自己流 司馬遷『史記』書き下し・現代語訳①五帝本紀第一
はじめに
五帝本紀第一は、史記の一番初めです。(唐の時代、司馬貞が書いた三皇本紀がありますが、司馬遷が書いたものとしては五帝本紀が第一です。)
ここでは夏以前の、伝説時代の話が書かれています。
この五帝本紀では、「三皇」と言われる神たちが作った古代中国(詳しくは三皇本紀参照)からの話で、三皇の最後、炎帝神農氏に代わり、黄帝軒轅氏が帝となり、軒轅の後、顓頊が帝に即位した経緯や、その後に嚳が帝位に就き、堯、舜が継いでいく話が書かれています。
※「五帝」に選ばれるメンバーは書物によってバラバラで、伏羲氏から五帝に含むものもあるなど、かなりの差があります。
【参考文献】
①
書籍名 二大漢籍国字解: 史記本紀. 第1巻
寄与者 早稲田大学出版部
出版社 早稲田大学出版部, 1928
②
書籍名 史記, 第 1 巻
寄与者 遷(145-86B.C.)·司馬, 哲三·塚本
出版社 有朋堂書店, 1920
黄帝
黄帝者、少典之子、姓公孫、名曰軒轅。生而神靈、弱而能言、幼而徇齊、長而敦敏、成而聰明。
軒轅之時、神農氏世衰。諸侯相侵伐、暴虐百姓、而神農氏弗能征。於是軒轅乃習用干戈、以征不享、諸侯咸來賓從。而蚩尤最爲暴、莫能伐。炎帝欲侵陵諸侯、諸侯咸歸軒轅。軒轅乃脩德振兵、治五氣、蓻五種、撫萬民、度四方、敎熊羆貔貅貙虎、以與炎帝戰於阪泉之野。三戰、然後得其志。蚩尤作亂、不用帝命。於是黄帝乃徵師諸侯、與蚩尤戰於涿鹿之野、遂禽殺蚩尤。而諸侯咸尊軒轅爲天子、代神農氏、是爲黄帝。天下有不順者、黄帝從而征之、平者去之、披山通道、未嘗寧居。
東至于海、登丸山、及岱宗。西至于空桐、登雞頭。南至于江、登熊・湘。北逐葷粥、合符釡山、而邑于涿鹿之阿。遷徙往來無常處、以師兵爲營衛。官名皆以雲命、爲雲師。置左右大監、監于萬國。萬國和、而鬼神山川封禪與爲多焉。獲寶鼎、迎日推策。舉風后・力牧・常先・大鴻以治民。順天地之紀、幽明之占、死生之説、存亡之難。時播百穀草木、淳化鳥獸蟲蛾、旁羅日月星辰水波土石金玉、勞勤心力耳目、節用水火材物。有土德之瑞、故號黄帝。
黄帝二十五子、其得姓者十四人。
黄帝居于軒轅之丘、而娶于西陵之女、是爲嫘祖。嫘祖爲黄帝正妃、生二子、其後皆有天下:其一曰玄囂、是爲青陽、青陽降居江水;其二曰昌意、降居若水。昌意娶蜀山氏女、曰昌僕、生高陽、高陽有聖德焉。黄帝崩、葬橋山。其孫昌意之子高陽立、是爲帝顓頊也。
黄帝は小典の子、姓は公孫、名を軒轅と曰ふ。生れて神靈、弱くして能く言い、幼にして徇齊、長じて敦敏、成りて聰明なり。軒轅の時、神農氏の世衰へ、諸侯相侵伐し、百姓を暴虐し、神農氏征す能はず。是に於いて、軒轅乃ち干戈を習用し、以て不享を征す。諸侯皆来りて賓従す。而して蚩尤最も暴を爲し、能く伐つ莫し。炎帝諸侯を侵陵せんと欲す。諸侯咸く軒轅に帰す。軒轅乃ち徳を修め、兵を振へ、五氣を治め、五種を蓺ゑ、萬民を撫で、四方を度る。熊羆貔貅貙虎を教へ、以て炎帝と阪泉の野に戰ふ。三戰して然る後に其志を得たり。蚩尤亂を作し、帝の命を用ひず。是に於いて黄帝乃ち師を諸侯に徴し、蚩尤と涿鹿の野に戰ひ、遂に蚩尤を禽殺す、而して諸侯咸軒轅を尊びて天子と爲す。神農氏に代る。是を黄帝と爲す。天下に順わざる者有れば、黄帝従って之を征し、平げば之を去る。山を披きて道を通じ、未だ嘗て寧居せず。東は海に至り、丸山に登り、岱宗に及び、西は空桐に至り、雞頭に登り、南は江に至り、熊湘に登り、北は葷粥を逐う。符を釜山に合わせて、涿鹿の阿に邑す。遷徙往来して常処無く、師兵を以って営衛と為す。官の名は皆雲を以って命じ、雲師と為す。左右大監を置き、万国を監せしむ。万国和ぎ、而して鬼神山川の封禅は、与して多なりと為す。宝鼎を獲、日を迎え筴を推す。風后力牧常先大鴻を挙げ、以て民を治めしむ。天地の紀、幽明の占、死生の説、存亡の難に順う。時に百穀草木を播き、鳥獣蟲蛾を淳化し、日月星辰水波土石金玉を旁羅し、心力耳目を労勤し、水火材物を節用す。土徳の瑞有り、故に黄帝と号す。黄帝二十五子あり、其の姓を得たる者十四人。黄帝、軒轅の丘に居りて、西陵氏の女を娶り、是を嫘祖と為す。嫘祖黄帝の正妃と爲り、二子を生めり。其の後皆天下を有つ。其一を玄囂と曰ふ。是を青陽と爲す。青陽降りて江水に居る。その二を昌意と曰ふ。降りて若水に居る。昌意蜀山氏の女を娶る。昌僕と曰ふ。高陽を生む。高陽聖徳有り。黄帝崩ず。橋山に葬る。其孫に昌意の子なる高陽立つ。是を帝顓頊と爲すなり。
神農氏の世 炎帝八代の孫の楡罔(ゆもう)の時。
Wikipedia 「楡罔」
黄帝は少典の王の子。姓は公孫、名を軒轅と言った。生まれて神のように霊妙、赤ちゃんの時から言葉を話すことができ、子供のときから才能があって、少年時代はまめやか、成人となると聖人のように賢かった。軒轅の生きているとき、神農氏の治世は衰えて、諸侯は共に攻撃しあい、人民を暴虐したが、神農氏は征伐することが出来なかった。そして、軒轅は武器を習い、そうして朝貢しない者を征した。諸侯は皆来て従った。それに加えて、蚩尤という者が最も乱暴をして、征することが出来なかった。炎帝は諸侯を侵略しようとした。諸侯は皆軒轅に順った。そして、軒轅は徳を修め、兵を準備して、五気をおさめ、五種の穀物を植え、万民を慈しみ、四方の状況をみた。熊・羆・貔・貅・貙・虎を手なずけてから、阪泉の野で炎帝と戦った。三回戦った後、その志を得た。蚩尤は乱を起こして、帝の命令に従わなかった。だから、黄帝は兵士を諸侯から集めて、蚩尤と涿鹿の野で戦い、とうとう蚩尤を殺した。そうして、諸侯は皆軒轅を尊び天子とした。軒轅は神農氏に代わった。軒轅を黄帝とした。黄帝に従わない者がいれば、黄帝はこれを征伐し、征伐し終わったらそこを去った。山を切り開いて道を通したりして、休んだりしなかった。東は海に至り、丸山に登り、泰山に行った。西は空桐に至り、雞頭に登った。南は揚子江に至り、熊山・湘山に登った。北は葷粥という民族を追い払った。諸侯を釜山に集め、各々の割符を合わせあって、命令に違わないことを確かめた。涿鹿山の麓の平野に邑を作った。しかし絶えず移動して、常にとどまらず、兵営を作って防衛させた。官僚の名前は皆雲にちなんで名づけ、雲師とした。左右の大監を置いて、全国を監視させた。全国は平和になり、鬼神山川への儀式を盛大に行った。宝物の鼎を得て、日月の運行を見て暦を作った。風后、力牧、常先、大鴻という者たちを召し抱えて、民を治めさせた。天地のきまり、陰陽の占、死生の道を説き、存亡の難に順った。そうして、適切な時期に穀物や草木を植え、人だけでなく、鳥獣、虫や蛾まで懐いた。また、災害もなく、山からは金の玉のような宝がでるように、徳が普く施された。河に堤防を作り、野山では火を禁止し、物資をほどほそに使って、民にその利益をいきわたらせた。土の徳の兆しがあったため、黄帝と号した。黄帝には二十五人子供がいて、黄帝の姓を継いだ者は十四人。黄帝は軒轅の丘というところに住んで、西陵氏の女と結婚し、嫘祖と呼んだ。嫘祖は黄帝の正室となって、子供を二人産んだ。その子孫は皆天下を統治した。長男を玄囂と言い、青陽とも言った。青陽は諸侯となって江水のほとりに住んだ。次男を昌意と言った。諸侯となって若水のほとりに住んだ。昌意は蜀山氏の女と結婚した。その女を昌僕と言った。高陽を産んだ。高陽は徳が高かった。黄帝が崩御して、橋山に葬った。黄帝の孫で、昌意の子の高陽が帝位についた。これを帝顓頊とした。
帝顓頊
