猫をさがしていた(朝が来るまで)
夜勤の施設警備員をしていた頃のおれは、毎日が無味乾燥で平坦だった。
退屈を気にしない人間だったからそれ自体は苦にならなかったものの、あまりにも無風地帯のような世界であったがゆえに、ちょっとしたつむじ風程度の事件もハリケーンのごとく現場全体をかき回した。
現場全体といっても、配置されていたのはおれひとりだったのだけれど。
◆
都心にある高級マンションの管理室。午前1時過ぎ、不意に鳴った電話の受話器を慌てて取る。
「あの、さっき駐車場に車停めたら、猫が入り込んでたんですけど」
受話器越しの声が、そう言った。たぶん、30代半ばくらいの男。
それがどうした、とおれは思ったが、たぶんその男は、さっさと猫を捕まえて追い出してほしいのだろう。
某売れっ子歌舞伎俳優や某世界的ピアニストや某国民的アイドルグループの(元)一員が住むそのマンションでは、野良猫に居座らせる敷地は1平方メートルたりともない。
そして、捕まえろとは決して口に出さない。あくまでもこちらに「捕まえます」と言わせようとする。
出世して金持ちになる人間は、命令せずに命令するのが得意だ。
「なるほど、かしこまりました。直ちに捕まえて逃がします」
おれはそう答えた。
「ほんとに? 悪いね」
ほんと。あんたほどの悪人はなかなかいないよ。
◆
そのマンションの駐車場は地下にある。見渡す限り、いかにも金持ちが乗りそうな記号的な高級車が並んでいる。
とりあえず猫の姿だけでも確認しておこうと、LED懐中電灯を片手に、手あたり次第車の下をのぞき込んでみる。
途方もないし徒労に終わることが容易に想像できる、車の数と敷地の広さだった。
とっとと切り上げて管理室に戻りたいところだったが、依頼した男が様子を見に来る可能性を考えて、しばらくは探す(フリをする)ことにした。
野良猫なんて、見つけたところで簡単に捕まえられるものではないし、とうにどこかに去っているかもしれない。
時間が経ち、おれは次第に何を探しているのか分からなくなっていた。形而上的な何かを探していた。
佐野元春の『君をさがしている (朝が来るまで)』が頭の中で流れ始めたのは、そんなときだった。
◆
歌詞の中で描かれる情景と、おれが実際に身を置いていた状況はあまりにも程遠い。
でもおれは、いるかどうかわからない猫を探し続けるうちに、〈はるか彼方〉から聞こえる〈声〉に呼ばれてこの無機質な駐車場を練り歩いているような気分になっていた。
ひょっとしたら、駐車場のどこかで見たこともない扉を見つけて、そこから猫の世界に迷い込んでしまうかもしれない。
深夜にありがちな妄想なのは認める。それでも、ひとりの若者の、慎ましくてささやかな冒険だった。
サーチライトではなく、薄暗い蛍光灯の光の中にあるおれの両手。片手には懐中電灯、もう片方の手には何があったのだろう?
夢ではなかった。希望でもなかった。かといって絶望でもなかった。ただひたすらに空白だけがあり、その空白を埋めるためにおれは何者かになりたかった。
でも、当時、現実的に揺るがなく警備員だったおれは、空いた片手に猫を抱きとめる必要があった。
朝が来るまでに。
◆
数日後、退勤間際の朝。エントランスの近くで、あの電話の男とばったり出くわした。高そうなスーツを着ていた。
「あっ、こないだはどうも。猫、見つかった?」
「ええ。ちょっと具合が悪かったみたいで、どなたかのポルシェの下でうずくまってましたね。すぐに逃がしましたよ」
「病気だったのかよ。触りたくねえなぁ」
男はそう言い残して、開きかけの自動ドアに肩をぶつけたのをお構いなしに、早足でエントランスを出ていった。
本当は、猫は見つからなかった。
猫は、猫の行きたいところへ行けばいい。形而下の現実的などこかでも、形而上の抽象的などこかでもいい。いたいところにいればいい。人間の理屈など無視してしまえ。
帰り支度を済ませたおれは、ふと、管理室内の防犯カメラモニターに目をやった。
地下駐車場の一部を映し出した画面の隅で、小さな影が高級車の間を素早く横切った。
【ここでも佐野元春について書いています】
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