう言った。
奴は作家だった。小説を書いていた。
あいにく俺は本との相性がすこぶる悪い。奴の書いたものを一度も読んだことがないし、その界隈のこともよく知らない。
だからこれは愚痴の一環として奴から、近況報告がてら由里子から聞いた話であるが――なんでも今は、なかなか本の売れぬ時代だそうで、宣伝がてらSNSでも始めてみたらどうかと周りから勧められた。
そういうのは苦手だからと奴はかなり渋ったそうだが、他の作家もやっているからと押し切られ、また時代の流れには逆らえないかと本人も承諾し、細々ながらやり始めたのが――去年の、春頃のことだった。
なにがきっかけになったのか、当人にも、俺達にも分からない。
いきなり、奴に対して攻撃的な言葉を吐くのが、湧いた。
それは生者に群がる死霊のごとく、奴を地獄に引きずり込もうとするかのごとく増えていき、一方的かつ激しい誹謗中傷が始まった。
人格を否定され、根も葉もない下種(げす)な噂を流された。書いたものも酷評された。
奴は悪意の坩堝に飲み込まれた。
以降、何も書かなくなった。
食が細くなって痩せこけ、外に出ることもしなくなり、元からもやしじみていた男は見る間に、病的に蒼褪めていった。
それでも俺と由里子の前では変わらなかった。俺達と話している時だけは、奴は、以前のままの奴だった。聞いても、その話はしないでくれ、大丈夫だからと微笑うだけで取りつくしまもなかった。
けれど。
――文字が怖い。
ある秋の夜、奴は由里子にそうこぼした。
明くる朝、奴は命を絶っていた。
「君や由里子と話している時は――」
目許がわずかに和らいだ。雪を見つめたまま、奴は静かに続ける。
「僕は、僕のままでいられたんだよ。気丈に振舞っているのだと、由里子が君に囁いていたことも知っているが……そうじゃない。大切だったんだ、その時間が。壊したくなかった」
「……壊れるかよ、そんなことで」
「壊れるんだよ」
いやにはっきりと、奴は言った。
「壊れたんだ」
表情が、消えている。
「君はさっき、膿という言い方をしたけれど――じゃあ、僕の吐き出した膿を浴びるのは、いったい誰だろう。膿に穢れたその姿を、いったい誰が見るのだろうか」
「はあ?」
言わんとしていることが、さっぱり分からない。
奴は短く沈黙してから、ふたたび口をひらいた。
「僕は一度だけ、由里子に弱音を吐いたことがある」
「文字が怖いっていう、あれか」
「由里子から聞いたのか」
「ああ、聞いた」
「そうか。それが、僕が唯一吐き出した、僕の――膿だ。浴びたのは由里子だった。とたんに由里子は侵食された」
――分からない。
俺だから汲み取れないのか。由里子なら、あるいは奴と同じような――たとえば小説家とかの――人種なら、理解することもできるのか。
苛々してきた。
「もっと分かりやすく言いやがれ。知ってるだろう、馬鹿なんだ俺は」
奴が微かに笑った。瞳が俺のほうに戻ってきて、細められる。懐かしむように。親しげに。なんだよ、と睨みつけたが無視された。
「僕にとって『あれ』は、実体のない悪魔のようなものだった。僕は文字を奪われた。精神をも蝕まれた。せめて君達だけは冒されぬようにと、奴らの手の届かぬところにあってほしいと――これでも、必死だったんだよ」
眉が下がる。目許が翳る。微笑みを、湛えたまま。
「なのに――少しだけ、弛んでしまったんだね。あの日、彼女は懸命に励ましてくれた。そこに悪意があろうはずもないのに、僕の目には、彼女が、彼女の皮を被った悪意のかたまりのように見えてしまった。……膿を吐き、浴びせた所為だ。僕は自ら、彼女を穢した」
言いながら、奴は腕組みを解いて片方の手を開いた。視線を落とす。
