トガノイバラ#85 -4 悲哀の飛沫…26…
来海は血の付着した角材で肩をとんとん叩きながら、張間の後ろに隠れている由芽伊を見、伊明を見る。その顔には迷いもなければ躊躇もない。品定めをする。獲物を選ぶ。――ただそれだけ。
「どっちが先がいいですかね」
「任せるよ」
来海にとっては卦伊の命令こそ絶対で、相手が誰かなんてまったく関係ないらしい。たとえ宗家の人間だろうが、女だろうが、子供だろうが――和佐や柳瀬にしたのと同じことを、きっと、平然とやってのけるのだ。
虚無になりかけた伊明の感情が、
まもののような来海の顔を見れば見るほど、
ふつふつと、
熱を、はらむ。
「伊明だめ」
琉里は来海と対峙するのは初めてのはずである。それでも、彼が只者でないことは一目見ただけでわかったらしく、緊張した声が、服を掴む手が、今にも向かっていかんとする伊明をその場に留めようとしている。
伊明自身もわかっている。今の状態で勝てる見込みがないことくらい。わかっている、頭では。
――けれど。
「来海」
伊明の理性が切れる寸前だった。
張間が鋭く短く、牽制するように彼の名を呼んだ。
来海はうざったそうに張間を一瞥し、
「なンですかァ?」
そらっとぼけた返答をする。
張間は眼光を鋭くしただけだった。彫りの深い彼の目許に落ちた陰は異様に濃く、その双眸は殺気で墨を引いたかのように昏く見える。
激した伊明でさえ冷水を浴びせられるような、無言の圧。
しかし来海は臆するどころか、
「あのですねェ、張間サン」
と、これみよがしな溜息をつき、角材を持っていないほうの腕を軽くあげて肩をすくめた。馬鹿にするような仕草だ。
「俺いつも言ってるじゃないですか。そもそもKratの規則自体がぬるすぎンですよ。まあアンタはシンルーでもなんでもない普通の人間なわけですからァ? 無駄を承知で言いますがね。俺たちは御木崎家の――宗家の手足であり、武器なンですよ。ギルワーも、ギルワーに味方する阿呆共も、まとめてぶちのめしちまやァいいじゃないですか。少なくともシンルーの血を引く俺らなら、ソレは殺人行為じゃない。正当な裁きですよ」
「……相手が宗家の人間でもか」
「それが『宗家の御意思』なら」
「特例だよ、来海」
卦伊が念を押すように言葉を添えた。
「Kratの狩りを許可するわけじゃない。あくまでも特例だ」
「――前例ですよ」
そう呟いた来海が、次の瞬間、動いた。
目にも留まらぬ速さだった。つい今まで張間と話していたとは思えない。気づいたときには、伊明のすぐ目の前に迫っていた。
両手で握った角材を振りかざし、跳びあがった姿で――。
「伊明!」
「伊明様ッ……」
琉里と張間の声が重なり、鼓膜を打つ。
聴覚は正常な時を刻んでいるのに、視覚だけはまるで違っていた。コンマ一秒が二秒三秒に思える。頭目掛けて振り下ろされる角材の、わずかなしなりさえもが鮮明に見えた。
避ければ琉里に当たる。
腕で防ぐしかなかった。
角材は、伊明の左前腕を激しく打ちつけるや折れて飛んだ。それ自体がだいぶ傷んでいたようではある――が、それでも、容赦のない殴打は骨の髄から痺れる痛みを伊明に与えた。
「くッそ……」
「はッはァ――」
来海の嗤い声は、やはり狂気に満ちていた。
「張間さん!」
思わず動きかけた張間を止めたのは、母屋から飛びだしてきた一人の部下だった。焦りきった表情に、今にもつんのめりそうな動転しきった走り方である。
敷地内での有事の際には、司令塔である張間のほかに、動向を見守る人間をかならず一人は置いている。無線連絡が不可能であるがゆえの、アナクロな言い方をすれば伝令役だった。彼は御影たちの動きを見張っていたはずである。
張間は渋い顔で、その伝令役たる部下を迎えた。
彼の様子もさることながら、こういうにっちもさっちもいかない状況でもたらされるのは、経験則からいっても、ことごとく凶報である。
「あの、奴らが――」
耳打ちされたのは、而して御木崎家にとって最悪の一報だった。
沈着冷静を地でいく張間も、さすがに汗のにじむ顔を撫でまわし、苦悩を隠すように口元に手を置いた。
部下が落ち着きなく指示を待っている。由芽伊の小さな手が、きゅ、と自身のスラックスを不安そうに握ってくる。卦伊の視線が刺さる。来海は気づかぬ様子で嗤っている。
さっきの一撃で負傷したか左腕をぶら下げたまま防戦一方の伊明、それを気に掛けながらもこちらに――いや、由芽伊にか、気遣わしげな視線をたびたび向けてくる琉里。
「――どうした、張間」
問うてきた卦伊に瞳を向ける。
「…………」
これは、叛逆だ。
忠誠を誓った御木崎家に対する――。
張間は軽く唇を湿してから、口元から手を離した。
「奴らが――御影と思しき連中が、一部――」
言葉を切り、そして、
「逃走したようです」
部下が驚いたように張間を見た。
その視線を、張間は睨みでもって牽制する。
「逃走?」
怪訝そうに訊き返してくる卦伊に「ええ」と頷く。
――嘘だった。彼らは逃走などしていない。それどころか、御木崎家の心臓にナイフを突き立てようと動いている。
しかしそれを伝える気は、張間にはもうなかった。普段どおりの冷静さを取り戻した何食わぬ顔で部下を見下ろし、
「お前は向こうの加勢を頼む」
いまだ庭で暴れている御影たちを視線で示す。
「数が減ったのなら鎮圧にそう時間も掛からんだろう」
もともと言葉の少ない上司の指示を、なにか策あるものと解釈したらしい部下は「では先にそちらを」と口早に答えて頭を下げ、急ぎ去っていった。
伝令役というシステムを知っていれば、張間の嘘は容易にばれる。母屋から出てきた時点で『逃走』でないことは明らかなのだ。
しかし卦伊は――それを知らない。先代や伊生と違って、大まかな規則やなにかは知っていても細々とした部分には興味を示さず、ゆえに張間もいちいち説明していなかった。だからこそ通せる嘘でもあった。
とはいえ、露見するのは時間の問題だろう。
張間は腰にしがみつく由芽伊に瞳をおろした。
「由芽伊様」
幼い顔が不安そうに張間を見あげる。
長年仕えてきた御木崎家のやり方に疑問を持ったことなど、今までない。今でもそうだ。けれどそれはあくまで正当な裁きを下す従来の宗家のやり方に対してであって、この一件、すなわち実那伊と卦伊の下した『特例』に関しては到底納得できるものではなかった。
――白紙に戻すべきは、なにか。
「あなたにとってあれは――あのルリという娘は、たとえギルワーであっても信頼に値すると、そう仰るのですね」
「あたいする」
由芽伊がこくこくと頷く。
「だって姉さまだし、それに……それにね、ゆめのことちゃんと見て、ちゃんとお話ししてくれた。はりまとおなじだったよ」
「……私と同じ、ですか」
唇が微かに緩むのが、張間自身にもわかった。
「少しでも……ほんの少しでも危険を感じたらすぐに私を呼んでください。必ずですよ。宜しいですね」
そっと、由芽伊の頭を撫ぜる。
そして――。
背中を押した。とん、とやわらかく。琉里に向けて。
「はりま」
小さな手がほどける。
張間が由芽伊の傍から離れた。
解き放たれた大砲が――来海に、向かう。
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