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曖昧な世界

「こども」って言葉に、妙に反発していたことがある。その根底には「どうせこどもだから……」という蔑んだ眼差しと、おとなになりきれていない自分への卑下があったのだと思う。
しかし、いまはこどもという響きが愛おしい。

言わずとがな、社会的な「成人の年齢」は単なる区別でしかない。ちなみに、おとなとは違うけど「青年」という似たような言葉もある。いろんな言い方で区別しようとするが、結局、曖昧というか、都合のいい区別なのかもしれない。

でも、おとな側から見たこの区分けの物語は数々の物語や歌になっている。『ピーターパン』は正にそうだし、『思い出がいっぱい』という歌も流行った。これらに出てくるこどもはどちらかというとキラキラしていて、いまからおとなに向かう主人公が描かれている。
いい加減に中年になると「そんないいもんじゃないよ」と言いたくもなるが、ともあれ、「こどもからおとなへ」を描いた作品はキラキラしたこどもがある程度のものを失いつつもキラキラしたおとなに向かう様が描かれていることが多い。

さて、「いい加減に中年になる」と書いた。
不惑を迎えたおとなは、寧ろ、「いい歳をしたおとながこどものようなことを言って……」と言われるようになる。
確かに、相手を思い遣ったり譲り合ったりの精神がないおとなは多いかもしれない。でも、そうじゃなく、たまに我を張ったり、可愛らしいわがままをいうことだってある。そんな人を時々愛おしく思う。

階段

「おとなになる」ってなんだろう。
世帯を持ちこどもを設けることだろうか。
嫌なことがあっても文句を言わず会社や家庭生活を営むことだろうか。
働いて得た収入をバックに欲しいものを欲しいだけ買うことだろうか。

どれもいまいちピンと来ない。
なにも考えずにやることをやって、しっかりこどもを設ける方もいれば、財力に任せてやる「おとな買い」もある。どちらも思慮より欲望が勝っている時点でおとなということは難しいだろう。
やっぱり、おとなはよくわからない。

立ち止まる贅沢

今朝、空を見上げると、見事な雲ひとつない秋の空だった。それは昼には見ることができない、朝独特の澄んだ空だった。
快晴の空は1年に何度も見ることはある。しかし、見事な秋晴れはそれほど多く見られない。「秋」は3ヶ月しかないからだ。
そして、この空を見て「見事」と思うためには、一刻を争う朝にわざわざ立ち止まって、ゆっくりと空を眺めないといけない。

贅沢な朝、である。
そして、贅沢な一瞬である。

その時ふと、「おとなってこういうことなのか」と思った。思っただけで確信はない。でも、多分こういうことなんだろうと。

自分がいる世界を一瞬立ち止まって見つめること。
そして、立ち止まれたことを贅沢と思えたこと。

若い時って、疾走感があって、周りに対して余裕がなくて、すぐにイキがって、生意気なんだと思う。歳を経て、少しだけ立ち止まる余裕が生まれ始めた時に新たに生まれた贅沢が、おとなってことなのかもしれない。

今日も少しだけ立ち止まろう。

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