【年齢のうた】沢田研二 ●真っ白なジュリーに震えた。75歳のバースデーライヴ!
2023年6月25日、日曜日。さいたまスーパーアリーナ。
沢田研二「まだまだ一生懸命」ツアーファイナル バースデーライブに行ってきました。
今回は【年齢のうた】特別編として、このことを書きます。
その前に……。
僕自身は小学生の頃から沢田研二のファンで、高校時代からはコンサートにも行くようになりました(当時よくぞ島根県に来てくれました)。のちに上京し、1994年に音楽ジャーナリスト/ライターの仕事をするようになって以降もそうで、ご本人には1997年(TV雑誌『テレビブロス』に掲載)と2001年(音楽誌『音楽と人』に掲載)の2回、直接インタビューしています(厳密には、最初の年にはもう1度だけ取材しています)。
もう20年以上インタビューの機会がないのですが(取材そのものをほぼ受けていない様子)、彼についての記事は時おり書いています。
これは2008年、還暦記念の東京ドーム公演。オリコンでの、即レポのようなニュース記事です。
2014年にはザ・タイガースの再結成ライヴについて、リアルサウンドで書きました。当時の音楽シーンのバンドの再結成にまつわる状況の考察もしています。
また、沢田研二という存在について、一昨年は雑誌『昭和40年男』vol.69に、昨秋はその姉妹誌の『昭和45年女 born in 1970』vol.9に寄稿しました。
今回の前に直近でライヴを観たのは一昨年9月の渋谷公会堂(LINE CUBE SHIBUYA)で、その時の座席はなんと最前列という幸運に恵まれました(先行予約で購入)。しかし今回のさいたまスーパーアリーナで買えたのは、対照的に、天井に限りなく近い席。ただ、アリーナ会場全体のスケールを感じながら今のジュリーのパフォーマンスを堪能できたことはとても良かった。
では、ここからが本題です。まずは当日のセットリストから。
6月25日 さいたまスーパーアリーナ公演 セットリストおよび構成
(各楽曲は、特記がない限り、基本的にシングルのタイトル曲)
開演 17:00
<オープニング映像>
(大型ヴィジョンに、1948年6月25日、つまり沢田研二が生まれた日が表示され、続いて以下の楽曲のリリース日とジャケット写真の映像を掲示。歌のサビ部分が少しずつ流れる)
僕のマリー(1967年 ザ・タイガース)
追憶(1974年)
カサブランカ・ダンディ(1979年)
ストリッパー(1981年)
色つきの女でいてくれよ(1982年 ザ・タイガース)
サーモスタットな夏(1997年)
LUCKY/一生懸命(2022年)
<第1部 ザ・タイガース>
1. シーサイド・バウンド(1967年)
2. モナリザの微笑(1967年)
MC
3. 落葉の物語(1968年 シングル「君だけに愛を」c/w、アルバム『世界はボクらを待っている』収録)
4. 銀河のロマンス(1968年)
5. 花の首飾り(1968年)
長いMC
6. 青い鳥(1968年)
7. 君だけに愛を(1968年)
(休憩/20分ということだったが、実際には30分)
<第2部 沢田研二>
8. そのキスが欲しい(1993年)
9. おまえにチェックイン(1982年)
10. サムライ(1978年)
11. ダーリング(1978年)
12. 勝手にしやがれ(1977年)
13. 時の過ぎゆくままに(1975年)
14. 危険なふたり(1973年)
15. 6番目のユ・ウ・ウ・ツ(1982年)
16. TOKIO(1980年)
17. LUCKY/一生懸命(2022年)
18. ROCK'N ROLL MARCH(2008年)
19. 時計/夏がいく(1995年のアルバム『sur←』収録)
20. 君をいま抱かせてくれ(1994年のアルバム『HELLO』収録)
21. 愛まで待てない(1996年)