帝顓頊高陽者、黄帝之孫而昌意之子也。靜淵以有謀、疏通而知事;養材以任地、載時以象天、依鬼神以剬義、治氣以敎化、絜誠以祭祀。北至于幽陵、南至于交阯、西至于流沙、東至于蟠木。動靜之物、大小之神、日月所照、莫不砥屬。
帝顓頊生子曰窮蟬。顓頊崩、而玄囂之孫高辛立、是爲帝嚳。
帝顓頊高陽は、黄帝の孫にして、昌意の子なり。静淵にして以て謀有り。疎通にして事を知れり。材を養ふに以て地に任じ、時を載ふに以て天に象る。鬼神に依りて以て義を剬し、氣を治めて以て教化し、潔誠にして以て祭祀す。北へ幽陵に至り、南へ交阯に至り、西は流沙に至り、東は蟠木に至る。動静の物、大小の神、日月の照す所、砥ぎ屬かず莫し。帝顓頊子を生めり。窮蟬と曰ふ。顓頊崩ず。玄囂の孫、高辛立つ。是を帝嚳と爲す。
帝顓頊の高陽は、黄帝の孫で、昌意の子であった。静かで奥ゆかしく、深い考えをもっていた。博識で百般の事を知っていた。また、物資を増やすことも、適切なところで行い、適切な時期に穀物の種をまき、鬼神につかえる心をもって尊卑の義を定め、四時五行の気を治めて民に教え導き、身を清め心を誠にして祭祀を行った。北の方は幽陵に至り、南は交趾に至り、西は流沙を渡り、東は蟠木に至った。鳥獣草木、山川丘などの神、遠い辺境の地まで平定して、来朝して従わない者はいなかった。顓頊は子供を産んだ。この子を窮蟬きゅうせんとなづけた。顓頊は崩御して、玄囂の孫、高辛が即位した。高辛を帝嚳とした。
帝嚳
帝嚳高辛者、黄帝之曾孫也。高辛父曰蟜極、蟜極父曰玄囂、玄囂父曰黄帝。自玄囂與蟜極皆不得在位、至高辛即帝位。高辛於顓頊爲族子。
高辛生而神靈、自言其名。普施利物、不於其身。聰以知遠、明以察微。順天之義、知民之急。仁而威、惠而信、脩身而天下服。取地之財而節用之、撫敎萬民而利誨之、歷日月而迎送之、明鬼神而敬事之。其色郁郁、其德嶷嶷。其動也時、其服也士。帝嚳溉執中而徧天下、日月所照、風雨所至、莫不從服。
帝嚳娶陳鋒氏女、生放勛。娶娵訾氏女、生摯。帝嚳崩、而摯代立。帝摯立、不善、崩。而弟放勛立、是爲帝堯。
帝嚳高辛は、黄帝の曾孫なり。高辛の父を蟜極と曰ふ。蟜極の父を玄囂と曰ふ。玄囂の父を黄帝と曰ふ。玄囂蟜極とより皆位に在ることを得ず。高辛に至り、帝位に卽く。高辛は顓頊に於て族子たり。高辛生れて神靈なり。自ら其名を言ふ。普く施して物を利し、其の身に於いてせず。聰にして以て遠を知り、明にして以て微を察し、天の義に順ひ、民の急を知り、仁にして威あり、恵にして信あり、修めて身を天下服す。地の財を取りて之を節用し、萬民を撫教して之を利誨す。日月を歷へて之を迎送し、鬼神を明にして之に敬事す。其の色は郁郁たり。其の徳は嶷嶷たり。其の動や時にし、其の服や士にす。帝嚳溉に中を執り天下を徧し、日月の照す所、風雨の至る所、從服せざる莫し。帝嚳陳鋒氏の女を娶り、放勛を生む。娵訾氏の女を娶り、摯を生む。帝嚳崩ず。摯代り立つ。帝摯立ちて不善なり。崩ず。弟放勛立つ。是を帝堯と爲す。
帝嚳の高辛は、黄帝の曾孫で、高辛の父を蟜極と言った。蟜極を玄囂と言った。玄囂の父を黄帝と言った。玄囂と蟜極は帝位につくことが出来ず、高辛の代で帝位についた。高辛は顓頊と同族の子だった。高辛は生れて霊妙で、自分で自分の名前を言った。位について、全体に徳を施して物を豊かにし、私腹は肥やさなかった。耳を立てて遠くの事も知り、目がよくて小さなことも見、天の道に順って民の緊急事態を知ってはこれを救い、仁があって威厳があり、恵があって信義があり、自身を鍛えて天下は皆従った。土地の財物を取ってほどほどに使い、人民にやさしく、利益が行き渡るように教えた。日月の運行を推測してこれを数えて、鬼神を敬った。その顔色は和らいでいた。その徳は高く抜きんでていた。その動作は天時に順い、その衣服は士服を着て謙虚だった。帝嚳はこのようにして天下に政治をして、遠いところ、荒れたところでも、全国で従わないところは無かった。帝嚳は陳鋒氏の女と結婚し、放勛ほうくんを生んだ。また、娵訾氏の女と結婚して、摯を産んだ。帝嚳が崩御して、摯が代わりに即位したが、治世は良くなかった。摯が崩御して、その弟の放勛が即位した。これを帝堯とした。
帝堯
①
帝堯者、放勋。其仁如天、其知如神。就之如日、望之如雲。富而不驕、貴而不舒。黄收純衣、彤車乘白馬。能明馴德、以親九族。九族既睦、便章百姓。百姓昭明、合和萬國。
乃命羲・和、敬順昊天、數法日月星辰、敬授民時。分命羲仲、居郁夷、曰暘谷。敬道日出、便程東作。日中、星鳥、以殷中春。其民析、鳥獸字微。申命羲叔、居南交。便程南爲、敬致。日永、星火、以正中夏。其民因、鳥獸希革。申命和仲、居西土、曰昧谷。敬道日入、便程西成。夜中、星虚、以正中秋。其民夷易、鳥獸毛毨。申命和叔;居北方、曰幽都。便在伏物。日短、星昴、以正中冬。其民燠、鳥獸氄毛。歳三百六十六日、以閏月正四時。信飭百官、衆功皆興。
帝堯は放勛。其の仁は天の如く、其の知は神の如く、之に就くは日の如く、之に望めば雲の如し。富むとも驕らず、貴けれども舒らず。黄收純衣、彤車にして白馬に乘り、能く馴德を明にし、以て九族を親む。九族既に睦して百姓を便章す。百姓昭明にして、萬國を合和す。乃ち義和に命じ、昊天に敬ひ順じ、日月星辰に數へ法りて、敬いて民時を授く。分ちて義仲に命じて、郁夷に居らしむ。暘谷と曰ふ。敬みて日出づるに道びき、東作を便程す。日は中、星は鳥、以て中春を殷す。其の民は析る。鳥獸は字微す。申ねて義叔に命じて南交に居らしむ。南爲を便程す。敬み致す。日は永く星は火。以て中夏を正す。其民は因り、鳥獸は希革す。申ねて和仲に命じて、西土に居らしむ。昧谷と曰ふ。敬みて日の入るを道く。西成を便程す。夜は中、星は虚。以て中秋を正す。其民は夷易し、鳥獸は毛毨す。申ねて和叔に命じて、北方に居らしむ。幽都と曰ふ。伏物を便在す。日は短し、星は昴。以て中冬と正す。其民は燠かに、鳥獸は氄毛す。歳は三百六十六日。閏月を以て、四時を正す。信に百官を飭へ、衆功皆興る。
放勛 ほうくん 堯の名。 Wikipedia「堯」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%AF
義和 義氏と和氏。 Wikipedia「義和」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%B2%E5%92%8C
帝堯の放勋は、仁は天のように高くてはかり知れず、人が慕って懐くのは、いろいろなものが太陽のほうへ向かうことのように自然なことだった。その徳を施すのは雲が空を覆うように広くて、富をえても驕らず、高い身分でも傲慢にんあらなかった。黄色い冠と士服を着て、丹車と白馬に乗って、少しも贅沢せず、人が順うような徳を施すことができ、まず九族の間柄を親睦にして、親睦になれば、次に官僚を才能ごとに分けてそれぞれに合った職に就かせた。官僚が適職に就いたから、全国は平和になった。
