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【年齢のうた】ムーンライダーズ その2 ●弟が唄った30歳、兄が唄った19歳

お盆のうちに、2年ぶりに友人と飲みまして。元気そうだったし、楽しかった。
もともと僕はあまり飲まないほうですが、それでも独身の頃は夜によく出かけては飲んでましたね。まあ人と会って話すのは好きなので。
こないだは夕方から飲み始めて、短時間でササッとね。最初は瓶ビールを1杯だけ。あとはメロンサワー、ハスカップサワー、黒ぶどうサワー。あ、ふじりんごサワーにはたどり着かなかった。

しかしアルコール(今回はそう言うほどでもないけど、いちおう)って、何であんなにたくさん飲むのが普通なんでしょ。とくに飲むのが好きな方は、ビールを何本とか、日本酒を何合とか、すごい量になるじゃないですか。ヘタしたらひと晩で何リットルとか。でも日頃、アイスコーヒーやコーラやカルピスや、まあ何でもいいけど、何リットルも飲んだらおかしな目で見られるわけですよね? あ、昨今の酷暑の場合に際しては、水とかお茶とかスポーツドリンクをそんぐらい飲むのはありでしょうけど。
……というようなことを大学時代だったかに、真剣に考えてました。僕は。
はい、コーヒーを飲みすぎて寝れなくなることが、いまだにある青木です。

今回のアイキャッチ画像は、鈴木博文が1988年に出版した著書『僕は走って灰になる』です。出た当時に買って、読んでました。

ぼくは三十歳と三十一歳の間の、青二才


鈴木博文は、1954年の5月生まれ。
ムーンライダーズの発起人である鈴木慶一の、3歳下になる、実の弟である。バンドではベースと、そして主に自身が書いた曲ではヴォーカルをとるケースも多い。これはほかのメンバーも同じくだが。

彼は物書きとしても優れていて、僕はその文章が好きだった。初の著書となった『僕は走って灰になる』はもちろん、さまざまな音楽雑誌などに掲載されるこの人の原稿を読むのが楽しみだった。

このたび、『僕は走って灰になる』をひさしぶりに手に取って、当時の彼の正直な心情吐露に浸った。その繊細なロマンチストぶり、心の中に湧き上がるホロ苦さ、せつなさの描写。とくに家族や、そして恋についての記述は心に残る。何10年ぶりかに思い出しながら読み、ちょっと引き込まれてしまった。
そうした個人性は、この本では「ぼくがいた場所 博文日記 1979-1983 より」に顕著だし、あと彼はミュージシャン、そしてシンガーにしてソングライターだけあって、当時のアーティストや作品について書いた文章も収録されている。それぞれに思い入れが感じられるし、それを表す文才のある人だと思う。

この本の、ビートルズについて書かれた文章たちの一番最初に、「日本のストロベリー・フィールズ」と題されたテキストがある。表題は、鈴木博文自身が育った羽田近辺のことを、ビートルズになぞらえているようだ。
その冒頭は、こんな文章である。

ぼくは三十歳と三十一歳の間の青二才だけど、人並に昔を懐かしむこともある。懐かしむ音のほとんどは、年代もはっきりしないぼやけたことばかりだけれど、ビートルズに関することだけは、その時につき合っていた女の子のハイ・ソックスの色も、その時に飼っていた小鳥の色も覚えている。彼らの一つ一つの歌のまわりに、いろんなぼく自身が未だに色褪せることなくふらふらしていることは、ぼくにとってとても楽しいことだ。

書き出しの、たったこれだけの短さの中に、ビートルズに絡めながら、女の子のハイソックスや小鳥の色の記憶をたどる自分のことを収めて書いている。

そしてここで【年齢のうた】的に注目したいのは、30歳と31歳の間の青二才、という表現だ。
この文を書いたのは、1985年の4月とされている。鈴木博文は1964年5月生まれなので、つまり31歳になる前月。前回紹介した「30(30AGE)」を収録したアルバム『アマチュア・アカデミー』を発表した翌年である。

僕は「30」について書いた際、あの頃は世の中に、早く大人になるよう促す空気があったことに触れた。そうしてあの歌を書いた鈴木博文は30代となり、アルバムがリリースされ、僕たちファンの元に届いたわけである。

その次の年。ここで彼は、もうすぐ31歳になる自分を青二才、つまり未熟者だと言っている。30代になるにはなったがまだまだだ、と、サラリと書いているのだ。
これは、80年代半ば当時は、自分(鈴木博文)の上の世代には人間的にちゃんと成熟した人たちがいて、自分なんて30とか31になっても全然まだまだだよな、という認識の表れではないか……と僕は感じる。

また、この本を含め、3つ年上の兄のことに言及している箇所では、高校時代から音楽に足を踏み込み、いち早く外の世界に触れていた慶一が自分よりも先を歩いている印象を抱いていた気持ちが伝わってくる。先ほどの文の中には、こんな記述も。

(前略)彼はぼくの最も身近にいるジョン・レノンになった。

今でも、鈴木慶一とジョン・レノンはぼくの中で同じ色の影を着ることがある。

鈴木博文はソロ作品も多数出している。その初期の作品は、モノトーンが基調のアートワークも含め、ジョン・レノンの初期作品を意識した部分があるように思う。

「G.o.a.P.」、十九歳って宙ぶらりん


続いては、その鈴木慶一についてである。
前回から言及している1984年のアルバム『アマチュア・アカデミー』には、もう1曲、歌詞で年齢が唄われている作品がある。「G.o.a.P.(急いでピクニックへ行こう)」だ。頭から3曲目、つまり「30」の直後。作詞は、鈴木慶一である。