22. いつか君は(1996年のアルバム『愛まで待てない』収録/2022年公開の映画『土を喰らう十二ヵ月』主題歌 2022年シングル発売)
<アンコール>
MC
1.河内音頭(2014、2016年の音楽劇『悪名』および2017年の『大悪名』で歌唱)
MC
2. Time is on My Sida(オリジナル:アーマ・トーマス ローリング・ストーンズのカバーで有名)
3. Do You Love Me(オリジナル:コントゥアーズ デイヴ・クラーク・ファイヴのカバーで有名)
4. (I Can’t Get No)Satisfaction(オリジナル:ローリング・ストーンズ)
5. ラヴ・ラヴ・ラヴ(1969年 ザ・タイガース)
終演 20:21
共演メンバー
●1~22、アンコールの2~5
柴山和彦(ギター)、依知川伸一(ベース)、高見一生(ギター)、平石正樹(ドラムス)、斎藤有太(キーボード)、すわ親治、山崎イサオ(以上コーラス)
●1~7、アンコールの2~5
スペシャルゲスト:瞳みのる(ドラムス)、森本太郎(ギター)、岸部一徳(ベース)
●アンコールの1
マキノノゾミ、coba、いしのようこ、南野陽子、GRACEほか(おそらく)計21名のゲストと、すわ親治、山崎イサオ
真っ白な沢田研二に、戦いに挑むかのような気迫を感じた
真っ白な沢田研二。その姿に、こちらの心は芯から震えた。
第2部、その冒頭。ステージに現れて唄いはじめたのは「そのキスが欲しい」だった。いきなりのアップテンポで、ジュリーの歌はフルスロットルである。その姿に、自分は、まるで戦いに挑むかのような彼の気迫を感じた。
僕が幼い頃、テレビの向こう側で狂おしいほどの美貌を欲しいままにしていた彼は、75歳の今はこんなにも真っ白な姿になり、距離はあるものの、目の前で全力で唄っている。この光景はしっかりと見ないといけない、と思った。
この前の第1部、ザ・タイガースによる演奏は楽しかった。この時のジュリーの衣裳は、なんと虎の着ぐるみ。森本太郎、それに瞳みのる(現在の彼のライヴのバッキングを務める二十二世紀バンドには、ザ・コレクターズと自身のオレンジズで活躍する山森”JEFF”正之が在籍する)は今も演奏する機会があるだろうから納得だが、自分としては、そうそう弾くこともないはずの岸部一徳によるふくよかなベースの音色に、とくに感服した。MCではジュリーをはじめ4人が盛んに昔話をして、和気あいあいとした雰囲気。その中でタイガースのマネージャーを務めた中井國二の名前がたびたび出されていたのには彼らからの感謝の気持ちを感じたし、デビューに至るまでの内田裕也や田辺昭知が絡んでの裏話には当時のGSシーンの熱気の一端が感じられて、ちょっとドキドキした。
タイガースの演奏を聴きながら、この人たちはこんなふうに王子様のような、メルヘンチックな歌も唄ってたんだよな、とあらためて思い出した。そのステージからはメンバーたちが喜んで演奏しているのが伝わってきて、それに引き寄せられながら見ることができた。
なお、今回のライヴの前後の会場内のBGには基本的に90年代以降のジュリーの楽曲が流れていたが、このあとから第2部までの転換時だけはドラマ『傷だらけの天使』や『太陽にほえろ!』の曲になっており、おかげで、かつてバッキングを務めた井上堯之バンドと、それから萩原健一のことも思い出す時間になった。
しかし、迎えた第2部。そこでのジュリーはモードが違った。まるで、どこか覚悟を決めて立ち向かっているかのような、凛としたたたずまい、そして力強い歌声。その気迫に押され、引き込まれていく。
その時の彼は、本当に真っ白に見えた。スーツもズボンも、頭も。後ろで結わえた髪の毛も、何もかもが真っ白なのだ。後方からのライティングの明るさもあり、その姿は、彼が何もかもを懸けてここに臨んでいるように見えたほどである。長いツアーをやってきたバンドの演奏にスキはない。それを従えた主役は、すさまじい迫力を放っていた。