どこも平和になって統治できるようになったので、義氏・和氏に命じて、広大な天に敬い順い、日月星辰を数えて、四時の季節をはかり、丁寧に民に種まき・収穫の時期を与えた。この役割を四つに分けた。すなわちまず義仲に命じて郁夷に居らせた。そこを暘谷と言った。義仲は暘谷に着いて、日の出を観察し畑の耕作の順序をたてさせた。そうして、昼と夜の時間が同じで、赤い鳥の七宿の中の星が夕方に真南に見える日を正確に春分仲春とした。この季節の民は老人や子供は家の中に居て、成人男子はそれぞれ外に出て農業をした。鳥獣は子供を産んだり、交尾をした。次に、義叔に命じて南方の交趾に行かせた。義叔は交趾に着いて、夏の農業方法を教えて、民に農業をさせた。夏は日が長く、火星が夕方の真南に見える日を正確に夏至仲夏とした。この季節は、老人も子供も田んぼに行って大人の農業を手伝った。鳥獣は毛が薄くなって生え変わった。さらに、和仲に命じて西の方に行かせた。そこを昧谷と言った。和仲が昧谷に着くと、日の入りを観察して、収穫の営みを教えた。昼夜の長さが同じで、玄武の中星の虚が夕方に真南に見える日を正確に秋仲秋とした。この季節は民にとって、暑さが徐々に退いてきたので、朗らかで過ごしやすい気候だった。鳥獣は羽毛がまた生え変わった。その次に、和叔に命じて北方に行かせた。そこを幽都と言った。財物を貯めて、冬ごもりの備えをさせた。昼が短く、白虎の中星の昴が夕方の真南に見える日を正確に冬至仲冬とした。この季節の民は、皆室内にこもって暖まった。鳥獣は細かい毛が生えて自然に暖まった。また、一年をだいたい三百六十六日と言っても、本当は一年に十一日弱を余らせたから、三年に一年の閏月を設けて、四季を合わせた。このようにして義氏・和氏の四人に命じて、四季を正しくし、民に時期を教えるだけでなく、官僚の信頼を集めさせ、その職に就かせたため、たくさんの功労があり、天下はますます太平となった。
2
堯曰:「誰可順此事?」放齊曰:「嗣子丹朱開明。」堯曰:「吁!頑凶、不用。」堯又曰:「誰可者?」讙兜曰:「共工旁聚布功、可用。」堯曰:「共工善言、其用僻、似恭漫天、不可。」堯又曰:「嗟、四嶽、湯湯洪水滔天、浩浩懷山襄陵、下民其憂、有能使治者?」皆曰鯀可。堯曰:「鯀負命毀族、不可。」嶽曰:「异哉、試不可用而已。」堯於是聽嶽用鯀。九載、功用不成。
堯曰:「嗟!四嶽:朕在位七十載、汝能庸命、踐朕位?」嶽應曰:「鄙德忝帝位。」堯曰:「悉舉貴戚、及疏遠隱匿者。」衆皆言於堯曰:「有矜在民間、曰虞舜。」堯曰:「然、朕聞之。其何如?」嶽曰:「盲者子。父頑、母嚚、弟傲、能和以孝、烝烝治、不至姦。」堯曰:「吾其試哉。」於是堯妻之二女、觀其德於二女。舜飭下二女於嬀汭、如婦禮。
堯善之、乃使舜慎和五典、五典能從。乃徧入百官、百官時序。賓於四門、四門穆穆、諸侯遠方賓客皆敬。堯使舜入山林川澤、暴風雷雨、舜行不迷。堯以爲聖、召舜曰:「女謀事至而言可績、三年矣。女登帝位。」舜讓於德不懌。正月上日、舜受終於文祖。文祖者、堯大祖也。
於是帝堯老、命舜攝行天子之政、以觀天命。舜乃在璿璣玉衡、以齊七政。遂類于上帝、禋于六宗、望于山川、辯於羣神。輯五瑞、擇吉月日、見四嶽諸牧、班瑞。歳二月、東巡狩、至於岱宗、祡、望秩於山川。遂見東方君長、合時月正日、同律度量衡、脩五禮五玉三帛二生一死爲摯、如五器、卒乃復。五月、南巡狩;八月、西巡狩;十一月、北巡狩:皆如初。歸、至于祖禰廟、用特牛禮。五歳一巡狩、羣后四朝。徧告以言、明試以功、車服以庸。肇十有二州、決川。象以典刑、流宥五刑、鞭作官刑、扑作敎刑、金作贖刑。眚災過、赦;怙終賊、刑。欽哉、欽哉、惟刑之靜哉!
讙兜進言共工、堯曰不可、而試之工師、共工果淫辟。四嶽舉鯀治鴻水、堯以爲不可、嶽彊請試之、試之而無功、故百姓不便。三苗在江淮・荊州數爲亂。於是舜歸而言於帝、請流共工於幽陵、以變北狄;放驩兜於崇山、以變南蠻;遷三苗於三危、以變西戎;殛鯀於羽山、以變東夷:四辠而天下咸服。
堯曰く「誰か此の事に順ふべし。」と。放齊曰く、「嗣子丹朱は開明なり。」と。堯曰く、「吁、頑凶なれば用いられず。」と。堯又曰く、「誰か可なる者ぞ。」と。讙兜曰く、「共工は旁く聚めて功を布く。用ふべき。」と。堯曰く、「共工は善く言へども其れ用ふれば僻む。恭に似て天を漫る。不可なり。」と。堯又曰く、「嗟、四嶽、湯湯洪水天に滔り、浩浩として山を懷み、陵に襄り、下民其れ憂ふ。能く治めしむる者有らん。」皆曰く、「鯀可なり。」と。堯曰く、「鯀命に負き、族を毀る。不可なり。」と。嶽曰く、「异んかな。試みて用ふべからずんば已めん。」と。堯是に於いて嶽に聽き、鯀を用ふ。九歳、功用成らず。堯曰く、「嗟、四嶽、朕位に在ること七十、汝能く命を庸ひば朕が位を踐め。」と。嶽應へて曰く、「鄙德、帝位を忝めん。」と。堯曰く、「悉く貴戚及び疎遠隠匿者を舉げよ。」と。衆皆堯に言て曰く、「矜、民間に在る有り。虞舜と曰ふ。」と。堯曰く、「然り。朕も之を聞く。其れ何如。」と。嶽曰く、「盲者の子なり。父は頑に、母は嚚に、弟は傲れり。能く和ぐるに孝を以てし、烝烝として治めて、姦に至らしめず。」と。堯曰く、「吾其れ試みんかな。」と。是に於いて堯之に二女を妻はせ、其徳を二女に觀る。舜二女を嬀汭に飭へ下し、婦禮の如くす。堯之を善す。乃ち舜をして慎みて五典を和げしむ。五典能く從ふ。乃ち徧く百官に入らしむ。百官時に序づ。四門に賓せしむ。四門穆穆たり。諸侯遠方の賓客皆敬す。堯、舜をして山林川澤に入らしむ。暴風雷雨にも、舜行きて迷わず。堯以て聖と爲し、舜を召して曰く、「女、事を謀るに至れり。而して言績とすべきこと三年。女帝位に登れ。」と。舜徳に讓る。懌びず。正月上日、舜終を文祖に受く。文祖とは、堯の大祖なり。是に於いて、帝堯老いぬれば舜に命して天子の政を攝行せしめ、以て天命を觀んとす。舜乃ち璿璣玉衡を在かにして、以て七政を齊へ、遂に上帝に類し、六宗に禋し、山川に望し、群神に辯し、五瑞を輯め、吉月日を擇び、四嶽の諸牧を見、瑞を班つ。歳の二月に、東に巡狩して、岱宗に至り、柴し、山川に望秩す。遂に東方の君長を見、時月を合はせ、日を正しくし、律度量衡を同じうし、五禮を修め、五玉、三帛、ニ生、一死を摯と爲す。五器の如きは、卒れば乃ち復す。五月、南に巡狩す。八月、西に巡狩す。十一月、北に巡狩す。皆初めの如くす。帰り祖禰の廟に至り、特牛の礼を用う。五歳に一たび巡狩し、羣后は四にして朝す。徧く告ぐるに言を以てし、明らかに試みるに功を以てし、車服は庸を以てす。十有二州を肇めて、川を決す。象するに典刑を以てす。流して五刑を宥む。五刑、鞭を官刑と作し、扑を教刑と作し、金を贖刑と作し、眚烖の過ちは赦し、怙終の賊は刑す。欽めよや、欽めよや、惟れ、刑を之れ静かにせんかな。讙兜、進めて共工を言う。堯曰く、「不可なり。」と。而して之を工師に試む。共工、果たして淫辟す。四嶽、鯀を挙げて鴻水を治めしめんとす。堯、以て不可と為す。嶽、彊いて之を試みんことを請う。之を試みて功無し。故に百姓、便とせず。三苗は江・淮・荊州に在りて、数々亂を爲す。是に於いて舜帰りて、帝に言いて、請いて、共工を幽陵に流し、以て北狄に変じ、讙兜を崇山に放ち、以て南蛮に変じ、三苗を三危に遷し、以て西戎に変じ、鯀を羽山に殛し、以て東夷に変ず。四辠して天下咸服す。
丹朱 たんしゅ 堯の嫡男。 Wikipedia「丹朱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A9%A9%E5%85%9C
讙兜 くわんとう 堯の家臣、丹朱のこと。(Wikipediaは上)
共工 きょうこう 悪神。三皇本紀でも出てきた。Wikipedia「共工」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%B7%A5
鯀 こん 家臣の名。 Wikipedia「鯀」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%80
三苗 さんべう 悪神の名。Wikipedia「三苗」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8B%97#:...
