分からないということが分かった。ー戦争についてー

  大学生の頃に森達也を知りました。彼はトピックにアプローチし、紆余曲折を経た後「分からないということが分かった」とよく言っていました。死刑制度についてもオウムについても結論はそうでした。これは私にとって村上春樹が「やれやれ」というのと同じようなものです。当時仲の良い人と「分からないということが分かった」と言えば「森達也みたいだね」というほど彼を象徴するフレーズでした。「分からないということが分かった」を真似するのは揶揄の気持ちもありました。また同じこと言ってらあ、です。

 大学の図書館には森達也のドキュメンタリーもあり見たことがあります。オウム信者とは?というようなテーマでした。見たのは随分前のことで内容はあまり覚えていないのですが、オウムの人は普通の人だった、何故あんな凶悪犯罪が生まれたのか分からないということが分かった、という感じだったかと思います。森達也はとことん突き詰めるのです。青い炎が燃えたぎっているようにも見えるしフランクに「俺は分からない。だから分かりたいと思った」とだけ思っているようにも見える不思議な距離感でした。普通フランクな疑問だけで何日も密着はしないのではないかと思うのです。オウムのドキュメンタリーを見た後には、彼らは危険人物ではなく、ごくごく普通の、あるいは今自分の隣にいる誰かよりも良い人のように見えました。信仰がある人は、何かを信じられている人は、ある意味強いと私は思っています。寺尾紗穂がいつだか地域の「オウム監視員」をめぐる話を書いていましたが、監視員が必要だと主張する人がこのドキュメンタリーを見たらどう思うのでしょう。ひょっとすると監視員達自身が一番オウム信者は普通の人だ、と思っているかもしれません。ですがあんなテロ組織と自分は違うのだと区分することで安心する誰かがいるのです。

 大学の文化祭のときに森達也が講義をしにやってきて、テーマは死刑について考えるだとかでした。女子学生が森達也に「死んだ人の人権は~、亡くなった人の写真や名前をテレビ等で報道するのは~」という話をし、彼は「ちょっと待ってください。死んだ人に人権はないんです。だから顔写真がばらまかれようと人権侵害にはなりません」と遮りました。「詳しくは僕の本に書いてあるので~」と言い(彼の一人称が僕だったか私だったか忘れましたが)、女子学生は涙声で全部読みましたと答えました。読んだうえでそう思うなら話は変わってきます。私には二人の相反する意見が分かりました。プライバシーを侵害されようと権利すらなくなる、それが死であるという森達也と、死んだ人にも権利はあるはずなのだという彼女。どちらが正しいかと敢えて言えば森氏の意見かもしれません。ただ顔も名前もさらされ、時に被害者であるのに非をあげつらわれたりする死者の扱われ方に疑問は持ち続けるべきです。

 「分からない」と「知らない」は大きく異なります。分かったつもりでいたのに、あれもこれも自分は分かっていない自覚があるのとないのとでは物事の見え方が変わってくるでしょう。私はウクライナという国を知りませんでした。ロシアによるウクライナ侵攻が始まってからツイッターでウクライナの国旗とナウシカの関連性について書かれているものを見かけ初めて国旗を知ったくらいです。ですから、そんな知らない国を何故ロシアが攻めているのかもよく分かりませんでしたし、メディアも周りの人も即座にウクライナを守る!と何故か立場を決められていることに奇妙な違和感を持たざるを得ませんでした。2022年2月に侵攻が始まってから戦争について考えてきましたが、私は一度もウクライナ側に立とうと思いませんでした。ロシア側に立ちたいという意味ではありません。"NO WAR"と英語で言っている人に聞きたいのですが、もしウクライナの対戦国がロシアではなくアメリカだった場合、あなたはどちらにつくのですか?日本が国を挙げてウクライナ側に立っているのは相手がロシアだからではないのですか?敵の敵は味方だからでは?私がそう思うのはアメリカがしてきた/している戦争について、私の周りの人は反対していなかったからです。バイデン大統領がウクライナでネオナチが市民を迫害している、彼らを守るために軍事侵攻は致し方ない、と言っていたら、今のような状況になっているでしょうか。同じようなことをアメリカは他国へ繰り返してきました。ロシアは悪でウクライナは被害者なのでしょうか。私たちが歴史を通して学んできたのは世界はそうした二元論で成立し得ないということではないのでしょうか。日本にとって都合の良い平和は世界の平和ではありません。ロシアが何の罪もないウクライナ人を殺戮している、許せない、という論法が私には分からないのです。自分には分からない、ということが分かった、というのが今の私の1つの答えです。そしてこれは森達也が言っていたことだと思い出しました。

 戦争について考えている間、頭を離れないのは自分の祖父が軍人だったことです。ロシア人がウクライナ人を、ウクライナ人がロシア人を殺している様を私はニュースでも知れますし、SNSで動画を見ることもできます。息も止まるような映像をiPhoneで再生しホームボタンを押せば終わるような世界線にいます。彼らが私と同じ人間で、彼らにも家族がおり、戦争前には普通の生活をしていただろうと推測できます。こんな場で、祖父は何をしていたのでしょうか。仮にメディアが言うようにロシア兵が野蛮だとしましょう。私は彼らに自分の祖父を重ねて考えずにはいられません。祖父がまさか誰も殺さず「戦争反対」と叫んでいたわけはないでしょう。そんなことを言える空気には見えません。むしろ率先してリンチしている人しかいないようです。なぶり殺すのとガス室で殺すのと、どちらが残虐なのでしょうか。

 私は祖父とあまり言葉を交わしませんでした。祖母や母から戦争について聞くと「おじいちゃんは昔戦争に行っていたのよ」と言った感じで、一般的な普通の語られ方でしょう。それは今のロシア兵士の語られ方とは大きく異なります。どちらかと言えばお国を守るために戦ったのだという角度のものでした。

