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普通の人になりたい。文字の世界だけでいいから


「私は正気だ」と信じるために、文章を書いている。

小さい頃から、「変わってるね」と言われてきた。何を言ってもどんな行動をしても、「変わった子」として扱われる人生だった。私の生き方は他の人から見たらズレているみたいだった。
そのズレを正せるのが文字を書くことで、文章だけ読んだら普通の人だねって言われるから、私は書いている。「普通」という評価がほしい。世界と波長を合わせたい。

私は多弁だけれど口下手なんだと思う。例えば「ひどいことを言われて傷ついた」という出来事を人に伝えたい時に、「傷ついた」ということをまず言葉にしてしまう。本当はひどいことを言った相手が誰で、どんな関係で、何を言われて、どう傷ついたのかを順を追って説明しなきゃならないのに、気持ちが先行してしまってそれができなくなる。だからよく話が飛ぶよねとか、何言ってるかわからないとか言われてしまう。喋っても喋っても伝わらない気がして、余計な情報ばかりを追加していって、結局何が言いたかったの?と言われることも多々ある。

でも、ものごとを整理して文章にすると、驚くほど気持ちが伝わる。私が書いたものを読んでくれた人は「共感した」とか「面白かった」とか言ってくれる。それがたまらなく嬉しい。私はちゃんとものごとを考えられるし、私にも居場所があるような気がする。
ほら、今、書いていてまたまとまった。私は書くことで、居場所を得たいんだ。私は生きてるよって、ここにいるよって、叫びたいんだ。例外じゃなくなりたい。まともなひとりの人間だって認めてもらいたい。

この感情が生まれたのは中学生のころ。学校でうまく喋れなくて、友達ができなかった。寂しくてどうしようもなくて、だから本ばかり読んでいた。本を読んでいる間は、著者と会話しているような気になれたから。親でさえも理解できない、友達なんかできるはずもない、自己表現ができなかった私。そんな私にとって、文章を読んだり書いたりすることだけが世界とつながる手段だった。連絡帳に毎日日記を書いて、担任の先生からもらえるコメントが嬉しくて、そのためだけに学校に行っていた。日々、生きていて感じたことを誰にも言えなかったから、全部書いていた。空に大きな虹がかかっているのを見れたから今日はいい日だったとか。体育のバスケで私だけパスが回ってこなくて悲しいとか。文章にしたら伝わった。だから、大丈夫だと思えた。私はみんなが言うみたいにおかしな子じゃない。私は私の信念とか正義とか持ってるし、正気だって。

担任の先生との連絡帳を通じたコミュニケーションを3年間続けたおかげか、高校生になる頃には喋ることも人並みにできるようになった。それでもやっぱり「変わってるね」って言われるけど。

自分が正気だってわかるために、今もこの文章を書いている。

#なぜ私は書くのか

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