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考える

 戦争が語られるのはいつだって8月で地名は広島長崎、そして沖縄である。1945年8月15日は終戦記念日。6日は広島へ、9日は長崎へ原爆が落とされた。6月23日は沖縄慰霊の日。語られるのは何故1941年12月7日ではなく、ノモンハンでも南京でもなく満州でもないのだろう。
 私たちは8月になると戦争はいけないと平和を願う。2度と繰り返してはいけないと誓う。それは誰が主語なのだろう。なんだか被害者の立場から語られているように聞こえる。ひどく曖昧だ。2度と繰り返してはいけない。何を?核保有国が実戦で核を攻撃に使うことを?日本は核保有国ではないし、アメリカに訴えているのだろうか。被害を受ける側がそれを拒否することはできない。例えばアメリカや中国が日本を攻撃し始めたらどうしようもない。繰り返す、繰り返さないの判断は加害側に握られている。であるならば私たちが繰り返してはいけないのは真珠湾攻撃や南京大虐殺、他国を侵略して建国することであるはずなのではないか。

 私が違和感を拭えないのはあまりにも戦争加害の自認がないように見えるせいだ。いくら被害者寄りの学校教育を受けたからといって、満洲を知らない人はいないだろう。天皇陛下は現人神とされていた。他国を侵略して国を作り言語も文化も奪った。向田邦子でさえ天皇陛下を直視すると目が潰れるというのを訝しみながらも信じていた(彼女はチラリと見てしまうが目は潰れなかった)。そして1945年、天皇は人間になった。そうした価値観を持つ民族の子孫。天皇のためにと戦争を繰り返して。そんな国が、まるでそんなことなかったみたいにロシアを非難できるんだろうか。日本人は被害者の一面はあるが全面ではない。血塗られた手を合わせ祈ったら平和になるんだろうか。屁理屈の一つだが、じゃあアイヌは、琉球は?日本国土から独立するべきか?
 カルト宗教が不思議だ。そういう人もいるよね、と割り切るしかない一方、何故信じられるのかと疑問に思う。オウムも。天皇のために戦い続けられた人間の子孫が教祖のためにとテロを実行する。今月アメリカがアルカイダの現在の指導者を殺害したと発表した。オバマ大統領在任時もそうだったし、トランプ政権ではISの最高指導者が殺害される。それらのことに反対する人が私の周りにはいない。テロ組織だから?同時多発テロを名目にすれば一体何年人を殺し続けられるのだろう。指導者は殺してもいいのか、他に被害者は1人もいないのか?自分が攻撃されたから仕返ししても良いのか。ならば何故安倍元首相は殺されてはいけなかったのか。それは誰にとっての平和なのか。自分の平和は常に誰かを虐げたうえに成立しているように思う。安倍氏の国葬と原発再稼働は同時に発表された。国葬に反対する人はたくさんいたけど再稼働へ反対する人はわざわざ検索しなければ見当たらなかった。たった10年足らずで許容できてしまうんだと思った。電力の逼迫や値上げを引き換えにすれば。
 2月にWe stand Ukraina.と言っていた人たちを今はもう見なくなった。ウクライナのために、ウクライナの子供のために寄付を募る人も寄付する人もいた。私にはできなかった。そのお金がどう使われるのか分からない。ウクライナの子供は助かるべきでロシアの子供は助かるべきではないのだろうか。シベリア抑留も北方領土問題もなかったら日本はどちらの側についたのだろう。ウクライナの瓦礫の中に立つ子供の写真と寄付を呼びかける文章。中国人がロシア製品を爆買いするのと根底は同じように思った。屁理屈ばかりだが、もしロシア人がウクライナ人に銃を向けていたとして、自分が銃を持っていたらウクライナ人を守るためにロシア人へ引き金をひくんだろうか?standって一体どういう意味で使われていたのだろう。
 小学生のとき社会の授業で他国が日本の領海や領空に侵入してきたら即座に攻撃する、日本を守るためにと習った。実際には領空侵犯されても外交ルートで抗議するのみだった。東日本大震災の時、原発について習ったことは全部嘘だったんだと思った。そして悪いのは間違いを教えた側ではなく自分で何も考えずに鵜呑みにしてきた自分自身なのである。ロシアがウクライナの何の罪もない人を殺しています、戦争犯罪を犯しています、病院が攻撃されました。それらを鵜呑みにすることはもうできなかった。仮にそれが事実だとしてもウクライナの加害について何一つ語られないのは奇妙であった。検索すればいくらでも動画や写真がでてくるにも関わらず。何かを守ることが何かを攻撃することに繋がる。
 ジョンレノンとオノヨーコが反戦を訴えてもアメリカはベトナム戦争をやめなかったしベトナム戦争が終わっても世界は平和にならなかった。ロシアとウクライナの戦争が終わっても世界が平和になるわけではない。

 子供の頃、軽井沢駅で今の天皇陛下を見たことがある。駅前には旗を手に待ち構える人が連なっていて、私は新幹線の時間の関係で遭遇はできないはずだった。駅のホームにいると反対方向に新幹線が止まり、誰かがあの列車に乗っているらしいと言い、もしかしたら見られるかも、と思った。すると列車が過ぎた後に皇太子さま、雅子さま、愛子さまがいて、ホームのこちら側に手を振った。警備の人はたくさんいたけれど無防備に見えて、というか、私がもし物を投げたら当たってしまうような同じ高さに立っているのが意外だった。その場にいた全員が手を振った。直視できたことは何故か光栄なことのように思ったし周りも興奮しているようだった。あの時反射的に手を振っていたこと、崇めるような思いが、自分の思想たる思想を持っていない子供にも当然のように芽生えたのは、何故だったのだろうと思う。

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