僕が19で君が生まれて、君が19の時に僕と出会って、という歌詞が鮮烈だ。ということは、主人公の男は38歳という設定? この時、鈴木慶一自身は33歳のはず。作曲はキーボードの岡田徹である。
年齢のことからも、この歌はかなりの部分がフィクションであると思われる。ストーリーとしては、森や海でワインをたしなみ、堕落したいやぁと唄っているあたりがヤマ場。そう、「30」同様、ここでもワインが登場しているのだ。僕はまるで詳しくないが、この当時ワインを飲むことはそこそこ若い世代でも一般的だったのだろう。そしてこの歌における慶一の、ふにゃりとした唄い方に引き込まれそうになる。

この曲「G.o.a.P.」に出てくる19歳について、鈴木慶一本人は『ユリイカ』のムーンライダーズ特集号(2005年6月号)に掲載されたインタビューで、こう語っている。

<19>という言葉がノリがいいのもある。現実に十九歳違う人と付き合ったわけじゃない。……十九歳って宙ぶらりんだよね。高校は卒業したけれど、まだ大人じゃない。そこらへんに引っかかってたんだと思う。

ノリで書いたかもしれない19という言葉だが、ただ、19歳はまだ大人ではない、微妙な年齢である、という認識はあったとのこと。
これはおそらく、鈴木慶一がその年頃、19歳前後だった1970年頃、50年以上前でもそうだった、ということではないだろうか。
彼も19歳の頃、宙ぶらりんな感覚があったということだと思う。

この『ユリイカ』の慶一インタビューはかなり深掘りされていて、それ以外の記事も非常に読みごたえがある。ここでは年齢の話に限るが、このインタビューでは、たとえば20歳と30歳の時には自殺願望があったことが話されていたりするのだ(このことは過去に他でも読んだ記憶があるが)。こんなふうに年齢に関する話題もそこかしこで出てくるなど、兄の鈴木慶一も自分の歳をかなり意識しながら生きてきたことがわかる。

ムリはないことだと思う。これは近代までの、主に昭和時代の日本の特徴のような気がするからだ。前回書いた30歳の話もそうだが、あの頃は、「今あなたは何歳なんだから」「もう幾つになるんだから」という事実を当たり前のように押し付けられ、それに向かいながら生きなければならない時代だった。

それにしても「G.o.a.P.」のゆるいグルーヴからにじみ出るエロティックな空気感は、今聴くと時間の流れを感じる。それは時代性という観点もあるし、この時期のライダーズにはこうした官能的な歌やラブソングがいくつかあったことや、自分はそこにもムーンライダーズの他のロックバンドとは異なる個性を覚えたことを思い出すからだ。30代になった彼らも、まだまだ、全然若かった。

また、こうした官能系で言えば、本アルバムにはかしぶち哲郎が書いた「S・E・X(個人調査)」が収録されていて、そのなまめかしい感覚も秀逸だ。ここらはレコードではA面の流れである。
そういえば昔、かしぶちには電話インタビューをしたことがあり、そこで映画音楽の話を聞いたことがある。ていねいな話しぶりで、ミシェル・ルグランをイチオシしてくれたものだった。

つい回想してしまったのは、悲しいことに、かしぶちは10年前に、先ほどちょっとだけ名前を出した岡田は今年、亡くなってしまったからだ。思い出があるファンのひとりとしては、悲しい。
彼らがムーンライダーズをはじめとした音楽の場で残した数々の輝かしい作品は、決して忘れられない。

さて、『アマチュア・アカデミー』が出た1984年は、アルバム『マニア・マニエラ』がカセットブックという特殊な形態でリリースされた年でもある。『マニア・マニエラ』は、さかのぼることこの2年前、レコード会社の判断により、ほぼお蔵入りにされていた作品である。

というのは、当初このアルバムは、まだ普及するはるか前のCDというソフトだけでリリースされただけで、多くのファンは聴くことができなかった。それがカセットブックという形ながらようやく聴けるようになり、それを購入した自分は強い衝撃を受けたわけだ。そのぐらい、とんでもないアルバムだった。
1984年は巨大なブームにまでなったYMOが散開したあとだったが、ムーンライダーズのこのアルバムは、『BGM』や『テクノデリック』(いずれも1981年)に比肩するほどディープで鮮烈で、そして革新的な世界を表現していた。破格の表現世界を刻み込んだ『マニア・マニエラ』に触れたことにより、そこで自分は「ライダーズ、恐るべし」という認識を持った。その後、このアルバムの曲たちに影響され、僕は梶井基次郎や稲垣足穂の小説を読んだりもした。
もっとも、それだけトガったアルバムだからこそ、レコード会社側が『マニア・マニエラ』の発売を見送らせたことも、理解できなくはない。
ただ、このアルバムが1982年に、通常通りに発表されていたら、音楽シーンに大きな波紋を巻き起こしたのは間違いないと思う。

まだ10代だった自分は、ムーンライダーズの諸作品に浸りながら、上の世代のミュージシャンには本当にとんでもない人たちがいるのだなと痛感した。そして、そんな彼らは、少年のような表情もしながら、徐々に大人になっていこうとしていたのだと思う。

それこそ19歳かそこらだった自分は、さっきの曲にあった堕落やみだらなことへの憧れを胸にしつつ、しかし30代の大人に比べたら、もっともっと、お話にならないくらいの青二才だった。そして、10個以上も年が離れた……自分より早く大人になっていこうとしているバンドの音楽に、崇高な何かさえも感じ、心を震わせながら、聴いていた。

(ムーンライダーズ その3 に続く)


居酒屋で飲んだ、たぶん黒ぶどうサワー。
写真が酔っぱらってるみたいで困る

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青木 優
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