堯がそろそろ退位しようと言うには、「誰か天下の政治を行うことが出来る人はいるか。」と。放齊が言うには、「あなたの嫡男の丹朱がいいでしょう。」と。堯は「え、頑なで訴訟が好きだから無理だ。」と。堯がまた「誰かいい人は。」と。讙兜が言うには、「共工は広く慕われていて人も寄ってくるので功績がある。できるでしょう。」と。堯が言うには、「共工はいいと言っても、任せたら偏りがある政治になる。敬っているようで、天を侮るだろうから無理だ。」と。堯がまた言うには「ああ、四嶽よ。洪水が盛んに起こり、大きく山を包んで、丘さえ登ってくるので、民はそれを心配している。これを治水できる人はいるか。」と。皆が言うには、「鯀が出来ます。」と。堯が言うには、「鯀は命令に背いて一族を傷つける。だめだ。」と。嶽が言うには、「とにかく、試してみるべきです。試して無理でしたら、やめればいいのです。」と。そうして堯は嶽の言うことを聞いて鯀を用いた。しかし、九年が経っても成果はなかった。堯が言うには、「ああ、四嶽よ。私は帝位について七十年、お前はよく命令を聞く。お前が位につけ。」と。嶽が答えて言うには、「私は徳が少ないので、帝位を辱めてしまうでしょう。」と。堯が言うには、「親族とか疎遠になっているもの、隠れている者を全員探せ。」と。皆が堯に言うには、「まだ未婚ですが、庶民にいい人がいます。虞舜という人です。」と。堯が言うには、「そうだ。私もそのことを聞いている。どんな者だろうか。」と。嶽が言うには、「盲目の父を持つ子で、父は頑な、母はやかましく、弟は驕っています。舜はよく孝行して仲良くして、いい方向に向かせて悪者にさせていません。」と。堯が言うには、「私は試しに用いようか。」と。そして堯が舜に娘二人を嫁がせ、その徳を見させた。舜は、住んでいる嬀汭で二人の心を正し、礼節をつくした。堯はこれを喜んだ。そこで、舜に五典を和やかにさせた。五典を民に広めることが出来た。そして舜を百官の中に入れさせた。百官は順序良く政務を行った。宮廷の入り口の四方の門の、接待役にさせたが、客人などが和やかになって、遠くの諸侯も皆敬った。堯は舜に山林や川に入らせた。暴風雷雨でも、舜は迷わなかった。堯はこれで舜を聖人だとして、舜を召して言うには、「お前、事を謀るに至れり尽くせりだ。三年間でしてきた功績もあげた。お前、帝位につけ。」と。舜は喜ばなかった。正月の一日、舜は堯の跡を文祖の廟で継いだ。文祖は堯の先祖を祀った廟だ。そうして堯は年老いて、舜に命じて天子の政治を行わせ、それで天下の行く末を見守った。舜は璿璣玉衡を使って、政治を整えた。とうとう天帝を祀り、六つの神々を祀り、山川の祭事も行い、そのほか大勢の神々も祀った。五瑞をおさめ、吉日をえらんで、四嶽や諸侯を率いて、瑞玉を分けた。その年の二月、東に巡幸して、泰山に行き、紫祭を行って、山川の祭りをした。それから東方の諸侯と会って、四季などを照合し、日の甲乙を正しくし、測量の方法を同じくし、五礼を修め、五玉、三帛、二生、一死などの貢納の品目を定めた。五玉は謁見が終わると返した。五月は南に巡幸して、八月は西に巡幸して、十一月は北に巡幸した。そこでも、二月の巡幸のようにした。帰って、祖禰の廟についた。特牛の礼をした。五年に一回ずつ各地に巡幸して、諸侯は四方から来朝した。来朝したら政情を伝えさせ、功績があれば褒美を与えた。十二州に天下を分けて、川を治水した。刑法は常刑を定めて、流刑を五刑に処されるはずの者の情状酌量の刑にした。鞭打ちを官僚が罪を犯したときの刑にし、木の皮での鞭打ち刑を教師向けの刑にし、小さい罪は罰金刑にした。過失や災難なら許したが、態度を改めないなら厳しく処罰した。刑罰については「慎重に、慎重に、刑は重大なことだ。」といった。讙兜は共工を登用するよう言っていた。堯は「だめだ。」と言ったのに試しに工師につかせた。共工はでたらめだった。四嶽は鯀を登用して洪水を治めさせた。堯は鯀をだめだとしたが、嶽はどうしても鯀を試してみようと言った。試してみて功績は無く、人民百官は迷惑だった。三苗というのが江・淮・荊州にいて、時々反乱を起こした。そこで、舜は巡幸が終わると堯に頼んで、共工を幽陵に追放し、それを北狄にさせ、讙兜を崇山に追放して、それを南蛮にさせ、三苗を三危に移して、それを西戎にさせた。鯀は羽山に閉じ込め、東夷にさせた。四人を処罰して天下は皆服従した。
③
堯立七十年得舜、二十年而老、令舜攝行天子之政、薦之於天。堯辟位凡二十八年而崩。百姓悲哀、如喪父母。三年、四方莫舉樂、以思堯。堯知子丹朱之不肖、不足授天下、於是乃權授舜。授舜、則天下得其利而丹朱病;授丹朱、則天下病而丹朱得其利。堯曰:「終不以天下之病而利一人」、而卒授舜以天下。堯崩、三年之喪畢、舜讓辟丹朱於南河之南。諸侯朝覲者不之丹朱而之舜、獄訟者不之丹朱而之舜、謳歌者不謳歌丹朱而謳歌舜。舜曰:「天也」、夫而後之中國踐天子位焉、是爲帝舜。
堯立ちて七十年にして、舜を得たり。二十年にして老ゆ。舜をして天子の政を摂行せしめ、之を天に薦む。堯位を辟けて凡そ二十八年にして崩ず。百姓の悲哀すること父母を喪くすが如し。三年、四方、楽を挙ぐる莫し。以て堯を思う。堯、子の丹朱の不肖にして、天下を授くるに足らざるを知る。是に於いて乃ち権りて舜に授く。舜に授くれば、則ち天下、其の利を得て、丹朱、病み、丹朱に授くれば、則ち天下、病みて、丹朱、其の利を得。堯曰く、「終に天下の病を以てして一人に利せじ。」而して卒に舜に授くるに天下を以てす。堯崩ず。三年の喪、畢り、舜、譲り、丹朱を南河の南に辟く。諸侯の朝覲する者、丹朱に之かずして舜に之く。獄訟する者、丹朱に之かずして舜に之く。謳歌する者、丹朱を謳歌せずして舜を謳歌す。舜曰く、「天(天命)なるかな。」夫くして後、中国に之き、天子の位を踐む。是を帝舜と為す。
不肖 ふせう 才能が天、父に似ないこと。
堯は即位して七十年で舜を得た。試しに政治させてから二十年で年老いて隠居した。堯は帝位を退いておおよそ二十八年で崩御した。人民が悲しむのは父母の葬式のようなものだった。三年間はどこも音楽を奏でなかった。堯をしのんでいたからだ。堯は以前、子の丹朱に徳がないので、天下を授けられないと知っていた。それで舜に授けた。舜に授ければ天下は利益を受けて、丹朱は病むが、丹朱に授ければ天下が病んで、丹朱がその利益を受ける。堯が言うには、「天下を止ませて利益を独り占めすることはできない。」と。そうして天下を舜に授けた。堯が崩御して、三年の喪が終わったが、舜は丹朱に位を譲ろうとし、南河の南に避けた。諸侯で来朝する者は、丹朱の方に行かず舜の方に行った。訴訟する者も、丹朱の方に行かず舜の方に行った。歌う者は、丹朱の歌を歌わず、舜の歌を歌った。舜は「これは天命かぁ。」と言って中国に行って帝位についた。これを帝舜とした。