今回のセットリストで最も多くの視線が集まるのは、この第2部の2曲目「おまえにチェックイン」に始まる8曲だろう。沢田研二がまさに時代を席巻し、ヒットチャートを疾走した黄金のヒットパレードである。
サビで腕を突き上げるドラマチックなバラードの「サムライ」のドラマチックな唄いっぷり。「ダーリング」や「勝手にしやがれ」ではジュリーの振り付けをまねるお客さんだらけになり、時代の変容によるホロ苦さが漂う「時の過ぎゆくままに」、甘やかなラブソング「危険なふたり」では20代の彼の姿が脳裏をよぎる。根暗(今で言う「陰キャ」)という言葉が流行った時代の「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」のHA!HA!HA!の絶叫も、この数年はコロナ禍で悩める大都市へのエールを込めたバージョンで唄われてきた「TOKIO」がオリジナル通りのポップなアレンジに回帰していたのも、心がアガった。これぞジュリー! 唯一無二だ。
僕自身、まさにこうしたヒットシングルに浸って育った人間なだけに、本当にワクワクした。また、近年の60~80年代、さらに昭和歌謡といったレトロ文化への再評価の観点からも、今この時代の楽曲たちにはあらためて熱い注目が集まっている。先だってOAされたBS-TBSの特番『沢田研二 華麗なる世界 永久保存必至!ヒット曲大全集』もこの頃の歌を中心に構成されていた。そうして往時の沢田研二に出会ってくれた新しいファンの人たちには、ぜひジュリーマニアの道にもっと入ってきてほしいと思う。
その一方で、思う。こうした楽曲たちは、もう40年以上前のものだ。重要なのは、沢田研二はそれ以降も必死に戦い続けてきた、ということである。
つまり1985年、当時のマネージメントから独立し、ポリドールから東芝EMIに移籍してのシングル「灰とダイヤモンド」に始まる物語である。彼はそこから今日の今日まで、ずっと自分自身の歌を求め、つかもうとしてきた。かつてはアイドルで、時代の寵児で、一等賞が大好きだったジュリーが、活動を少しずつ自分自身のものにしていったのだ。なかなかヒットに結び付かないながらも自分だけが唄える歌を追いかけ、そうして作った楽曲のリリースを続行する日々。コンサート活動だって、怠ることはなかった。
その時期からは主戦場にしていたテレビの場から遠ざかることも多く、時には意地悪な報道をされることだってあった。ファンとしては外側から見ているだけだったが、いつも孤独な戦いをしているように見える彼の姿に、どこか「石にかじりついてでも」のような意地を感じる時もあった。
ジュリーは今でも鮮やかな照明を浴びている。しかしその背景としては、毎年のコンサートツアーに作品作り、音楽劇、舞台などの俳優業と、地道な活動をずっと積み重ねてきたことにこそ、深くて尊い意味がある。彼はステージに立ち、歌を唄ってこその人なのだ。
だから、と言おうか。ここで僕を刺激したのは、この第2部の1曲目に「そのキスが欲しい」が選ばれていたことだった。ひどくアッパーでスリリングなこのラブソングは、アルバム『REALLY LOVE YA!!』(1993年10月)からのシングルカット。ド派手時代からのきらびやかさをまといながら、真摯な愛情を叫ぶ最高のロックナンバー。独立後のジュリーは先ほどのような苦闘を続けながら、こうした優れた楽曲をモノにしていた。そして今日、大ヒット曲の数々は、この「そのキスが欲しい」に続くように披露されていったのだ。
