【年齢のうた】2024年夏までのまとめ その1●日本人、その年齢への意識
この1週間はいろいろありまして……わたくしは元気ですけれども。
一日のうちでエアコンを使う時間がちょっと減った感があります。ただ、台風もありますし。みなさま、どうかお気をつけて。そして、どうかご自愛ください。
僕は、アジカンを横浜に観に行ったり、GLIM SPANKYを新宿に観に行ったりしました。それぞれに歩みを振り返るライヴでした。
この2組というか、ゴッチとGLIMは今年のフジロックで同じステージに立ってるんですよね……池畑潤一のセッションで。生配信で観ていました。
それからオアシスの再結成が発表されましたね。
報道で、意外だとか絶対ないと思ってたという意見も目にしましたが。むしろファンの多くはありそうだなと感じてたんじゃないでしょうか。近年は、むしろ何もないほうがおかしいくらいの雰囲気だったと思います。
来日はどうなるのかわからないけど、今後の動向には僕も注目しております。
さてさて。
これから何回か、この【年齢のうた】についての、ここまでのまとめを書いていこうと思います。
人の年齢がイメージさせるもの
僕がこのnoteへの投稿を始めたのが昨2023年の3月。一番最初は【はじめに】というタイトルのエントリーだった。
そして次の、2回目の投稿から【 #年齢のうた 】を書き始めている。
ここからずっと、年齢について唄っている歌のことを書いてきた。
そして、順序はすっかり逆になったが。今回からは、なぜ【年齢のうた】というテーマでこのnoteを書こうと思ったのかについて、述べようと思う。
昔から僕は、日本人には年齢のことをずいぶん気にする国民性があると思っていた。それが人付き合いとかコミュニケーションの上での、最も重要なことだと言わんばかりに。
この傾向については、きっと思い当たる人もいるのではと思う。
もっとも今では、エイジズムと言って、年齢を基準にした見方も問題となってはいるが。
たとえば。
今年のネットニュースの特徴のひとつに、その記事で取り上げるのが有名人であるにも関わらず、あえて名前を出さずに見出しを作ることがある。主に、芸能ニュースやスポーツ新聞系の報道だが。
以下はその事例。
思うのは、俳優とかアイドルといった職業を書き添えながらも、年齢がずいぶんと大事なポイントのように位置づけられていることだ。
こうすることでニュースを見る側は「いったい誰のこと?」とか「どんな人?」と関心を持つのだろう。そうして記事にアクセスするように誘導しているわけだ。
僕個人は、すべての人がこんなふうに年齢を気にする傾向にあるとは思っていない。
考えてみれば、今の自分の周りにいる人や一緒に仕事をしている相手のほとんどは、いま何歳なのか、何年の生まれなのかということなんて、意識しない。むしろ、ちゃんとした生年を知っている人が少ないぐらいだ。
ただ、それは自分がもう大人の年齢になっているからだとも思う。
とくに若い時分は、あの人がいくつなのか、この相手は何歳なのか、自分よりどのぐらい上なのか、それとも下なのかを、かなり意識するものではないだろうか。それは1歳2歳での差(考え方や知識、体力、経験など)がそれなりに大きいのもあると思う。
そして年齢によって「まだ幼いね」「そんなに若いんだ」「もう大人!」「すっかりおじさん」みたいな先入観や概念ができて、そこからの何かが生まれるのではないかと考える。たとえば「若いわりに~だ」とか「さすが大人」「おじさんみたいな年齢にたがわず~」のように。
年齢には、対象となる人のイメージをある程度作るのに、それなりの役割があるということだろうか。
もっとも、これも一概には言えないと思う。
年齢、そして学年というものへの意識
話は、ちょっと別の角度からのことになる。
僕は子供の頃から日本の歌謡曲や洋楽のヒット曲を耳にしながら生活してきた。
そのうちに、いつしか「日本にはずいぶんと年齢のことを唄った曲が多いな」ということに気付いた。
【年齢のうた】でも、昔そう感じた曲について書いてきた。
15歳とか、17歳とか。あるいは22歳とか、30歳とか。みんな、ずいぶんと自分の年齢を唄うもんだなぁと思っていた。
その後、自分は音楽について書く仕事を始め、その中で取材をしたアーティストにも、そういう曲を書いている方が時々いる。
こんなふうに年齢についての意識を自分の中で考えている際に、ひとつの事実に思い当たった。
学校教育における、学年という概念だ。
義務教育の小学生も中学生も、それに高校生も、あなたは何年生の学生であると位置づけられる。これは生年月日によって、頑として譲られることはない(ただし、例外はある)。
このことは、それ以前の保育園や幼稚園からすでに始まっているように思う。
これもあってか、僕が子供の頃は、小学館の学習雑誌が全盛だった。『小学一年生』から『小学六年生』まで、学年によって読む雑誌とその内容がしっかりと決められていた。
このことは、学研の『科学』と『学習』もそうである。
そして『中一コース』とか。あるいは、『中三時代』とか。
もっとも、今こうした学年ごとの学習雑誌は昔のような活況はなく、ほとんどなくなっていると言っていい。
というふうに、生活の中でそんなこともあって、自分は年齢というものをかなり強く意識させられてきた記憶がある。
あなたは何歳だからどうとか、お前はいくつまでに何だとか。
このことは、だから良かったとか悪かったとか、それで得したとか損したとか、やはり一概に言い切ることはできない。
ただ、個人をカテゴライズする上では、おそらく便利なところもあるような気はする。年齢によって、ちょっと遠くからも、外側からも、人物像がややわかりやすくなる気はする。
一方で、そのぶん、窮屈な気もする。枠に入れられることになるのだから。
こうしたことを、今の若い世代がどのくらい気にしているのかはわからない。そこは、調査でもしてみないと判明しないだろう。
ただ、僕のような昭和世代の人間たちは、かなり意識していた、意識させられていたというのは、おそらく間違っていないと思う。
君は今、いくつ。あなたは今、何歳。
もしかしたらこうした世の中のあり方が、たくさんの年齢ソングが書かれてきた背景にあるのでは? そんなふうにも思うのだ。
(【年齢のうた】ここまでのまとめ その2に続く)