帝舜
①
虞舜者、名曰重華。重華父曰瞽叟、瞽叟父曰橋牛、橋牛父曰句望、句望父曰敬康、敬康父曰窮蟬、窮蟬父曰帝顓頊、顓頊父曰昌意:以至舜七世矣。自從窮蟬以至帝舜、皆微爲庶人。
舜父瞽叟盲、而舜母死、瞽叟更娶妻而生象、象傲。瞽叟愛後妻子、常欲殺舜、舜避逃;及有小過、則受罪。順事父及後母與弟、日以篤謹、匪有懈。
舜、冀州之人也。舜耕歷山、漁雷澤、陶河濱、作什器於壽丘、就時於負夏。舜父瞽叟頑、母嚚、弟象傲、皆欲殺舜。舜順適、不失子道、兄弟孝慈。欲殺、不可得;即求、嘗在側。
虞舜は名を重華と曰ふ。重華の父を瞽叟と曰ふ。瞽叟の父を橋牛と曰ふ。橋牛の父を句望と曰ふ。句望の父を敬康と曰ふ。敬康の父を窮蟬と曰ふ。窮蟬の父を帝顓頊と曰ふ。帝顓頊の父を昌意と曰ふ。舜に至るまで七世、窮蟬より皆微にして庶人たり。舜の父瞽叟は盲にして舜の母は死せり。瞽叟更に妻を娶りて象を生む。象傲れり。瞽叟後の妻の子を愛し、舜を殺さんと欲す。舜避け逃る。小過有るに及べば、則ち辠を受く。父及び後母と弟とに順い事へ、日に以て篤く謹み懈ること有るにあらず。舜は冀州の人なり。舜は歴山に耕し、雷澤に漁し、河濱に陶し、壽丘に什器を作り、時に負夏に就く。舜の父瞽叟は頑に、母は嚚に、弟象は傲れり。皆舜を殺さんと欲す。舜順適して子道を失はず。兄弟孝慈あり。殺さんと欲せれども、得べからず。卽ち求れば常に側に在り。
虞舜は名を重華と言った。重華の父を瞽叟こそうと言った。瞽叟の父を橋牛けうぎうと言った。橋牛の父を句望こうばうと言った。句望の父を敬康けいこうと言った。敬康の父を窮蟬と言った。窮蟬の父を帝顓頊と言った。帝顓頊の父を昌意と言った。先祖から舜に至るまで七代、窮蟬からは皆微妙で庶民だった。舜の父の瞽叟は盲人で、舜の母は亡くなった。瞽叟は再婚して象を産んだ。象は傲慢だった。瞽叟は舜より象を愛し、舜を殺したかった。舜はそれを避けて逃げていた。少しの害ならそれを受けた。父と継母と弟に順って、毎日誠実に、驕ることがなかった。舜は冀州の人だった。舜は歴山で農業をし、雷澤で魚をとり、川辺で陶器を作り、壽丘で家具を作って、時々負夏で商売をした。舜の父の瞽叟は頑固で、母はやかましく、弟の象は傲慢。皆舜を殺そうとした。舜は彼らに順って子としての道を失わなかった。弟を慈しんでいた。家族は舜を殺そうとしても、殺せなかった。用事で家族が舜を呼ぶと常にそばに来た。
②
舜年二十以孝聞。三十而帝、堯問可用者、四嶽咸薦虞舜、曰可。於是堯乃以二女妻舜、以觀其内、使九男與處、以觀其外。舜居嬀汭、内行彌謹。堯二女不敢以貴驕事舜親戚、甚有婦道。堯九男皆益篤。舜耕歷山、歷山之人皆讓畔;漁雷澤、雷澤上人皆讓居;陶河濱、河濱器皆不苦窳。一年而所居成聚、二年成邑、三年成都。堯乃賜舜絺衣、與琴、爲筑倉廩、予牛羊。瞽叟尚復欲殺之、使舜上涂廩、瞽叟從下縱火焚廩。舜乃以兩笠自扞而下、去、得不死。後瞽叟又使舜穿井、舜穿井爲匿空旁出。舜既入深、瞽叟與象共下土實井、舜從匿空出、去。瞽叟・象喜、以舜爲已死。象曰:「本謀者象。」象與其父母分、於是曰:「舜妻堯二女、與琴、象取之。牛羊倉廩予父母。」象乃止舜宮居、鼓其琴。舜往見之。象鄂不懌、曰:「我思舜正鬱陶!」舜曰:「然、爾其庶矣!」舜復事瞽叟、愛弟彌謹。於是堯乃試舜五典百官、皆治。
舜年二十、孝を以て聞ゆ。三十にして、帝堯用ふべき者を問ふ。四嶽咸虞舜を薦めて「可なり。」と曰ふ。是に於いて堯の二女を以て舜に妻せ其内を觀。九男をして禎に處らしめて、以て其外を觀る。舜嬀汭に居り、内行彌謹めり。堯の二女敢て貴を以て驕らず。舜の親戚に事へて甚だ婦道有り。堯の九男咸益篤し。舜歴山に耕し、歴山の人咸畔を譲る。雷澤に漁して、雷澤の上の人皆居を譲る。河濱に陶し、河濱の器皆苦窳せず。一年にして居る所、聚を成し、二年にして邑を成し、三年にして都を成す。堯の舜に絺衣と琴とを賜ひ、爲に倉廩を築き、牛羊を予ふ。瞽叟尚ほ復た之を殺さんと欲し、舜をして上りて廩を塗らしむ。瞽叟下より火を縦ちて廩を焚く。舜乃ち兩笠を以て自ら扞ぎて下り去り、死せざるを得たり。後瞽叟又舜をして井を穿らしむ。舜井を穿るに匿傍より空を爲りて出んとす。舜卽に入りて深きとき、瞽叟象と共に土を下し井を實む。舜匿空より出で去る。瞽叟象とは喜びて舜を以て已に死せりと爲す。象曰く、「本謀れるは象なり。」と。其父母と分つ。是に於いて曰く、「舜の妻たる堯の二女と琴とは象之を取らん。牛羊と倉廩とは、父母に予へん。」と。象乃ち舜の宮に止り居りて其の琴を鼓く。舜往きて之を見る。象鄂きて懌びず曰く、「舜を思ひて、正に鬱陶きり。」と。舜曰く、「然り。其れ庶し。」と。舜復た瞽叟に事へ、弟を愛して、謹めり。是に於いて堯乃ち舜を五典百官に試みしに、皆治まれり。
舜がニ十歳のとき孝行者として噂になった。三十歳で帝堯が登用すべき者が誰か家臣に聞いた。四嶽皆全員虞舜を薦めて言うには、「いいでしょう。」と。そして堯は二人の娘を舜と結婚させ、それで家庭内の様子を見させ、九人の息子を共に生活させ、それで家庭外の様子を見させた。舜は嬀汭に住んでいて、家庭内ではいよいよ謹んだので、堯の二女は絶対に身分が高いというのを驕らず、舜の親戚に婦人の道を行った。堯の九男はますます誠実になった。舜は歴山に畑仕事をしていたが、歴山の人は皆畔を譲り合った。雷澤で魚とりをしていたが、雷澤の人は皆漁場を譲り合った。川辺で陶器を作っていたが、陶器はもろい、いびつなものはなくなった。舜がいる所は、一年で村、二年で町、三年で都になった。そして堯は舜に衣と琴を與、そのために倉うを建て、牛や羊を与えた。瞽叟はまたしても舜を殺そうとし、舜を倉の上に登らせた。瞽叟は下から火をつけて倉を焼いた。舜は笠を使って火を防ぎ下に逃げて、死なずに済んだ。そのあと瞽叟は舜に井戸を掘らせた。舜は井戸を掘ったが、抜け穴を作り、そこから出た。舜はもう深く掘っただろうと、瞽叟は象と共に土を戻し、井戸を埋めた。舜は抜け道から外に逃げた。瞽叟・象は喜んで、舜はもう死んだことにした。象が言うには、「もともとこれを考えたのは私だ。私と父母で舜のものを山分けしよう。」と。そうして、「舜の妻である堯の二女と琴は私がもらおう。牛羊や倉は両親にあげよう。」と。象は舜の部屋に行って、琴を弾いた。舜は出てきて弾いているのを見た。象は驚いて喜ばず、「私は舜を思って、憂鬱でした。」と言った。舜は「なるほど、お前は兄思いだなぁ。」と言った。舜は再び瞽叟に孝行し、弟を慈しんだ。それから、堯が舜を五典百官にして試してみると、どれもうまくいった。
③
昔高陽氏有才子八人、世得其利、謂之「八愷」。高辛氏有才子八人、世謂之「八元」。此十六族者、世濟其美、不隕其名。至於堯、堯未能舉。舜舉八愷、使主后土、以揆百事、莫不時序。舉八元、使布五敎于四方、父義、母慈、兄友、弟恭、子孝、内平外成。
