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10月

10/3
 池袋にはザ・昭和な薬局がある。駅から向かう道にはドラッグストアが数軒あり、白い蛍光灯に照らされた高い天井の広々とした店内、店先には59円でサントリーのお茶が売っていたりする。そんな並びに昭和は合わない。初めてその薬局の前を通ったときには、何故こんな時代錯誤な名前・建物な薬局がこの地で営業し続けられているのか不思議に思った。入る勇気はないし、すぐそこに慣れたチェーン店のドラッグストアがあるし、あの薬局に入ることはないだろう。しかし医院の受付で「この薬は置いていない薬局もありますが、すぐそこに〜という薬局があり、在庫があります、地図入れておきますね」と手渡された図を見ると、その昭和薬局なのだった。なるほど…。私に必要な薬はここにあるらしい。しかし他のところに本当にないのかは分からない。人1人が通れるくらいの狭い扉、低い天井、窮屈な店内、見えない空間から次々に薬剤師の方がでてくる。店内に椅子はあるものの4〜5人しか座れない。人で埋まっていると、できるだけ身体を細くして縮こまりながら立ち待つことになる。壁には背中に薬を塗れるという不思議な形の靴べらみたいなものや、ガーゼや包帯やらが並んでいる。少し前に宮崎で地震が起きたとき、米や非常食や缶詰などの買い占めがあったが、その頃にも「えいようかん」は棚に並んだままだった。時が止まっているかのような不思議な空間。今日は私しか客がいない。いつもいる大きなおじさん、普通のおじさん、保健の先生みたいな女の薬剤師さん、奥にも何人かいるみたいだった。今日はいなかったが女の薬剤師さんで、アイメイクが鳳凰みたいにキラキラで中国訛りの日本語を話す人がいる。いまは誰もいなくて暇そうだな〜と思っていると、おじさんズは携帯を見せ合いながらたべっていた。

 移動。銀座の喫茶店でおやつを食べる。生チョコ300と手書きの付箋がメニューに貼られていた。このお店はこういうお試しみたいなことをするのだ。食べられる量なのか、パンケーキのトッピング用みたいなことなのか?ここは慣れてるお店なので堂々とどのくらいの量か聞くと、親指と人差し指を丸めて「これくらいのが4つです」とのこと。食べたら美味しかった。本でも読みたかったのだが、店内に一風変わった人がいた。放送業界の人なのか、今話題のとあるドラマについて、本当は別の会社が映画化しようとしていたが揉めて〜みたいなことを店内に響き渡る声で話し始めて、ヒヤヒヤした。その後にシナリオライター?とそれを採用する側?が2人で話し始めて2人とも声がでかく、会話はフルで聞こえる。ダメ出しを、相手が傷付かないように、でもビシッと言う男1、男2は「でも…」という感じで、そこは「でも」じゃダメだよー多分、言われた通り直さないとと余計な心配をしていると、2人の会話はどんどんズレていく。
「だって、前半にどんどん死んでいくじゃないスか」
「え?どこで?」
「3、4人死んでるじゃないスか」
「死んでないよね?」
最終的に!書いてきた側の人の原稿と違うものを相手は読んでいたのだ。道理で話が通じないわけだ。
「俺がまちがえたのかな?」
「間違いなく、間違えてます」

10/5
 風邪を引いてるんだが朝起きたときから上手く息が吸えず苦しい1日だった。ほとんど寝ていた。鼻詰まりもあり呼吸もしにくいのに息を深く吸うと心臓のあたりが痛む。浅い呼吸を繰り返していた。買い出しにも行けず。
 アダニーヤ・シブリー『とるに足りない細部』、伊藤亜和『存在の耐えられない愛おしさ』読了。

10/11
 昔男女数人のグループがあり、その中の1人A君はなんとなく嫌われていた。おそらくトロいから?あるいはいじめられっ子感があるから?または過保護に育ってきた子特有の空気の読めなさ?明確な理由はなく、なんとなく仲間外れ感のある子だった。ある日A抜きで集まろうという話になり、その中の1人の家でだべっていると、B君がA君を連れてやってきたのである。B君はとても、そういう人だった。人の悪口を絶対に言わない。大人になってまでハブとかやめよう、みたいな意識なのか、どうしてそうしたのかは全く知らないけれど、そういう博愛主義みたいな人だった。でもだからと言って周りの皆は博愛主義者ではないので、連れてくんなよ的な空気もあり。今思うとどうでもいいし皆適度に仲良くすべきだと思うが。
 それで今日そういえば昔こんなことがあった、と思い出していたら、頭の中の点と点が繋がったような気がした。
 これはある特定の人を指している話ではない。例えば山田さんという人がいる。山田さんは元々コミュニケーション能力が低い。だがB君的なポジションの人に恵まれていたせいで、誰かに無条件で優しくしてもらえること、気を遣って接してもらうことに慣れすぎてしまった。ゆえに山田さんはどんどん履いている下駄が高くなる。下々の民は必死にごますり続けるー中には不本意にやっている人もいるし博愛主義的になんのてらいもなくやっている人もいるー、だからある日違う村からやってきた田中くんが山田さんを見て、なんだこいつ?ウザっ!!!と言ってしまう。すると山田さんは田中くんが史上最低のひどい奴だと感じる。本当は自分が悪いのに。それで山田さんは田中くんを自分の世界から排除する。
 山田さんがこうなってしまったのは環境が大きな要因だと思う。例えば地位が高くなってしまった、機嫌を損ねると自分が嫌な思いをするから未然に防ぐことが周りの常識になってしまった、とか。兵庫県知事の話もそういう感じだと思うんだよね。例え彼が明らかに間違っていたとしても、適当になあなあにやり過ごせば良い、と高みへ逃げられる人もいれば、自分が直接危害を与え続けられることになってしまった人もいる。そして、正当に立ち向かおうとした人は自ら死を選んだ。それが仕事だといえばそうかもしれない。きっとそうだろう。それに誰にだって誰かを100%責める権利なんてない、自分にもそういう部分はある。それでも、山田さんが正しいわけじゃないというのも事実。

