語り継ぐべき戦禍の記憶〜東京大空襲の日に
東京大空襲の日
今日3月10日は「東京都平和の日」とされています。昭和20年の3月10日未明、アメリカ軍による無差別爆撃で多くの命が奪われた、東京大空襲があった日です。
わたしの住む町には、東京大空襲・戦災資料センターがあり、この辺一帯も火の海になった被災地だったことが明らかになっています。戦後78年経ったからといって決して忘れてはいけないと、より危機感を募らせる人々がいることも地元で感じています。
4年前にセンターを訪れたときのことを書いていました。
東京大空襲を語り継ぐつどい
東京大空襲の日を前に、戦後78年「東京大空襲を語り継ぐつどい」が、近隣の中村中学校のホールを借りて、100名限定で開催されたとのこと。
その映像配信が本日からはじまっていたので、視聴しました。
空襲当時小学6年生だった廣山敦さんのお話に……ボロ泣き。
その夜と翌日までの鮮明な記憶が、家族との体験が、語られました。近隣に住まわれていた方なので、地名や学校名が現実にあったことを物語るし、必死で妹弟を守り抜き、家族が無事であったことに安堵しました。しかもお母様が産婆さんだったため、翌日に赤ちゃんの出産に立ち会われたというから驚きです。貴重な貴重な実体験のお話でした。
外国人が抱く危機感
「語りつぐつどい」では、昨年亡くなられた元名誉館長の早乙女勝元氏へのインタビューの様子が上映されました。
早乙女氏の功績は先の記事にも書きましたが、彼の最後のインタビューでお話を引き出してくださっていたのは、アメリカ人で日本在住の詩人の方でした。
また、いま劇場公開中のドキュメンタリー映画『ペーパーシティ 東京大空襲の記憶』の監督はオーストラリア人です。
▼『ペーパーシティ 東京大空襲の記憶』予告編
日本の外からやって来た彼らには、日本人が戦争の被災の記憶を忘れてしまうのではないか、という危機意識が共通しています。そして行動しています。
彼らは母国では学ばなかったため、日本に来て初めて事実を知ったというのですが、日本の子供たちは教科書では学んでいても、その真実は知らないのかもしれません。そう気付かされます。
まさに今隣の大陸では戦争が起きていて、無差別攻撃が行われている状況がどんなに恐ろしいか、過去の日本の負の経験と重ね合わせることができていないように思います。自戒も込めて。
大空襲を体験した語り部たちは年を追うごとに少なくなり、民営の戦災資料センターは寄付を募ってなんとか存続しています。
東京都平和の日とは?
「東京都平和の日」は都の条例で定められているものでした。東京都の広報では見つけられず、東京都生活文化スポーツ局に、関連事業のページをやっと発見しました。
▼東京都平和の日条例(平成2年7月20日 東京都条例第90号)
第二条の記念行事は、とても地味に行われていて、動画で配信されていました。
しかし、東京都のメインページからの誘導がないので、これを見つけるのは至難……。ここでも被災者の貴重なお話があったのに、まともに広報されておらず、届けられる人がほとんどいないことは残念です。
戦災資料センターの取り組み
一方「東京大空襲を語り継ぐつどい」では、戦災資料センターの館長から、センターの現状や取り組みの話もありました。
来場者数はコロナで激減し、徐々に回復してはいるものの昨年度はコロナ前の半分ほど。ウクライナ戦争は少なからず、来場者数にも影響していて、最近はコロナ前を同月比で上回る月もあったのだそう。
戦争と被災がなにをもたらすのか、関心を向ける人が増えていることが分かります。
昨日は犠牲者の名前を読み上げる追悼集会も企画されていました。お名前と年齢とともにお一人お一人の命を尊ぶための取り組みです。
校外学習でセンターを訪れた学校は、昨年度実績でわずか59校。
ただ待つだけでは増えないので、教職員方への周知や学べる機会の提供のほか、今後は遠方や物理的に来られない場合でも、オンラインでの学びを提供するなど、さまざまな働きかけを行なっているとのことでした。
せめて東京都は、デフォルト教育にして欲しいものです。
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戦争という人災で失われた命に思いを馳せながら、東京都の条例にもとづくこの日の位置付けに疑問を抱いてしまったのは、地元にセンターがあるからで、とても考えさせられた日でした。
東京大空襲・戦災資料センターでは、運営・維持管理のための寄付を募っています。
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