【年齢のうた】ザ・ハイロウズ●パンク・ロックの衝撃!その初体験の瞬間を叫ぶ「十四才」
ちょっと涼しくというか、寒めの気候になってきました。
そうして寒さも徐々に増してきた先週、サム・スミスのライヴに行ってきました。寒スミス。まあ、そこまで寒くもなかったけど。
5年ぶりの来日公演でしたが、以前と打って変わっての一大エンタメショーで、いやぁすごかった。まるで往年のプリンス、あるいはマドンナに近づかんばかりの領域(マドンナの最新ツアーも相変わらずとんでもない模様)。昨年から大ヒットした「アンホーリー」を聴いて見て、これは次にサム・スミスが来たら絶対に観ないといけないなと思ってたんですが、この人、完全に化けました。すさまじい!
しかし大阪1日、横浜2日の計3公演の予定が、最後になる土曜の横浜は開演直前にサムの体調不良により、キャンセルになったとのこと。もうすぐライヴが観れると思ってたお客さんたちは残念でしたね……自分も過去にポール・マッカートニーでその経験あります(腸捻転)。サムにもみなさまにも幸運が訪れますように。今週の韓国公演は行われているようですね。
それから先日、谷村新司さんが亡くなられました。彼について何も書いたことがなかった僕が、初めて書いたしばらくあとにこの世を去られるとは。ご冥福をお祈りします。
では今回は、ザ・ハイロウズについて書きます。
このバンドでフロントを張った甲本ヒロト&真島昌利のふたりは、それ以前はあのTHE BLUE HEARTSで世に出た存在で、現在はザ・クロマニヨンズで活動を続けています。
僕も彼らには何回かインタビューをしたことがあります。それはこのロッカーたちが発する痛快な言葉を生でもらえる幸福な時間なんですが、かたや毎回どう質問をぶつけていけばいいものかと、頭脳と反射神経を使う、まるで修行の空間でもあります。
そういえば今回ひとつ思い出したことがあって。6年前にヒロトにインタビューした席で、彼からガーランド・ジェフリーズが来日するという話を聞き、そこで初めて知った僕はええー!っと驚いて。その取材後に急いでチケットを押さえたものでした。ガーランドは、自分が10代で傾倒したブルース・スプリングスティーンを引き合いに出されることが多かったロックンローラーです。
ガーランドのライヴは本当に最高でした。当日は彼からサインももらえたし……その数年後、ツアー生活からは引退したらしいですが。ともかく、あの取材の場で話題に出してくれたヒロトに感謝です。
で、ここではそんなヒロトが残してきた歌のひとつ、「十四才」について。
リアルよりリアリティ!
ハイロウズが2001年に発表した曲「十四才」。年齢ソングとして見れば、そのものズバリの曲名である。
なぜ、14才なのか。
唄いだしの言葉は、ジョナサン!だ。その後の歌詞に、きりもみとか音速という表現があるので、これは『かもめのジョナサン』のことだとすぐにわかった。
『かもめのジョナサン』はリチャード・バックという作家が書いた小説で、1970年代初めに世界的なベストセラーになった。自分の内なる衝動にまっすぐに向かうカモメの物語で、映画化もされている。
ただ、僕はそれと同時に、ジョナサン・リッチマンのことも思った。70年代にモダン・ラヴァーズというパンク・バンドを率いたこのアーティストの音楽をヒロトは好きに決まっている。
こうした背景について探索したところ、水道橋博士のブログで、この歌について書かれている箇所があった。
よく知られている話で、水道橋博士は岡山の中学時代、ヒロトと同級生だった。その彼の自宅にヒロトが遊びに来た時のことを近しい方が書き留めた文章が載っている。2003年の6月なので、20年も前のことだ。
正式な取材でもないので、おおよそのニュアンスで捉えるべき内容だろう。それでもヒロトはここで、やはり『かもめのジョナサン』を意識していたことと、ジョナサン・リッチマンのことを話している。あと、プロレスラーのドン・レオ・ジョナサンも。