昔帝鴻氏有不才子、掩義隱賊、好行凶慝、天下謂之渾沌。少暤氏有不才子、毀信惡忠、崇飾惡言、天下謂之窮奇。顓頊氏有不才子、不可敎訓、不知話言、天下謂之梼杌。此三族世憂之。至于堯、堯未能去。縉雲氏有不才子、貪于飮食、冒于貨賄、天下謂之饕餮。天下惡之、比之三凶。舜賓於四門、乃流四凶族、遷于四裔、以御螭魅、於是四門辟、言毋凶人也。
昔高陽氏に才子八人有り。世其の利を得たり。之を八愷と謂ふ。高辛氏に才子八人有り。世之を八元と謂ふ。此の十六族は、世々其の美を濟して、其の名を隕とさず。堯に至るも、堯未だ擧ぐること能はず。舜八愷を擧ぐ。后土を主をしめ、以て百事を撥しむ。時に序でざる莫し。八元を擧げ、五教を四方に布かしむ。父は義に、母は慈に、兄は友に、弟は恭に、子は孝にして、内は平ぎ、外は成る。昔帝鴻氏に不才子有り。義を掩ひ、賊を隠し、好みて凶慝を行ふ。天下之を渾沌と謂ふ。少暤氏に不才子有り。信を毀りて忠を惡み、惡言を崇め飾る。天下之を窮奇と謂ふ。顓頊氏に不才子有り。教訓すべからず、話言を知らず。天下之を梼杌と謂ふ。此の三族は世之を憂ふ。堯に至るも堯未だ去ること能はず。縉雲氏に不才子有り。飮食を貪り、貨賄を冒る。天下之を饕餮と謂ふ。天下之を惡み之を三凶に比ぶ。舜四門に賓し、乃ち四凶の族を流し、四裔に遷して、以て魑魅を御がしむ。是に於いて四門辟けたり。凶人毋きを言ふなり。
内平外成 元号「平成」の由来となった一文。
昔高陽氏に才能がある子が八人いた。世はその利益を得た。この八子を八愷と言った。高辛氏に才能のある子が八人いた。世はこれを八元と言った。この十六人は代々美徳を成して、その名を堕とさなかった。堯の治世でも、まだこれらの人を登用できなかった。舜は八愷を登用した。土地のことをつかさどらせ、万事をはからせた。すると、順序良く行えないことはなかった。八元も登用し、五教を広く教えさせた。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝であるのがいいとして、国内は平和にに、天地も平らかになった。昔帝鴻氏に才能のない子がいた。正義をかくして、隠れて悪さをするのが好きで悪事を働いた。天下はこれを渾沌と言った。少暤氏に才能のない子がいた。信頼をやぶって素直なことを嫌い、悪い言葉を飾り立てた。天下はこれを窮奇と言った。顓頊氏に才能のない子がいた。教えてもわからず、善い言葉も知らなかった。天下はこれを梼杌と言った。この三人に、世は心配していた。堯の治世になっても出て行かすことが出来なかった。縉雲氏にも才能のない子がいた。飲食を貪り、金銭も貪った。天下はこれを饕餮と言った。天下はこれを憎み、さっきの三人に並べた。舜は四方から賓客を集め、四凶の一族を流罪にして、四千里も離れたところに移し、妖怪を防がせた。そうして四門は開かれ、悪者はいなくなったという。
④
舜入于大麓、烈風雷雨不迷、堯乃知舜之足授天下。堯老、使舜攝行天子政、巡狩。舜得舉用事二十年、而堯使攝政。攝政八年而堯崩。三年喪畢、讓丹朱、天下歸舜。而禹・臯陶・契・后稷・伯夷・夔・龍・倕・益・彭祖自堯時而皆舉用、未有分職。於是舜乃至於文祖、謀于四嶽、辟四門、明通四方耳目、命十二牧論帝德、行厚德、遠佞人、則蠻夷率服。舜謂四嶽曰:「有能奮庸美堯之事者、使居官相事?」皆曰:「伯禹爲司空、可美帝功。」舜曰:「嗟、然!禹、汝平水土、維是勉哉。」禹拜稽首、讓於稷・契與臯陶。舜曰:「然、往矣。」舜曰:「棄、黎民始饑、汝后稷播時百穀。」舜曰:「契、百姓不親、五品不馴、汝爲司徒、而敬敷五敎、在寛。」舜曰:「臯陶、蠻夷猾夏、寇賊姦軌、汝作士、五刑有服、五服三就;五流有度、五度三居:維明能信。」舜曰:「誰能馴予工?」皆曰垂可。於是以垂爲共工。舜曰:「誰能馴予上下草木鳥獸?」皆曰益可。於是以益爲朕虞。益拜稽首、讓于諸臣朱虎・熊羆。舜曰:「往矣、汝諧。」遂以朱虎・熊羆爲佐。舜曰:「嗟!四嶽、有能典朕三禮?」皆曰伯夷可。舜曰:「嗟!伯夷、以汝爲秩宗、夙夜維敬、直哉維靜絜。」伯夷讓夔・龍。舜曰:「然。以夔爲典樂、敎穉子、直而溫、寛而栗、剛而無虐、簡而無傲;詩言意、歌長言、聲依永、律和聲、八音能諧、毋相奪倫、神人以和。」夔曰:「於!予撃石拊石、百獸率舞。」舜曰:「龍、朕畏忌讒説殄偽、振驚朕衆、命汝爲納言、夙夜出入、朕命惟信。」舜曰:「嗟!女二十有二人、敬哉、惟時相天事。」三歳一考功、三考、絀陟遠近衆功咸興。分北三苗。
舜大麓に入り、烈風雷雨にも迷わず。堯乃ち舜の天下を授くるに足るを知る。堯老いぬ。舜をして天子の政を攝行せしむ。巡狩す。舜擧ぐるるを得、事を用ふること二十年、堯政を攝せしむ。政を攝すること八年にして、堯崩じぬ。三年の喪畢りて、丹朱に讓る。天下皆舜に歸す。禹・臯陶・契・后稷・伯夷・夔・龍・倕・益・彭祖、堯の時より皆擧用せらる。未だ分職有らず。是に於いて舜乃ち文祖に至り、四嶽に謀り四門を辟き、明かに四方の耳目を通ず。十二牧に命じて、帝徳を論じ、厚徳を行ひ、佞人を遠く、則ち蠻夷率ゐ服す。舜四嶽に謂つて曰く、「能く庸を奮にし、堯の事を美する者有らば、官に居て事を相けしめん。」と。皆曰く、「伯禹を司空と爲さば、帝の功を美くすべし。」と。舜曰く、「然り。嗟、禹、汝水土を平ぐ。維れ是れ勉めよ。」と。禹拝稽首して、於稷・契・臯陶とに讓る。舜曰く、「然り。往け。」舜曰く、「棄、黎民始めて饑う。汝稷に后となり百穀を播け。」と。舜曰く、「契、百姓親まず。五品馴はず。汝司徒と爲り、敬みて五教を敷け。寛に在れ。」と。舜曰く、「臯陶、蠻夷夏を猾し、冠賊姦軌あり。汝士と作り、五刑は服有り。五服には三就し、五流は度有り。五度には三居し、維れ明に能く信なれ。」と。舜曰く、「誰か能く予が工に馴はむ。」と。皆曰く、「垂可なり。」と。是に於いて垂共工と爲す。舜曰く、「誰か能く予が上下草木鳥獸に馴はむ。」と。皆曰く、「益可なり。」と。是に於いて益を以て朕が虜と爲す。益拝稽首して諸臣朱・虎・熊・羆に讓る。舜曰く、「往け。汝諧らげ、遂に朱虎熊羆を以て佐と爲す。」と。舜曰く、「ああ、四嶽、能く朕が三禮を典るもの有らんや。」と。皆曰く、「伯夷可なり。」と。舜曰く、「ああ、伯夷、汝を以て秩宗と爲さん。夙夜に維れ敬い、直なれや、維れ静潔なれ。」と。伯夷、夔・龍に讓る。舜曰く、「然り。」と。夔を以て典樂と爲し、穉子を教へしむ。「直にして慍。寛にして栗。剛にして虐する無く、簡にして傲ること無れ。詩は意を言ひ、歌は言を長くし、聲は永に依り、律は聲を和す。八音能く諧いで倫を相奪ふこと毋ければ、神人以て和せん。」と。夔曰く、「ああ、予石を撃ち石を拊せば、百獸率ゐ舞ふ。」と。舜曰く、「龍、朕讒説偽を殄ち、 朕が衆を振驚するを畏忌す。汝を命じて納言と爲す。夙夜朕が命を出入し、惟れ信なれ。」と。舜曰く、「ああ、女二十有人、敬めや、惟れ時れ天事を相けよ。三歳一たび功を考へ、三たび考へて絀陟せよ。」と。遠近の衆功咸興る。三苗を分北す。
