小説『犬も歩けば時代を超える』(20話目)
20話 犬千代、あの日に帰る方法 前編
例え犬に生まれ変わっても、大好きなお母様と一緒に居られる恵みをもらって、私犬千代はすごく幸せだ。
犬の生活も悪くはなくて、これは飼い主によるのかもしれないけれど、わりと呑気に幸せにやっている。
特に私はお母様と言葉が通じるし「本当はこう言いたいのだけど、こうして欲しいのだけど」という不満もない。
まぁあえて言えば、お母様ともっともっと一緒にいたい、これに尽きるかもしれないが。
犬の年齢というのは、人間の年齢と違って年老いていく速度が速い。寿命が短いのだ。
古来から人間に付き添うように生きてきた犬族だが、その命は人間の命に付き添いきれなく長生きして15年程度。大型犬だと10年程度だろう。
最近は私の年齢も上がってきて、人間年齢に換算するとお母様の現代の年齢を越してしまった。
「また犬千代を先に失ってしまうのは、とても辛いわね。二度も息子を亡くすなんて悲しすぎる。」
お母様は悲しそうに言う。
私もそうですよ、お母様。そもそも先立つ不幸をしたことを謝りに現代へ転生して来たのに、また親不孝ですから。
ところが、こんな日々に小石が放り投げられ、静かな湖に一面の波紋が広がるような出来事がおきた。それはお母様の人間ドックのことだった。
「お母様、人間ドックとは何ですか? 人間が犬の勉強をするとか?」
私が言うと、お母様は笑って、
「人間ドックは、普通の人間の健康診断をもっと詳しく調べて、身体に悪いところはないか発見するところよ。」
と言った。
なるほど、人間の健康診断の精密的なものなのだな。
「お母様は何か身体に不安があって受けるのですか?」
と、ちょっと気になって聞いてみると、
「お母さんのお仕事場では、何年かに一度人間ドックを受けることになっているの。ただそれだけよ。もちろん気になる部分はプラスして検査することもできるわ。」
今の世の中は病気をする前から前もって対策を練るのだな。
私がいた戦国の世では風邪など引かぬようにというくらいで、あとは具合が悪いと薬師が来るくらいだった。
お母様が自分の健康を留意することは非常に良いことだ。
「それにね」
お母様が私に耳打ちした。
「この人間ドックの病院は、最後に豪華ランチ付きなの。なんとフランス料理のフルコース!自分への御褒美って感じよね。」
とウィンクして見せた。実に楽しそうだ。
ところが、このお母様の楽しみだった人間ドックが、お母様一家に影を落とすことになる。
お母様の楽しみだった人間ドックが終わり、その結果が封書で送られてくると、驚きの結果が記されていた。
『要精密検査』
それとほぼ同じタイミングで、病院から電話がかかってきて、
「人間ドックの結果についてお話したいので、来院をお願いします。」
ということだった。
内容はもう一度検査をするというだけでない、思いがけず深刻のようだ。
父親は子供たちには言わず、お母様と相談して二人会社を休んで病院へ行くことになった。
「子供たちには心配をかけたくないから、犬千代、内緒にしておいてね。」
とお母様は言う。
お母さんはどうしたのだろう?なんて子供たちが言い出したら、気をそらせて欲しいということなのだろう。
それに、父親も一緒に付き添うということは、それなりの大事なのだと察する。
その後夫婦は病院へ行き二人して夕方帰宅して、ちょっと沈黙しがちな状態だった。
「とりあえず、紹介状を持って大きい病院へ行こう。会社にはとりあえず詳しいことは言わずに休暇だけ取るとするか。」
と父親が言っている。
どうやら病院で告げられたことは良くないことだったようだ。私がそばで気をもんでいると、
「犬千代。」
とお母様が小声で言った。
「お母様は、寿命が短いお前よりも長生きできないかもしれない。思いがけず、親孝行のチャンスかもよ。」
お母様、今は冗談を言っている場合ではないのでは・・・。
お母様はそれから色々な経過を経てある大きな病院へ入院することに決まった。
「お母さんは、人間ドックで癌が見つかったために入院して手術をしてきます。正直なところは、初期と言えず手術して開けてみないと分からない状態になっています。」
お母様は子供たちに話した。
つつみ隠さず話し、それ以上の憶測はさせないという方針なのだ。