そして「勝手にしやがれ」ぐらいだっただろうか、いつしか彼はジャケットを脱ぎ、髪の毛を解き放った。さらにシャツに汗がにじみはじめたことで、その姿はだんだんと真っ白には見えなくなっていた。実際には、ベストやスラックスはクリーム色で、シャツは薄い青。ヒットソング連発の間に着こなしが乱れ、衣裳に少しずつ色が浮かぶように見えるようになっていったのは、それこそスーパースターが人間味あふれるひとりのシンガーへとシルエットを変えていった歩みとかぶるかのようであった。そして後半のジュリーは人間くさい歌をどんどん唄っていったのである。このこともあり、むしろ自分の焦点は「TOKIO」を唄い終えてからの後半部にあった。
その筆頭は、昨年リリースの「LUCKY/一生懸命」だった。作詞作曲はもちろん沢田研二自身。アレンジは本ツアーにキーボードで参加している斎藤有太で、ミディアムテンポがゆっくりと広がりを見せていくバンド・サウンドやコーラスワークには中期のビートルズを思わせるフラワーな空気感がある。あたたかみが感じられる歌だ。
この歌で最初に唄われている会いたい気持ちとは、コロナ禍の状況を反映しているのだろう。そこにありがとうと感謝を表す表現が連なり、LUCKY、HAPPY、そして一生懸命という言葉が躍る。老後の楽しみがLIVE。さらに後半のラララという声は、やがてバババ、ジジジと続き、老いていく現状をユーモラスに唄い込んでいる。
そこで、幸運であると、一生懸命であると、決して気障ではない言葉を唄っているところこそ、今のジュリーの生き方なのだろう。老境にある現在の彼らしい歌だと思う。
ここからのセットリストには、昨年からの本ツアーで演奏してきた曲も交えられていった。後述するGRACEが作詞をした「ROCK'N ROLL MARCH」はパワフルなロックアンセム。そこから「時計/夏がいく」、「君をいま抱かせてくれ」とオリジナルアルバムに入れてきた曲をしっかりと唄う流れには、長年連ねてきた活動への誇りがうかがえた。そして超アッパーな「愛まで待てない」は、15年前のドーム公演ではアンコールラストを飾った曲である(誰か脚を蹴り上げてくれ!)。
ジュリーは本編の最後を「いつか君は」で締めた。前曲と同じく1996年のアルバム『愛まで待てない』にラストナンバーとして配されていたこの曲は、昨年公開された主演映画『土を喰らう十二ヵ月』の主題歌となった。なんとリリースから26年が経ってからの抜擢である。
この作詞を手がけた覚和歌子はジュリーに歌詞を多数提供している人だが、2001年のジブリ映画『千と千尋の神隠し』の主題歌「いつも何度でも」で広く知られている。1996年当時のジュリーは48歳で、覚は30代。ふたりはその時点で、愛した人もいつかはいなくなる、永遠なんてない、ということを唄っていたのだ。そこに、老いていくことを唄う今の沢田研二のシルエットがナチュラルに重なる。75歳でのコンサートを締めくくるのに、ふさわしい歌だったと思う。
アンコールでは、まずはまさかの選曲。音楽劇で唄っていた「河内音頭」だ。この時ジュリーのそばには多数のゲストが集まり、手拍子などで音頭を盛り上げたのだが、その中にGRACEがいたのが、とてもうれしかった。彼女は1998年から20年にわたってバックで叩いてくれたドラマーで、前述の「ROCK'N ROLL MARCH」など、作詞で携わった曲もいくつか残している。彼女が紹介された時に客席からひときわ大きな歓声が起こったのは、今日の会場は長きにわたってジュリーのライヴを観てきたお客さんたちがたくさんいることを示していた。GRACEは今のところ、沢田研二のドラムスの座を一番長く務めた人である(ギターはもちろん柴山和彦!)。
そして再びザ・タイガースのコーナーとなり、最初の3曲は初期からの洋楽ロックのカバーをプレイ。第1部のMCでジュリーが、京都時代の自分たちはロータリークラブで演奏する仕事もしたのに「ビートルズやったりデイヴ・クラーク・ファイヴやったりしてたから、おじさんたちは聴いてくれないんだよね」と言っていたが、そのエピソードを回収する選曲でもあった(ビートルズではなくストーンズだったが)。その時のジュリーにはさっきまでの戦いに臨むような表情はなく、また楽しく、和気あいあいと演奏する旧友同士の空間に戻っていた。そして幕引きに選ばれたのは、やはり「ラヴ・ラヴ・ラヴ」。大観衆はてのひらでLの字を作るのだった。
