アート思考は日本的身体と相性良し? 〜日経COMEMOイベントより
4月23日、日経COMEMO主催のイベントに参加しました。「アート思考✕ビジネス」シリーズの第2回、お題は「日本流イノベーションの可能性-アート思考と身体」です。カバー写真は当日のグラレコ(by山野元樹さん)、尊敬します。
シリーズ第1弾(↓)は不参加でしたが、熱いイベントだった様子が伝わっていました。
主催が日本経済新聞社で「ビジネス✕アート」と謳っているから、ビジネスに距離をおく自分(失業中という意味で)がこの場にいていいものか、すぐ実践につなげられないな、と少々腰が引けていたことも否めません。ただ、第2回に関してそれは杞憂でした。
公式には、日経MJで記事化されるそうだし、すでに参加レポートがnoteにも上がっている( #アート思考と身体 )ので、私は自分なりに刺さった学びポイントのメモを抽出。
日本流イノベーションの可能性
日本的身体を語る上でなんとも適任だったゲスト、能楽師の安田登さん(@eutonie)、演劇家の藤原佳奈さん(@mizhen_f)。舞台上での身体をつかった表現活動をプラットフォームとしている、という共通点があり、プロフィールだけでも常に変革に挑むお姿が伺えます。お二人の才能と多彩さに驚かされながら、そのお相手をするモデレーターの若宮和男さん がまず「アート思考」について判りやすく紹介してくださいました。
ビジネスにおける思考の変遷
2000年頃からの
「ロジカル思考」→「デザイン思考」→「アート思考」という流れは、
「顕在課題」 →「潜在課題」 →「葛藤」
「論理・概念」 →「直感・五感」 →「衝動」
「理解」 →「共感」 →「情動」
「説明文」 →「キャッチコピー」→「詩」
と抽象化して捉えられるのですね、とても分かりやすかったです。
右に行くほど、予測可能性が不確実性に替わって高まるイメージなのですが、VUCA(ブーカ/不安定さ、不確実、複雑、曖昧)の時代には、「分かる」から「分からない」へという傾向があるそうです。
ロジカル思考に苦手意識があった私にとって、なんだか救いのある状況です。もちろんビジネスにとって、ロジカル寄りも大事です。ただ個人的な現状から、アート思考寄りのフェーズにいることを実感したので、とても肯定的に受け取れました。明確な課題ありきではなく、葛藤や衝動によって今があり、分かりやすい解や目的に向かってはいないからです。
「初心忘るべからず」の意味
「能」って難しそうで近寄り難い、大人になったらいつか、と言い訳していてまだ遠い存在です(私にとって)。でも、安田登さんからの問い「なぜ能が650年も続いているか」から、導かれた答えが秀逸でした。答えは「面白くないことを選んだから」。とはいえ、安田さんの身体をつかった実演と説明が明快で面白い! ってところがポイントではありますが、その心をふたつのキーワードでご説明くださいました。「伝統」と「初心」です。
観阿弥、世阿弥が築いた能のシンギュラリティ(特異性、独自性)は、誰でも継いでいけるシステムを確立したところにあり、これが「伝統」。能における「伝統」が決して堅い型だけではなく、意外にもフレキシブルでマニュアル化されていない部分が多くあること、知りませんでした。深すぎて触りだけでしたが、それこそが身体性に依るところのようです。
もうひとつは能を大成した世阿弥が残した「初心忘るべからず」の「初心」。この本来の意味は、漢字の「初」の成り立ちから、反物に刀を入れること、つまり「初心」は、次の段階に進む時にかつての自分を切ることなのだそうです。
能においても歴史上4回、初心と言える変革があったのだと言います。
私たちで言えば、小学校から中学校へ上がる時がドラスティックな初心、っていう例えもわかりやすく。ときに環境の変化で半強制的に初心にかえる時、でもその時の心は後になって初めて貴重と感じるのは、皆んな覚えがあるようです。
「初心忘るべからず」とは、そんな人生における幾度かの「初心」を恐れず、そして切った物も心に留めおくべし、と受け止めました。個人的に「守・破・離」に通じる考えだな、とも感じました。先が見えない段階で一旦切るのだから、年を重ねての初心はより怖さが伴うとも。
個人的にもまさにそうで。不確実性の時代には、未来ありきではなく常に現在形で生きればこそ、初心に帰ることができるのだ、というメッセージは、自己肯定をもできるものでした。
日本語話者の身体性・思考法
藤原佳奈さんは演劇において、日本語話者であることが、空間の捉え方にも大きく影響していると感じているそうです。ざっくり言うと西洋では神の目線、俯瞰の視点で見せるけれど、日本では人と人との間の空間に意味を見出させるのだそう。見えないもの、可視化できないものを信じることができるといいます。