 私は自分の人生におけるいくつかの認めがたい点-主に頭が悪く不出来であることに付随するもの-を、祖父の加害性に責任転嫁してきた部分があります。祖父母が第二次世界大戦下において加害者であった事実は小学生の頃からずっと胸の中に残っていました。直接的に言えば(祖父の名誉を傷つける言い方かもしれませんが)、自分のおじいちゃんは誰かを殺したのかもしれないと思い続けてきました。もしもそうなら私は何らかのバチが当たっても当然だというふうに。

 私と祖母は良好な関係でした。祖母にとって待望の初めての女の孫だったからです。「かわいい」「目に入れても痛くない」とよく言われていました。対し祖父とはあまり関わりがありません。いくつか覚えているのは、祖父が私をよく見ていたことです。水槽の中にいる亀か何かを見るようにただ観察、という意味合いです。私がソファで本を読んでいれば、離れたところに座ったままじっと見ていましたし、テレビを見ているときも同様でした。見られているから、チラリと祖父を見ると、目が合って、「いまおじいさんを見たね?ホッホッホ」といった感じで笑うのでした。こうして書いていても意味はよく分からないのですが私は見られていて良い気持ちではありませんでした。かと言って「見ないでよ!」と子供らしく言えもしませんでした。一度祖母と一緒に寝室で眠るとき、兄と一緒に騒いでいたのだかすると、祖父に大変に叱られたことがありました。どう叱られたのかはよく思い出せませんが、そのときに祖父の狂暴性というか攻撃性というか、自分の知っている人ではないような面だったと覚えています。襖が開けられて廊下に立つ祖父のシルエットが怖かったのです。祖父は温厚な人でしたし、それ以外に怒られた記憶はありません。その一度の叱責は「おじいちゃんは戦争に行った人」という思いと一緒に記憶の同じ引き出しの中に閉じられました。そのため私は特別祖父に懐いていたわけではありませんし、彼が亡くなったときも別段心が揺さぶられもしませんでした。それは私が高校生の頃のことでした。振り返ってみると彼が亡くなってから随分経っています。しかし今でもどこか色濃く彼の存在が残っています。彼が軍人であったと知らなければ留まってはいなかったと思います。

 祖母は私を好いていましたから一緒にいると私に色んなことを話しました(と書いていて思うのですが、私ははっきりと祖母が自分を好いていることを自覚していました)。そのうちの一つの話題は母が知らなかったことで、当時母が「そんなこと知らなかった」と少しショックを受けていたのを覚えています。祖母は大したことじゃないじゃない、そんなこと当時(戦後)は当たり前だったのよ、と軽く流しました。そんな風に娘には言わなかったことでも孫には話せるものがあったのです。祖父が亡くなってから祖母は特に「おじいさんは良い人だった」と振り返り、さよちゃんだから私のとっておきの話を教えてあげるといった調子で馴れ初めの話を何度でも初めて打ち明けるかのように楽しげに話すのでした。100回くらいは聞いているのですが、そういえば私は祖母に「その話は前も聞いたよ」と一度も言っていません。祖父が村上春樹を好きだったと知ったのも祖母から聞いた話です。祖父母の名前と村上春樹夫妻の名前が少し似ていることも関係あるらしいと聞きました。祖父と村上春樹は30歳くらい歳が離れていますし、私は祖父が本を読む人だったとも知りませんでしたので驚きました。さらに祖父が会社を引退後に何か物を書いていたらしいというのも祖母から聞いて知りました。このことを母が知っているのかは知りません。祖父が書いたものは日の目を浴びなかったようですが彼は妻には自分が何かを書いていることを言ったんだなあと思いました。何を書いていたのかは興味がありましたが私が読むことはありませんでした。どこかにあるかもしれませんし、祖父が処分したのかもしれません。祖父は病気で亡くなりましたが亡くなったときのためにか遺書のようなものを書いていました。みんなで仲良く、というようなことが書かれた簡易的なものです。彼の筆跡を最後に見たのはその時ということになります。祖父は何を文章にしたためていたのでしょう。そこに戦争の影響はあったのでしょうか。知りたいことはあるようにも思いますが、今祖父が生きていて話せる状態にあっても私は何も尋ねられないでしょう。人を殺したことはあるか、殺されそうになったことはあるか、慰安所を利用したことはあるか、など。聞いたところで何も語らなかったかもしれません。

 私には分かりません。祖父が誰かを殺したのかも、戦地で何を思っていたのかも、現代で殺人犯の家族は自殺に追い込まれるくらい非難されるのに自分はされない理由も。
 私は祖父の軍歴を調べることにしました。軍歴を調べられることは村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』という本を読んで知っていました。2020年4月のことです。調べることができるんだ、とは思ったものの調べようとはしませんでした。東京都の場合、孫であれば申請できます。私はロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに祖父の軍歴を知りたいと思うようになりました。少なくとも私は被ばく三世ではないのです。広島や長崎の人が原爆投下を悲惨な歴史として振り返り語ったりする場合があるのに、私は軍人の祖父を持つ孫として彼らと同じ立場で「戦争反対」とは言えません。多くの人が軍人の子孫であるはずなのですが、まるでそうではないかのように見えます。私は自覚を持ちたいのです。軍歴証明書を手に入れても、きっと○○部隊配属、とかそうしたことしか載っていないでしょう。ですが知れば自分の意識が少し変わると思うのです。鏡に映る自分がどのようなルーツを辿り今ここにいるのか知りたいのです。祖父は孫に軍歴を知られたくないかもしれません。ですが森達也が言うように故人には拒否権もなく、そして私には知る権利があります。分からないということを分かっていたいし、知れることを知りたいのです。

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