「お母さん、癌って色々あるんでしょ?どこの癌なの?」
長男が言った。
「お母さんのものは胸にできる癌で、一般的に乳がんと呼ばれているものよ。検診には行っていたんだけど、分かりづらいところにあって進行していたようなの。」
子供たちは想像していたようで、あまり驚かない。
「この癌を入院して切除して、再発を防ぐ処置をしてきます。お母さんのことはお医者さんと看護師さんに任せて、あなたたちはお父さんを助けて家を守ってくださいね。」
お母様は毅然として言っている。
この理路整然と静かにしっかり言うところは、戦国の世から変わらない。
「私は必ず帰ってくる。みんな、自分の領分をしっかり守って生活するように。以上!」
病気というものは、本人がしっかりしていようがいまいが、関係なく進んでいくものだ。
この発達した現代にあって、なぜお母様が癌というややこしい病気になったのか分からない。
何しろ戦国の世でのお母様は特に健康診断なども受けず、城にいて大した運動もせず、城が落ちて逃げ延びた後も長生きしていた。
この何でも進んでいる現代なら、冷蔵庫のドアを開けるより簡単に病気など治せてしまいそうなものだ。
だが、お母様はそれからなかなか帰ってこなかった。
私は窓辺で毎日お母様を待ち続けた。
時々父親がお母様の病院へ行っているようだが、私は父親とは話が通じないので、細かいことが分からない。
でも思わず、
「お父様、お母様はどのような状態ですか?」
と父親に言ってしまった。
父親にはその言葉は「ワンワンワン」としか聞こえないはずだ。
ところがニュアンスは通じていたらしい。
「お母さんは手術をしてみたが、やはり転移があって良い状態とはいえない。そうだ、お前に会いたがっていた。すごく会いたがっていて、でも病院に犬って有り得ないと思って躊躇していたんだが、お前を見たらきっと元気が出るよな。そうだ、お前を連れて行こう!」
父親は私をバックに詰め込むと、空気穴を少しあけてくれた。
必要なものを持つと、病院へ出発した。
私は「病院へついたら、無駄口はダメだな。ワンワンって周囲に聞こえてしまう。」と肝に銘じた。
何しろお母様に久しぶりに会える。
父親は病院へ付くと、病棟のナースステーションに寄ったが、そそくさと名前を書いたりすると病室へ向かった。
私がワンと言うと困ると思ったのだろう。
「おい、来たよ。」
病室のドアをそっと開けた。
病室は個室になっていて、父親は病室の外の廊下を確認すると扉を注意深く閉めた。
「どうしたの?なんだか、あなたおかしいわよ。」
お母様の声だ。やっぱりお母様の声はいい。
「ほら、お前の一番欲しかったものだ!」
父親がバックをガバッと開いた。私がちょこんと座っている。
「犬千代!・・・あ、ゼット!」
私たちは抱き合って喜んだ。
お母様は涙を流していたが、私にも流せる涙があるなら、滝のように流していたことだろう。
「お父さん、ごめんなさい。ちょっとだけ二人にしてくれる?」
お母様が父親に言った。
「いいよ、下でジュースを買ってくるよ。ゼット、吠えるなよ。」
私はうなずいた。
「犬千代。」
お母様が私に言った。私の肉球をくりくりとさわっている。
「私は年老いた犬千代よりも今回は長生きはできないよ。」
お母様が言う。お母様はずいぶん痩せてしまった。
「今思うと、前世は私も犬千代も健康だった。なのに命を粗末にしてしまった。あの時、母として犬千代をもっともっと必死で止めるべきだった。そして、城を逃げ延びてでも一緒にいるべきだった・・・。」
お母様は天井を仰ぎ見た。
「こうやって、私を探して犬千代がやってきてくれて、私は幸せ者なのだけどね。」
お母様がにっこり笑って私を振り向いた。
私たちは手を握り合って力強く抱き合った。
すると、いつか見た光が私たちを再び包んだ。
お互いの命が尽きる、そこでエンドということなのか。
この光の意味は一体どういうことなのか。
「犬千代、戻ろう。」
お母様が私にささやいた。
光が私たちを包み、ここが病院の一室なのかどこなのかも分からない状態になって、その後光がスッと消えた。
周囲を見回すと、そこは前世で私とお母様が暮らした戦国時代の城内だった。
(21話へ続く)
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