その違いは、表現する言語が脳の思考プロセスに影響しているのでは、という科学的アプローチがひとつ。英語はストレートで、日本語はあいまいさを得意とする忖度言語とよく言いますから、確かに違いが出てきそうです。
そこで安田さんから出たのはプログラム言語の話。「if 〜 then」で書くプログラムは、先が見えている想定内のことしか起きない言語であり思考法ということ。検索エンジンは便利だけれど、自分が探したい、すでにあるものしか探せないと。対して日本語は現在思考だから、どんどん変化していけるのだということ。地図が絵巻物だったり、ゲームがRPGなのもその流れ、とまた例えがうまいのです。日本語話者的思考法にヒントありです。
藤原さん、言葉に思い・意識が乗った時、表面的に見えている姿は変わらなくても、身体の中では確実に変化が起こっていて、その思いは観客に伝わり、受けた観客の情動も、日々体感しているそうです。
例えば、身体を動かさなくても、ある状況を頭の中で想像した時に、自分の身体の中でどんな変化が起きるか、実験をしてくださいました。すると確かに身体の中でなにかが動くのを体感し、同じ言葉をイメージしても参加者の思いの度合いに応じて体内の変化も異なることを、想像できるものでした。意識による身体性の変化って、こうしてみるととても新鮮でした。演劇も面白いぞ。
温故而知新
安田さんからは「温故知新」のお話も。意味は「故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」と知られた故事成語です。孔子の「論語」の教えで、正確には“温故”と“知新”の間に“而”という字が入るそう。紐解いてみると、「温」=「煮込む」イメージ、「故」=古い知識や見識にあたってそれをとことん集めたら、とにかく煮込む。「新」=「斧で木を切ったような切断面」が、「知」=突如見える、という……。
ビジネスの場面でいえば、過去の事例や情報を集めてものにした上でグツグツ煮込む、いつになるかわからないけど、それが突如新たな企画として現れる! ぬか床の例えでいうと、それは時々かき回してやることが大事、じゃないと腐っちゃう! と、またイメージしやすくなりました。
とはいえ奥深い。いただいたレジュメにはまだまだ気になる先もあり。この短時間では咀嚼しきれませんでした……ので、安田登さんの新刊「すごい論語」(5/25発売)は要チェックです。
イノベーションは起こるのか
「日本は令和に替わったらどんな変化があるか?」とう質問がありました。対して、「年号による世代交替程度では変わらない、変わったと言えるのは終戦のような出来事。」というお答え。日本は特に、外的要因に依らないと変わらない国なのです。
ただ今は、GAFAであり隣国でありAIの進化こそが、今そこにある外的要因である、といえるのではないでしょうか。レベル感は違えど、すでに身近なところで革新の芽は見えはじめていますよね。
安田さんもAIによる脳の外在化が可能になって、その分空いた脳でこれから何が起こるか、ワクワクすると言います。
アート思考は「ゼロ→イチ」だから難しい。既存の価値観を掛け合わせてもイノベーションとまでは言えないのですね。ビジネスで課せられがちな時間軸や、儲ける軸などを外して、「分からない」ことにどれだけ向き合うか。「なぜか分からないけどなにか気になる!」といった身体性に意識を向けることから。伝統芸能、舞台芸術の場で実践するアート思考の先人から教えていただきました。
さいごに
まだまだ書ききれないほど濃密なイベントを仕掛ける #COMEMO は、経済新聞発の新たな潮流ですね。イベントではそれこそ身体で感じる、生の空間だからこその、深い気づきと学びがありました。印刷された文字、ネット上のテキストとのバランスを保つために、地道だけどこうやって熱量を持って届けること、続けて欲しいと思います。
主婦の立場で参加してどんな学びがあったか。本テーマについて言えば、ビジネスにおいても即実践できる類のものではないし、個人的にはなるけどやはり人生楽しむために知見を深めておくこと、それをこねくり回しているうちに社会に還元できるよう、熟成の種を仕込まさせてもらいます。
一方で今、いや常に最大の関心事ともいえる、子育てには即通じるヒントばかりでした。不確実性の時代をどう生きるか、まだ小学生の子の舵を取るのは親の責任です。そういう意味では、子育て世代こそ子どもと共にアート思考を考えていくべきだと思うし、その前提や社会の動きを知ることが大切。COMEMOさんにはこのテーマ、切り口や接点を変えながら、何度でもアプローチして欲しい、と思いました。第3回も楽しみにしています!
(今後のCOMEMOイベントを要チェックです。)
以下、若宮さんから引用をご紹介いただいた、参考記事メモ。