そしてこれも書かれているように、僕も『かもめのジョナサン』は、同じリチャード・バックによる小説『イリュージョン』とともに記憶にある作品である。
いずれにしても、『かもめのジョナサン』と、パンクロッカーであるジョナサン・リッチマンとで、ジョナサン。そこからは初期衝動という言葉が頭に浮かんでくる。自分が若い時分に覚えた、青くて純粋な心。そこで湧き上がる感情、衝動。
そしてハイロウズの「十四才」は、リアルよりリアリティ……という必殺のフレーズを叩きつけてくる。
リアルよりリアリティ。直訳すれば、現実より現実性。この言葉にはさまざまな受け止め方があるはずだ。
僕が感じたのは、現実のこと、目の前で起きている本当のこと、明らかな事実……なんかよりも大切なことがある。それが自分自身が強く感じたこと、心に深く突き刺さったこと、そしてそれについてどう感じ、どう立ち向かっていこうとするのか、ということ。
つまり、勝手に感じたってOK。誤解、拡大解釈、何だっていい。一番大事なのは、自分がどうしていきたいかを感じ、思い、行動に移していくことだ、と。
この歌の底にあるのは、そういうものではないかと思う。
ヒロト少年の扉を開いたパンク・ロック
それでは果たしてヒロト本人の14才、中学2、3年生当時はどうだったのだろう。これが曲を理解する上で、必要なことだとは思わないが、何かを知るきっかけにはなるかもしれない(それこそ、リアルよりリアリティが大事である)。
というわけで、彼が応えてきた過去のインタビューから、14才頃の自分について語っているものを探ってみた。熱心なファンなら知ってる事実ばかりだと思うが、重要なことが多いので、書いていこうと思う。
甲本ヒロトは1963年3月の生まれで、今年で還暦を迎えている。育ったのは岡山県岡山市。僕も何度か訪れたことがある街なので、ちょっと懐かしい。
ヒロトが音楽に最初にショックを受けたのはマンフレッド・マンの「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」で、このことはあちこちで話している。有名なヒット曲で、これに触れたのが中1になりたての春ということなので、12才。
それから彼はローリング・ストーンズやビートルズ、ブルース・スプリングスティーンなどを聴き、洋楽ロック・ファンの道を進んでいった。
その後に、いよいよ大きな衝撃を受ける瞬間がやって来る。パンク・ロックとの出会い。これがまさに14才の時である。
(前略)
ところが、中学2年~3年の頃にパンク・ロックが出てきた時、あれれって思ったんです。次は僕の番だって。お前なんでやんねーんだよって。セックス・ピストルズ、それからクラッシュ、ストラングラーズなんかがいっぺんに…。なんでやらないんだ俺! と思わせてくれたんですね。
それで、いやあもう具体的にどうすればいいのかわかんなかったけど、とりあえずやる!って決めて。それで親に相談したんです。「日本の法律では中学までいけば良いんだよね。だからあと1年行くよ。そしたら法律的にはオッケーだよね。そしたら東京行ってバンド組む」って。
(書籍『ジャパニーズ・ロック・インタビュー集 時代を築いた20人の言葉より』 2010年 より)
14才のヒロト少年は、とくにピストルズのアルバム『勝手にしやがれ‼』をとことんまで聴いたようだ。
(前略)
その人から買ったの。「じゃあ僕が買う!」って。その日から毎日、朝起きたらセックス・ピストルズを聴いて、学校に行ったら授業中ずっとその音を頭の中で鳴らし続けて、うちに帰ったらセックス・ピストルズのレコードを聴くの。毎日だよ。
(中略)
そこで僕は初めて能動的になった。僕がそれまでロックを聴いて思い描いていた理想形がそこにあったからね。「あ、これ俺のやり方だ。これは俺がずっと頭の中で鳴らしてた音だ!」って。「ずるい、先にやられた!」って焦ったんだ。「もし俺がセックス・ピストルズよりも先にやってたら世界一になれてたんだ!」と思ったんだよ。
(書籍『ロックンロールが降ってきた日』 2012年 より)
僕が先にやってたら世界一……!