「『あれ』には実体がなかった、だからまだ良かったんだ。殴ろうと思ったって殴れないのだから。でも、由里子は違う。生身で僕の傍にいる。この手の届く位置に、彼女は――」
「おい。おまえ、まさか」
奴は静かに片手を閉じた。
「大丈夫だよ。何もしていない。……危なかったけれどね」
昏い瞳が、虚空へ動く。
「そう、危なかったんだ。本当に。きっと、とうにおかしくなっていたんだろうね。僕はいずれ自分を制御できなくなる、由里子に、君に、何をしてしまうか分からない――そう思ったら、怖くなった。強烈だったよ。その考えは、奴らに蹂躙されるより、あるいは死に対するよりも――凄まじい恐怖となって、僕を襲った」
だから僕は、と言って奴は口を結んだ。
自ら命を絶ったんだ――。
裡へ直接這入りこんでくる、奴の声。
「……解らねえ」
俺は強く拳を握った。指に挟んでいた煙草は、いつのまにか短くなって雪の上に落ちていた。濡れて、萎れて、変色し――まるで、貧相な屍のようだ。
「俺には到底、理解できねえよ」
どれだけ分かりやすい言葉を使われても、どんなに説明されても。
「そうだろうね。多分、これは僕にしか、解らない」
けッと吐き捨て、俺はポケットに手を突っ込んだ。三度(みたび)煙草を咥えようとしたが――空っぽだった。
そうしている間に、奴はさらに言葉を重ねる。
「由里子は『自分が殺したも同然だ』と自分自身を責め続けている。でも、それは間違っている。僕は彼女に殺されたわけじゃない。――分かってくれるね、今の君なら」
「だから俺には理解できねえと――」
「理解する必要はない」
僕の気持ちなんて解らなくていい、ただ僕が、僕自身を止めただけだと、その事実さえ分かってくれれば――。
這入りこんでくる、奴の言葉。
目を上げると、奴は目許の翳りを消して笑みを深めた。
「君は由里子が好きなんだろう」
「……は?」
絶句、した。
愕然と奴を見返す。
対照的に、奴は流れるように言葉を重ねる。
「勝手も、残酷も、重々承知している。それでも君に頼みたい。由里子を支えてやってくれないか。支えさせてやってくれないか。――君にしか、頼めない」
「おまえ――」
「本当は、どこかに書き遺しておきたかったんだけれど――いかんせん、僕は文字が怖くてね」
冷たい風がひゅうと吹いた。細かい雪が舞う中で、掬い上げられるように奴も浮く。消える、と直感した。止めようと声を張ったが、奴は聞く耳持たずである。――昔ッから、そうだった。
「次は由里子と来るといい。昼間にね。――そう、幽霊だって夜は寝たいものなんだよ」
どこか皮肉な、悪戯めいた笑みを遺して。
奴は消えた。
夜の中に融けていった。
風がやんだ。少し大きくなった雪が、奴の姿を追って上向いた俺の頬に、額に、ひたひたと当たる。ひとり取り残された俺は、阿呆みたいにぼう然と突っ立っていた。
――いや。
取り残されたのは俺ひとりじゃない――のか。
墓へ目をやる。雪を冠った花の花弁から、ひとかけら、雪が落ちた。鮮やかな黄色が弾かれたように、揺れる。
「……酒も煙草も、二度と買ってきてやらねえからな。飲み納めだ、馬鹿野郎」
墓に酒を掛けた。奴の煙草を回収し、代わりにぐしゃぐしゃに潰した空き箱を置いてやる。ゆっくりと一本吸い、煙を全部吹きかけてやった。
「――馬鹿野郎が」
奴が笑ったような気がしたが――それこそ俺の幻想だろう。奴の気配が戻ってくることはなく、声なき言葉も、聞こえない。
俺はスラックスのポケットから携帯を取り出し、由里子に掛けた。
呼び出し音が幾度か鳴って、か細い声が鼓膜に沁みこむ。
「おう」
俺だ、久しぶりだな、とできるかぎり素っ気なく――俺は、言った。