10/13
 たこアボカドバジルマリネ、豆腐ハンバーグ、じゃがいも揚げ焼き、かぼちゃの煮物、しめじツナ卵焼き。

10/20
 地元の友達と地元の散歩。再開発が目まぐるしく駅前はもはや知っている景色ではない。おしゃなレストランでおしゃなランチを食べ、通っていた小中学校まで歩く。懐かしさってめちゃくちゃ面白い。喋りすぎ、笑いすぎ、歩きすぎ、ヘトヘトで解散。

10/26
 神戸新聞取材班『黴の生えた病棟で ルポ 神出病院虐待事件』読了。
 池袋の医者へ。子供がおり看護師さんが「〇〇ちゃん、しゅ・ご・いねぇ〜!えらいね〜!あぁ〜他の人(私)もがんばってるから〇〇ちゃんもがんばろぉねぇ!」と言っていた。東武で買い物をしてルミネが開くまで本屋に行こうかと思っていたが忘れる。ルミネのSHIROで買いたいものが品切れ、マークスアンドウェブで代わりの物を買う。こういう代替品をその場で手にできるのが街って感じがするなと思った。西口のマツキヨの2階に行くのが面倒でスギ薬局の1階でリップを買うのと近い。

10/27
 昨日読んだ本に本筋とは関係ないのだけど、こんな話があった。廊下に大きな荷物がある、つまづいてしまった人がいる、その人は『誰だよこんなところに置きっぱなしにした奴は』と他責思考をする、置いた人は『何でこんな大きな荷物が見えないの?』と思う、という。人は誰でも自分が悪くない前提で考えるそうな。そりゃそうだ、と思いつつ。私が苦手なのは『私をつまづかせるためにこんなところに置いて!!』と怒られることなのだが、これはどういう思考?わざとじゃないし、なんなら置いたの私じゃないし、あと、自分も不注意だったじゃん。そんな風に人が自分を貶めていると常に考えていると、さぞ疲れるとは思うけれど、なんていうか、その人自身が日々徳を積んでいくしかないんじゃないのかなとここ最近は思う。そういう流れ弾にいつ当たるか分からないところから逃げられて安心。
 かぼちゃの煮物、ほうれん草ウィンナー炒め、鶏ささみ大葉チーズ、ぶりの照り焼き。

10/28
 この前もや〜っとしたことがあり、その原因を考えていた。多分、偏見→自分はそうじゃないから幸せであるみたいな考えが苦手なのかも。例えば「あの人は離婚歴がありシングルだから可哀想だ/自分が親だったらショックだ」みたいな。どういう事情があって離婚したかなんて赤の他人には関係ないし、その人は自分の子供ではない。仮に自分の子供が離婚して、それが残念だというならまだ分かるけど。世の中には色んな形があり、その人その人で選ぶ答えは違う。その人の選択を尊重しない感じが嫌なのかも。さらに私はそういう偏見を持っていることのほうが悲しいことだと思う。聞いてる方も嫌だしね。

10/29
 そういえば数年前のとても寒い日、大阪にいた。ホテルではもちろんよく眠れず、街もよく分からない。朝ごはんを食べにネットで見つけた良さげな喫茶店に行った。入るともくもくと暖かい。ジブリの世界みたいな趣のある年季の入った室内だった。コーヒーとパンを頼んだと思う。それからまた数ヶ月後のまた寒い日に再びその店へ入った。たしかまだコロナ禍で移動に警戒心が必要な時期だった。東京弁を話したらバレるんじゃないかとかいらないことを考えて。具体的に何を食べたとか、どんなメニューがあったかは覚えていないけれど、自分の知らない街に知っている場所ができた、ということが嬉しかった。そんな昔のことでもないのに今はお店の名前も駅の名前も思い出せない。あの、出口がややこしく、人の導線に全く則っていない道、高架下のおんぼろの店々、道路と電車が同じ並びに走る街。

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