舜は大きな山の麓に入っても、強風や雷雨に遭っても迷わなかった。堯はそうして舜に天下を授けられると知った。堯が年老いて、舜に天下の政治をさせ、各地を巡幸させた。舜は登用され、つかえてから二十年、堯は政治を行わせた。そうして八年して堯が崩御した。三年の喪が終わって、丹朱に帝位を譲ろうとした。天下は舜に服従した。そして禹・臯陶・契・后稷・伯夷・夔・龍・倕・益・彭祖といった者たちは、堯の時から皆登用されて、まだ職がなかった。なので、舜は文祖の廟で四嶽と相談し、四門を開いて賢人を招き、よく四方の民の様子を見聞きした。十二州の長に、帝の徳を褒め、厚い徳を施し、よこしまな人を遠ざければ、外の異民族も服従するだろうと命令した。
舜が四嶽に言うには「政治の功績をあげられ、堯のことを褒める者がいれば、官僚にして政治を助けさせよう。」と。皆が言うには、「禹殿が司空になるなら、帝の功績を褒められるでしょう。」と。舜が言うには、「なるほど。ああ、禹よ。お前は水土を平らげよ。がんばれ。」と。禹は丁寧な礼をして、稷・契、皐陶とに譲って辞退した。舜曰く、「なるほど。往け。」と。舜が言うには、「棄よ、民が餓えようとしている。お前は稷の役職について、時に遭った作物の種を植えろ。」と。また、「契よ。百官が親しんでいないし、五品は従っていない。お前は司徒となって、謹んで五教を広め、寛大であれ。」と。また、「皐陶よ。異民族は我が国をみだして、民を傷つけ国の内外で反乱を起こしている。お前は士となって、五刑を正しく行い、刑罰を明らかにして人民に信頼されよ。」と。
また舜が言うには、「誰か百工をつかさどることが出来る者はいないか。」と。皆が「垂ならできます。」と言った。それで、垂を共工とした。舜が言うには、「誰か山川の草木鳥獣を順わせられる者はいないか。」と。皆「益ならできます。」と言った。それで、益を山川を管理する虞の役職にした。益は丁寧に礼して、朱虎、熊羆に譲って辞退した。舜が言うには、「行け。お前が虞になって、調和させろ。」と。朱虎、熊羆はその補佐役とした。舜が言うには「ああ、四嶽よ。天神・地祀・人靈のことを管理できる者はいないか。」と。皆「伯夷ができます。」と。舜が言うには、「ああ、伯夷よ。お前を秩宗にする。朝から晩まで謹んで素直になって清潔であれ。」と。伯夷は、菱・龍に譲って辞退した。舜は「なるほど。」と言った。菱を音楽の官僚の典樂にして、天子や公卿の子供に教える担当にさせた。「素直で温かく、寛大で厳格、強くて乱暴することなく、さらっとしていても傲慢にならないように。詩は人の心を言って、歌は言葉のように歌い、声は整え、旋律は音を調和する。八つの音が和らいで、条理を乱すことがないなら、神も人も和やかになるだろう。」と。菱が言うには、「ああ、私が石の楽器を強く、あるいは弱く打てば、獣でさえも躍るでしょう。」と。舜がまた言うには、「龍よ。私は人の悪口や、人の善い行いをやめさせることが嫌だ。お前に命じて納言とする。朝から晩まで私の命令を報告して、信頼を失わせないようにせよ。」と。舜が言うには「ああ、お前たち二十二人よ。謹め。そして私の天下の政治を助けよ。」と。三年に一回、彼らの功績を考え、それを三回して官位の上下を決めた。遠近ともに政治の功績があがった。
⑤
此二十二人、咸成厥功:臯陶爲大理、平、民各伏得其實;伯夷主禮、上下咸讓;垂主工師、百工致功;益主虞、山澤辟;棄主稷、百穀時茂;契主司徒、百姓親和;龍主賓客、遠人至;十二牧行而九州莫敢辟違;唯禹之功爲大、披九山、通九澤、決九河、定九州、各以其職來貢、不失厥宜。方五千里、至于荒服。南撫交阯・北發、西戎・析枝・渠廋・氐・羌、北山戎・發・息慎、東長・鳥夷、四海之内咸戴帝舜之功。於是禹乃興九招之樂、致異物、鳳皇來翔。天下明德皆自虞帝始。
舜年二十以孝聞、年三十堯舉之、年五十攝行天子事、年五十八堯崩、年六十一代堯踐帝位。踐帝位三十九年、南巡狩、崩於蒼梧之野。葬於江南九疑、是爲零陵。舜之踐帝位、載天子旗、往朝父瞽叟、夔夔唯謹、如子道。封弟象爲諸侯。舜子商均亦不肖、舜乃豫薦禹於天。十七年而崩。三年喪畢、禹亦乃讓舜子、如舜讓堯子。諸侯歸之、然後禹踐天子位。堯子丹朱、舜子商均、皆有疆土、以奉先祀。服其服、禮樂如之。以客見天子、天子弗臣、示不敢專也。
自黄帝至舜・禹、皆同姓而異其國號、以章明德。故黄帝爲有熊、帝顓頊爲高陽、帝嚳爲高辛、帝堯爲陶唐、帝舜爲有虞。帝禹爲夏后而別氏、姓姒氏。契爲商、姓子氏。棄爲周、姓姬氏。
此の二十二人は、咸厥の功を成せり。臯陶大理と爲り、平ぎぬ。民各々伏して其の實を得。伯夷禮を主り、上下咸讓る。垂工師を主り、百高功を致す。益虞を主り、山澤辟く。棄稷を主り、百穀時茂る。契司徒を主り、百姓親和す。龍賓客を主り、遠人至る。十二牧行はれ、九州敢て辟違する莫し。唯禹の功を大と爲す。九山を披き、九澤を通じ、九河を決し、九州を定む。各々其職を以て来貢す。厥の宜を失はず。方五千里にして荒福に至るまで、南は交趾・北發、西は戎・析枝・渠廋・氐・羌・北は山戎・發・息愼・東は長・鳥夷。四海の内を撫し、咸帝舜の功を戴く。是に於いて禹乃ち九招の樂を興し、異物を致し、鳳皇来り翔ぶ。天下の徳を明かにすること帝虞より始む。舜年二十にして、孝を聞ゆ。年三十にして、堯之を擧ぐ。年五十にして、天子の事を攝行す。年五十八年にして、堯崩じぬ。年六十一にして、堯に代りて帝位を踐む。帝位を踐みて三十九年、南に巡狩して、蒼梧の野に崩じぬ。江南の九疑に葬る。是を零陵と爲す。舜の帝位を踐むや、天子の旗を載せ、往きて父瞽叟に朝す。夔夔として唯謹み、子の道の如くす。弟象を封じて諸侯と爲す。舜の子商均、亦た不肖なり。舜の豫め禹を天に薦む。十七年にして崩じぬ。三年の喪畢りて、亦た舜の子に讓る。舜の堯の子に讓るが如くす。諸侯これに歸す。然るに後に禹天子の位を踐む。堯の子丹朱、舜の子商均、皆疆土を有ちて、以て先祀を奉ず。その服を服し、禮楽之の如くし、客を以て天子に見ゆ。臣とせざるは敢て専にせざるを示せるなり。黄帝より舜禹に至るまで、皆同姓なり。而して其の國號を異にして、以て明徳を章かにす。故に黄帝を有熊と爲し、帝顓頊を高陽と爲し、帝嚳を高辛と爲し、帝堯を陶唐と爲し、帝舜を熊虞と爲し、帝禹を夏后と爲す。而して氏を別にす。姓は姒氏。契を商と爲す。姓は子氏。棄を周と爲す。姓は姫氏。
析枝 せつし 青海省周辺に住んでいたとされる民族。 百度百科「析枝」https://baike.baidu.com/item/%E6%9E%90%E6%9E%9D/18...