ジュリーは最後にもう一度メンバー全員を紹介すると、そのあとに自らを「ジジイでした」と言って、去っていった。2012年、衆議院選挙戦で山本太郎の応援演説をした際の「昔ジュリー、今ジジイです」を思い起こす。これに対して会場からは複雑なトーンの歓声が返った。その声は「そんなことないよ! 歳を感じさせないくらい最高だよ!」「カッコ良かったよ! ジュリー大好き!」という意思表示だと感じた。
天井近くの席だったので、僕は本編の終盤に炸裂した銀テープ……本人のメッセージがプリントされていたという、そのかけらを手に入れることはできなかった。しかし、そこに書かれた「ありがとう! サンキュー! ありがとうね!」という言葉を、くり返し何度も浴びた時間だった。
それにこの長いライヴでも、ジュリーは歌詞を見て唄うことはなかった。今のベテランアーティストには演奏中にプロンプターなどで歌詞を確認しながら唄う人は多く、僕はそのことを否定しない。それでいい歌が聴けるのならば意味があるだろうと思うほうなのだが、しかしジュリーは一貫して、今もってそれをやらないのだ。彼は実質3時間に及ぶこの日のコンサートも、カンペを見ないまま唄いきったのである。
そして何と言っても、今のジュリーが唄おうとしているテーマこそ、心に残った。それにあたってはすでに書いたように最新曲である「LUCKY/一生懸命」や「いつか君が」に表れていたが、もう1曲、アンコールでの「河内音頭」にもポイントがあったと思う。
そもそも「河内音頭」とは決まった歌詞やメロディがなく、唄い手がその時その時の思いを勝手に唄い上げるものなのだが、この日のジュリーは自分のことを唄い(私の誕生日がガウディと同じだ、とか)、それがやがて百年、長寿者、と続き、終わりは、♪ともに長生き~しましょうねぇ~!と叫び、締めくくったのである。
大勢の人たちと笑顔で、一緒に長生きすることを唄う沢田研二。そこにはかつての、昭和の頃の彼とは違う魅力があった。衝撃的な楽曲や派手なコスチューム、洋楽ロックを持ち込んだサウンドで、芸能界と歌謡曲シーンの常識に真正面から挑んだ若き日の彼。時代と寝て、主義を貫き、時には炎上上等な姿勢が嫌われ、ディスられもした異端児。その、あまりに刹那的で、瞬間的だった当時を思うと、「長生きしましょうね」と唄う今の姿はまったく別の人のようにも見える。しかし、それこそが現在の正直な思いであり、偽りのない願いなのだろうと思う。
なんて書くと、美化するなよ、以前はコンサートのドタキャン騒動だってあったじゃないか、という声も聞こえてきそうだ(それはまさに今日の会場でのことである)。あの件を今になって擁護するつもりもないが、いやいや、そこはまた、決して一筋縄ではいかない沢田研二だからして、とも思う。
ところで、僕が2001年にインタビューした際、彼は自分にムリをしながら活動を続けることを「もう、やんぺ(やめた)」と決めたことを語ってくれた。その翌年からはメジャーを離れて自主レーベルから作品を出すようになり、見た目もふくよかになっていった。しかし、あれから20年以上経ち、今こそその思いがわかってきた気がする。自分自身にムリを強いたり、世の中に合わせたりするよりも、もっと自分らしく、自然体で生きること。そこでは楽しく、おおらかに、できるだけ優しく。それが「LUCKY/一生懸命」という歌や、長生きしようというメッセージにつながっているように思う。また、そこには、慎ましやかな日々を求める、ひとりの人間の姿も見える。