そう思ってしまうぐらい、パンク・ロックは彼の心に刺さったのだ。
この世の中は僕のためにもちゃんと扉を開いた。びっくりした。突破口ですよ、この細い穴から世間に出ていく突破口。こたつかちゃぶ台でテレビの世界しかなかったし、レコードを好きになってからは朝から晩まで小さなプレーヤーの前に座ってた。そこで初めて、親に養ってもらおうっていう気がなくなったんですよ。それまでは親が死んだら僕も死ぬと思ってたの。だって僕は働けないわけだから。
(書籍『14歳 Ⅲ』 2014年より)
この最後のあたりのニュアンスは、まだ中学生でとくにやりたい仕事がなかったから、生計を立てることなんてできない、という気持ちがあったらしい。
また、さっきのインタビューでヒロトがレコードプレイヤーについて話していることは、「十四才」の終盤の歌詞につながってくる。そう、プレイヤーが、スイッチを入れれば必ず十四才にしてやるぜ、と告げるくだりだ。
なお彼はこの後、高校入試の前にステレオを買ってもらったとのこと。
さらにこのインタビューでは、14才の自分に言ってあげたいことを訊かれて、「反省しろ」と答えている。
自分が無意識であったがゆえにね、周りにいっぱい迷惑かけてると思うんですよ。だから謙虚になれ、親には苦労かけたんだろうなぁと思うし。
かっこ悪いんだもん。かっこ悪いよ。14歳のときの自分なんて最低ですよ。14歳だけじゃない。僕は過去の自分は全部かっこ悪いと思う。昨日までの自分。かっこ悪いよ。去年の僕も、おととしの僕も、先月の僕も、かっこ悪い。だからなんとかならないかと思ってもう一日生きてみるんだよ。
今思い出す自分の14歳なんてクソですよ。最低ですよ。それを映像化するなら、美化はできない(笑)。でもね、予期せぬことってのは起きるから。なんでもいいから、一生懸命やれるものがあるといいね。それだけです。そうすると予期せぬことが起きる。どこかで喜んでくれてる人もいる。喜ばせようと思ってやるんじゃないんだよ。でもどこかで誰かが喜んでくれるかもしれない。噴火できる場所を見つけられるといいね、みんなね。それにはまず、感動することだよ。そこから何かが始まるから。
(『14歳 Ⅲ』 2014年より)
一般的にも、14才が自我が芽生えてくる年齢であることには違いない。それまでの子供っぽさと、自分自身はどう生きようとしているのかがだんだん大きくなってくる時期。夢と現実が本当にぶつかり始める年頃とも言えるだろうか。
ここからのヒロト少年の行動は、まるでロックにとりつかれたかのようだ。
中学を卒業して、東京に行って、バンドを組んでロックをやる! ヒロトはそう主張し、父親を説得しようとしたけど、反対されてしまう。しかしその理由をうまく説明できない父に対して、彼は勢い余って顔面を殴ってしまったというのだ。その後悔も、ヒロトは正直に語っていることを記しておく。
それからのヒロトは、さらにロックにのめり込んでいく。たとえば岡山にライヴをしにやって来たシーナ&ザ・ロケッツに接近し、交流を持ったり。このことはのちに東京でシーナと鮎川をはじめとしたメンバーたちとの交流につながっていった。
高校時代にはラウンド・アバウトというバンドに加入。卒業後は大学に入るために上京し、そこで本格的なバンド生活へと入っていく。そしていくつかのバンドを経た20代前半、THE BLUE HEARTSで大ブレイクを果たすのだ。
こうしてみると、ヒロトは本当に14才の時に、自分の衝動のど真ん中に火を点けられたような感覚を持ったということだろう。
14才……その始まりの年齢に、もちろん個人差はあるし、人それぞれではある。ただ、14才という年頃は、それだけ多感で、自分の中の考えや思いがどんどん大きくなっていくことが多い年齢なのだろう。
ところでひとつ、念のために。
「十四才」……14才という年齢は、2000年代に入ってから特殊性を帯びたと感じる。そう、中二病(あるいは厨二病)という言葉が一般的になり、その対象年齢として認識されるようになったからだ。そこには、思春期のウズウズした感情や衝動を切実なものとして捉える視点もあるだろうし、そうした動きをネット文化特有の茶化すような、どこか小バカにしたような見方をするケースも存在する。
そのため、何かのケースで14才について言及すると、「中二病真っ盛りの年齢」であると解釈されることが多くなっているのではないかと思う。また、送り手側もそれを前提で14才と言っていることも多いはず。とはいえ、中にはもちろんこういう動きとは無関係の言い方の、単に14才について語っている場合も混じっているだろう。
序盤に書いたように、ハイロウズの「十四才」のリリースは2001年。当時は中二病という言葉はまったく一般的ではなく、もちろんこの曲も直截な関係がない。あくまでヒロト個人の感覚だけで書いた曲だと思う。
ロックやパンクでは、初期衝動という言葉をよく使うが、そのほんとに最初の、ほんとに人生で初めの衝動というやつは、こんなふうに全身が雷に打たれたような瞬間のことを指すはずだ。
その刹那の熱をズバッと描いた「十四才」。最高のロックナンバーだと思う。