トガノイバラ #1 ー序章ー
――手遅れだった。なにもかもが。
そもそも間に合うはずもなかったのだ。
その報せは友人を経由し、家人を経由し――迂回を重ねてようやく彼のもとへ届いたのだから。命の灯など、その間に簡単に、呆気なく消えてしまう。
間に合うはずもない。
わかっていた。わかっていた、けれど。
居ても立ってもいられなかった。
彼は握り締めていた受話器を放りだし、平生の彼からは想像もできぬような慌しさで家を飛び出した。
家人の制止を振りきり、転がるように車に乗りこみ、通常ならば一時間は掛かるであろう道程をおよそ半分にまで短縮して――古ぼけた二階建ての小さなアパートの前に着くと、また転がるように車を降りた。
雨が降っていた。
じわじわと皮膚をむしばむ、しとやかな霧雨だった。
飾り気のない簡素な外階段を一段飛ばしで駆け上がり、奥の部屋の臙脂色のドアを、ほとんど体当たり同然に押し開けた。鍵は掛かっていなかった。
彼女は、浴室にいた。
傍らには、ナイフが転がっていた。
産まれたばかりの嬰児が、血を浴びて泣いていた。
浴槽のふちに凭れかかるようにして突っ伏している彼女の首から、生命の残滓が流れている。
――浴槽に涙のあとを刻むように。
――鮮やかに、紅く。
血を食む刃には見覚えがあった。以前、彼が使っていた折りたたみ式のジャックナイフだ。
魂が分離していくような虚脱感。
膝がくずれた。
茫然自失となったのは、けれど一瞬のことだった。
彼は叫んだ。
彼女を抱き起こし、揺さぶり、何度も何度もその名を呼んだ。揺さぶるたびに、彼女の首はがくがくと右に左に傾いた。
虚ろな瞳に光はない。ひらいた唇から息がこぼれる気配もない。
それでも彼は呼びかけた。何故なのかと問いかけた。頼むから、と懇願もした。
喉を破らんばかりの声が、狭い浴室に反響する。
嬰児の泣き声と重なり合う。
むせかえる血の匂い。
残酷に花弁をひらいた絶望の薫り。
死の静けさと、迸る生の慟哭。
一足遅れに到着した友人に引きはがされても、彼の声がやむことはなかった。
彼女は還った。ギルワーのしきたりに従って。
シンルーの彼には理解しがたい、血のしきたりに従って。
のこされた遺書には感謝の言葉と――我が子に与える名が記されていた。
繊細に、丁寧に綴られた彼女の文字に浮かぶ微笑みは、泡沫のごとく、音のない雨のなかに消えていく。
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