と言っても、何だかんだ言ってジュリーは自分にムリを強いる瞬間もあるだろう。じゃないと、あんなステージなんてできやしない。その狭間で戦いながら、さまざまなことに頑張りながら(ツアーの最初のほうでは「頑張んべえよ」が唄われていた)、彼は生きている。そして歌を唄い続けている。「まだまだ一生懸命」という言い方に、ウソはない。
6月25日のステージの上にいたのは、まさしく、75歳になった沢田研二だった。
「30th Anniversary Club Soda」で唄われた、ロマンスグレーになっていくジュリー
最後に、このnoteは【年齢のうた】をテーマにしているので、沢田研二のその手の曲について書いていこうと思う。
ジュリーの歌は、タイガース時代からソロ中期までは楽曲ごとの世界観が強く、それぞれが何かの物語のような世界だったり、ラブソングでもドラマチックな描写が多かった。そこではファンタジーの要素も強く、彼個人のリアリティに根差した歌はそれほどたくさんはない。そうした中でも年齢についての歌詞は存在する。
なにしろ数多くの曲があるので、とても全部は思い出せないが……年齢を唄った歌で、僕の中にずっと残っているのは「PRETENDER」というバラードだ。1980年のアルバム『BAD TUNING』収録曲で、愛する女性の年齢を14歳から16歳、続いて二番では17歳から19歳と数えていく、センシティブなスローバラードである。作詞はプラスチックスの島武実、作曲は宇崎竜童。
それと、「DIRTY WORK」。こちらは1981年のアルバム『STRIPPER』からで、文字通り「汚い仕事」に手をつけた男が18、それに20になった日のことを唄うネオ・ロカビリーの曲である。完全にストーリー仕立ての作詞は、この時期にジュリーへの提供が多かった三浦徳子。アレンジは、こちらもこの頃に多数関わってくれた伊藤銀次だ。
それからもっと翻って、1974年のシングル「魅せられた夜」のB面には「15の時」という、26歳当時のジュリー本人が作詞作曲した歌がある。7歳、15歳、20歳の頃を思い返して綴る熱いラブソング。この頃に模索していたシンガーソングライター的な側面がうかがえる。
そしてジュリーの年齢ソング……いや、正確には年齢を感じさせるソング、か。それで僕が一番好きなのは、「30th Anniversary Club Soda」である。収録されているのは、またしても『愛まで待てない』! そもそもこのアルバム自体がデビュー30周年記念で作られており、この歌はまさにタイトルの通りである。作詞はこれまた覚和歌子。年齢というより歳をとっていくことへの意識を見せる歌で、僕は1コーラス目の、ロマンスグレーに七歩手前の泣かせる奴、と自己紹介する箇所を最初に聴いて驚いた覚えがある。白髪交じりになっていく自分のことを肯定的に捉えて、そんなふうに唄うんだ⁉と。
なお、このロマンスグレーという表現は、翌1997年にTea for Threeでリリースしたシングル「君を真実(マジ)に愛せなくては他の何も続けられない」でも登場する。Tea for Threeとは、沢田研二、森本太郎、岸部一徳の3人。つまり今回集まったタイガース勢では、当時はまだ高校教師だった瞳みのるを除いたメンバーになる。この曲の作詞はもちろんジュリー自身で、作・編曲は森本太郎。
ちなみに今回の冒頭で、この年にジュリーにもう一度取材していると記したが、そのもうひとつはこのTea for Threeの3人へのインタビューだった(『テレビブロス』に掲載)。
そして年齢についての歌という点では、くり返しになるが、最新曲の「LUCKY/一生懸命」こそ、老いをポジティヴに迎えることを唄った歌だと思う。
沢田研二は、次のコンサートツアー「まだまだ一生懸命 PARTⅡ」を9月から始める。75歳にして、まだまだ一生懸命なのだ。
まだまだ一生懸命、自分も生きていきたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?