渠廋 きょしう 甘粛省や新彊に住んでいたとされる民族。 百度百科「渠搜」 https://baike.baidu.com/item/%E6%B8%A0%E6%90%9C?fr...
山戎 さんじう 遼寧省西北部から河北省東北部の地域に生活していた遊牧民族。 Wikipedia「山戎」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%88%8E
息愼 そくしん 満州地方に住んでいたとされる狩猟民族。 Wikipedia「粛慎 (中国)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9B%E6%85%8E_(...
鳥夷 てうい 黄河流域と淮河流域の下流から揚子江流域の下流に生息する東夷の一種。 维基百科,自由的百科全书「鸟夷」 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%B8%9F%E5%A4%B7
蒼梧 湖南省寧遠県。 Wikipedia「寧遠県」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%A7%E9%81%A0%E...
商均 Wikipedia「商均」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E5%9D%87
この二十人は、皆その功績を成し遂げた。皐陶は大理となって公平に、民は各々従ってその実情を得た。伯夷は礼をつかさどり、上下は皆譲り合い、垂は工師をつかさどり、百工は功績を成し、益は虞をつかさどり、山川を切り開き、棄は稷をつかさどり、穀物は時に豊作となり、契は司徒をつかさどり、人民は親しみ和らぎ、龍は賓客の接待役をつかさどり、遠くからも客が来た。十二牧が任地に赴いて、九州は絶対に反乱を起こさなくなった。とりわけ、禹の功績が偉大だった。九つの山を切り開き、九つの沢に水を通し、九つの川を治水して、天下を平定した。各々その仕事にふさわしいよう来朝して、帝に服従した。都を中心に四方五千里、荒服という遠い地にも及んだ。南は交趾・北發、西は戎・析枝・渠廋・氐・羌・北は山戎・發・息愼・東は長・鳥夷まで鎮撫し、四海のうちも皆帝舜の功績を浴びた。なので、禹は舜の功績をたたえた歌を作り、珍しい物を都にもたらし、鳳凰も飛来した。天下に舜の徳が明らかになったのは、虞帝舜より始まった(と皆賞讃した。)。
舜は二十歳の時に、孝行していたのが噂になって、三十歳で堯に登用され、五十歳で、天下の政治を行った。五十八歳の時に堯が崩御した。六十一歳で、堯に代って帝位につき、それから三十九年、南に巡幸したとき蒼梧の野で崩御した。江南の九疑に葬った。そこを零陵とした。舜の帝位につくや、天子の旗を以て父瞽叟に会いに行った。つつしみ和やかで、子の道を以てふるまった。弟の象を封じて諸侯とした。舜の子の商均もまた徳がなかった。舜はあらかじめ禹に帝位を薦めていた。それから十七年で崩御した。三年の喪が終わって、禹もまた舜が堯の子に譲ったように、舜の子に帝位を譲った。諸侯は禹に服従した。そうした後に禹は天子の位についた。堯の子の丹朱、舜の子の商均はどちらも封土をもっていて、先祖の廟の祭りを行い、服従した。礼楽も、天子の賓客として謁見した。天子も、家臣の扱いをせず、絶対に帝の権力を独り占めしないということを示しての事だった。黄帝より舜や禹に至るまで、皆同じ姓で、その国号は異なった。それで帝の明徳を明らかにしようとした。なので、黄帝は有熊、帝顓頊は高陽、帝嚳は高辛、帝堯は陶唐、帝舜は熊虞、帝禹は夏后とした。それから、氏を分けて、姓を姫氏から姒氏にした。
評論
太史公曰:學者多稱五帝、尚矣。然『尚書』獨載堯以來;而百家言黄帝、其文不雅馴、薦紳先生難言之。孔子所傳宰予問『五帝德』及『帝繫姓』、儒者或不傳。余嘗西至空峒、北過涿鹿、東漸於海、南浮江淮矣、至長老皆各往往稱黄帝・堯・舜之處、風敎固殊焉、總之不離古文者近是。予觀『春秋』・『國語』、其發明『五帝德』・『帝繫姓』章矣、顧弟弗深考、其所表見皆不虚。『書』缺有間矣、其軼乃時時見於他説。非好學深思、心知其意、固難爲淺見寡聞道也。余并論次、擇其言尤雅者、故著爲本紀書首。
太史公曰く、「學者多く五帝を稱ふること尚し。然るに『尚書』には獨り堯以来を載するのみ。百家の黄帝を言へる、其の文雅馴ならず。薦紳先生之を言ふこと難る。孔子の傳ふる所の宰予問・『五帝徳』及び『帝繁姓』、儒者或は傳へず。余嘗て西の方空峒に至り、北の方涿鹿を過ぎ、東の方海に漸り、南の方江淮に浮びたり。長老皆各往往黄帝堯舜を稍する處に至るに、風教固より殊なり。之を總ぶる古文に離れざるは是に近し。予『春秋』『國語』を觀るに、其の『五帝徳』・『帝繁姓』を發明すること章かなり。顧ふに第深く考へざるのみ。其の表見するとこえお皆虚ならず、『書』缺けて間有り。其の軼せるは乃ち時時他の説に見ゆ。學を好み思を深くして、心に其意知るに非ずんば、固に淺見寡聞の爲に道ひ難しなり。余并せて論次し、其言の尤も雅なる者を擇ぶ。故に著して本紀の書首と爲す。
太史公 司馬遷のこと。
太史公が言うには、「学者の多くは、五帝のことを褒めるのはかなり昔の事だからだ。尚書だけは堯以降のことを載せ、百家の書には黄帝のことについて書かれている。其の文は正しくなく、高官や学者はこれを口にするのを憚っている。孔子が伝える五帝徳や帝繁姓ぶ¥は、儒者の中には正確でないとしている。私は昔、西は空洞、北の方は涿鹿を過ぎ、東の方海に達し、南の方江淮にまで調査した。長老が各々黄帝、堯、舜を褒めていたが、風俗や文化が異なり、本当に他と違って優れていた。長老の話は、古文を離れないものであって、これが正しい物に近い。私が春秋や国語をみるに、五帝徳や帝繁姓のものをひらきあきらかにしたこともはっきりする。思うに、書物の記載も全部が全部嘘ではない。尚書が散逸して間が欠けても、ほかの書物でみられる。学問を好み、深く考え、心で其の意を知る者でないと、浅見・寡聞の者のために説明するのは難しい。こういうのを合わせて、その論のもっとも正しいのを選んだ。そして五帝本紀を會て、これを本紀の一番初めとした。」と。