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『今、何処TOUR 2023』感想(ネタバレなし)

『今、何処ツアー』静岡公演に行ってきた!

いやー最高だった!魂ぶち上りました!!!

~『今、何処ツアー』感想おわり~

……いや、ちょっと待ってくれ。待ってください。

何も書く気がないとかじゃなくて、いろいろな思いを集約した結果「最高」以外にふさわしい言葉が浮かばなかっただけなんだ。モノを書く人間としてそんな妥協を自分に許すのか、みたいなことを思う人もいるかもしれないけれど、やっぱり「最高」のひとことに尽きる。

とくに静岡公演は、長年にわたって佐野元春を追いかけてきた人ほど、胸の奥から込み上げてくるものがあったと思う。でも、そこについては、あえて多く語らないことにした。

なぜなら、数十年来の熱心なリスナーが抱いた言葉にできない情念が、佐野元春を知って10年程度の28歳が書いた、小手先の表現に引っ張られてしまうことは非常にもったいないからだ。

書き手として「そうそう、まさにその通り!」と思っていただけることは嬉しい。だが自分は、会社員として商業的な文章を書いている人間でもある。

そんな人間が書く文章には「どうだ上手い言い回しだろ。この巧みさが文章で給料をもらって生きていける所以だ」と言わんばかりの自己顕示や自己陶酔が少なからず混入する。書き手のドヤ顔が透けて見える文章ができあがる。

言葉にできない思いが、そんな文章に上書きされてほしくない。言葉にできない思いは、言葉にしなくてもよい。

なにをどう感じたかは、あなたの魂が一番よく知っているはずだ。

そんなわけで今回は、自分が『今、何処ツアー』に足を運ぶに至った個人的な経緯などについて書いていこうと思う。

佐野元春について知ったふうな口を叩いているクセに一度もライブに行ったことがなかった「河合須弥」とかいう馬の骨

見出しの通り、自分は佐野元春のライブに行ったことがなかった。佐野元春どころが、ライブ・コンサートという催し自体に足を運んだ経験がほとんどなかった。

決して皆無ではない。が、前向きな気持ちで自発的に参戦しに行った経験は、たぶん皆無だと思う。

それはなぜか。理由はいくつかある。

1.人込みが大の苦手

大勢の人間が混みごみと密集している状態そのものが好き、という人はあまりいないと思う。どちらかと言えば苦手だけど、イベントの楽しさで十分にお釣りがくるから気にならない、くらいの温度感の人が多数派なのではないだろうか。

自分の場合、群衆の中に入ると体調が悪くなる。そこに大きな音や光が加わるともうダメだ。

例えば、自分は野球観戦が好きで高校生の頃からベイスターズを贔屓しているが、現地観戦に行ったのは2回のみである。そしてその2回の両方で、頭痛と吐き気をもよおした。

さらに直近の例を挙げると、去年のクリスマス。当時交際していた女性と銀座に出かけて美術展を見に行ったりしたが、途中で具合を悪くしてしまい、夕方ごろに急遽場所を自宅に移した。

では『今、何処ツアー』ではどうだったのか。

実を言うとわからなかった。なぜというに、会場に着いた瞬間から体調の不安(とくに頭痛)が押し寄せてきたので、医院から処方された強めの鎮痛剤を予防的に飲んだからだ。良くない飲み方なのは知っていた。

ただ、結果的には体調不良を起こすことなく最後まで楽しめた。

2.集団の熱狂に対する恐怖感や嫌悪感

言い方に若干の悪意があったかもしれない。平たく言うと「みんなと一緒に盛り上がれない」ということである。

これについては性格や感性の問題だろう。

野球観戦の例をもう一度挙げるならば、球場に向かう人々の列に対し「うわこいつら揃いも揃って野球見に行くのかよ」と軽蔑のまなざしを向けていた。自分も野球を見に行くクセに。

『今、何処ツアー』についても、実のところ同じ会場の客たちに一定の心理的な距離感を持っていた。「みんなとひとつになる」という感覚は持たなかった。これは事実であるし恥ずべきことでもないと考えているので、隠さずに書く。

ではライブを楽しめなかったのかと言えば、決してそんなことはない。ほかの客たちに一定の心理的距離感を持っていたということは、それはすなわち「みんなではなく自分が楽しめるかどうかが重要」というマインドで佐野元春とコヨーテバンドのパフォーマンスに相対できたということである。

むしろ、周りを気にせず素直に楽しめた、と感じている。

で、結局のところお前はどうしてライブに行ったんだ?

答えを端的に言うと「行かなければならない」と感じたからだ。

この書き方では、まるで誰かに強要されてイヤイヤ足を運んだように見えるかもしれないが、そうではない。

まず、そもそものキッカケから説明すると、発端は自分が佐野元春について初めて書いたこの記事から始まる。

ここで取り上げた『バイ・ザ・シー』という曲は当時、一時的に無職だった自分にとって特別な意味を持った。特別な解釈を与えてくれた、と言ったほうが正確かもしれない。

これが、読んでくれた方が予想に反して多く、Twitterでも感想のコメントをいただいた(インフルエンサー級の書き手と比べてミジンコ程度なのは承知である)。

そのときの佐野元春に対する熱量は「いろいろ聴いている音楽のひとつ」程度だったが、改めてアルバムを聴き通してみたり歌詞を読んだりすると、まあ面白いのなんの。「書くことを通して佐野元春をより深く知りたい」……そんな思いで、ときおり感想コメントを頂戴しながら何本か書き続けてきたわけである。

さてそこで、あるひとつの自己問答が浮かぶ。

「こんなにエラそうに佐野元春について語ってるけどさ、お前ライブに一回も行ったことないよな?」

……うっ、確かにそうだ。

まず、音楽とはどういう表現かと根源的に考えてみると、そもそも「演奏して聴かせるもの」として始まったはずだ。

そうなると、音源のみを聴いているだけの自分は「佐野元春の一面」だけにしか触れていないことになる。それでドヤ顔で解釈やら何やらを語ってみせるのは、さすがにリスペクトに欠けている。

つまりこの時点で、「佐野元春について実はほとんど知っていない」という問題と「リスペクトがなさすぎる」という問題が顕在化したわけである。

また、佐野元春はいつまでもこの世にはいない。

この世に遺した音楽を通じて佐野元春の魂が生き続ける、という考え方もあるとは思う。だが少なくとも、肉体が現世にとどまっている時間はもう決して長いわけではない。

より直截な言い方をするならば、残り時間が少ないのである。

ならばもう、行くしかない。『今、何処』がコヨーテバンド以降のアルバムで1、2を争うくらいに気に入っていることも、モチベーションを後押しした。

先述した、自分がライブにほぼ行かなかった理由に加え、会場が静岡だった点など、正直なところハードルは高かった。かなりエネルギーを使った。

だが後悔はしていない。消耗した分よりも遥かに大きなエネルギーを受け取ったと感じている。

もちろん、この1回のみで「よし佐野元春について十分理解したぞ!」と自己完結はしないつもりだ。

ひとつのツアーを何公演も回るようなことはできないが、これからもライブに行きたいと考えているし、佐野元春の詞(詩)について感じたことも書き続けていこうと思う。

とにかく今回のライブは最高でした!それだけ!以上!

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