心の構造

わたしの心は、柔らかい膜と、その中にある硬くて脆いちいさなものとの二重構造になっている。

柔らかい膜は、外界のものや他者にふれるたびにふにゃふにゃとかたちを変える。相手にこう見られているのだろうな、と思うと半ば無意識的にその通りに振る舞うようになる。ふにゃふにゃと。

その中にあるなにかは、柔らかい膜に守られているから、よほどの衝撃がない限り粉々になったりはしない。膜で考え、膜が動いているときは、眠っている。

けれど、眠ってばかりいても却って疲れてしまうのと同じように、内側にあるちいさな心でしずかに独り言を呟くことも、必要で、大切だ。



人見知り。内弁慶。おとなしい。静か。INFP。陰キャ。友だちが少ない。
そう形容されることが多いひとは、他者と対話する代わりに、自分の内面と対話することが多いのだと思う。だからこそ、外界からの新規性ある意見を取り入れる機会がなく、間違った考えや危ない思想を膨らませ、いわゆる"拗らせた"状態になってしまうという傾向も大きいのかもかもしれない。
しかしわたしたちは、わたしは、それでしか生きていかれないのだ。
心の内側を他者に開示することは、できない。この心は小突かれたらすぐに壊れてしまうし、外界の圧には耐えられない。満員電車ではぷちっと潰れてすぐに新宿駅の線路の砂利の欠片に混ざってしまうだろう。

つまり、怖いのだ。他者が。他者に受け容れられないことが。
受け容れられるだけがコミュニケーションではないことは、重々承知している。だが、大切で繊細な自分だけのところを笑われるのはこわい。笑われこそせずとも、無視されたり、「そっか笑」みたいに流されたら?そのときこそ、心はかたちを保てなくなってしまうだろう。

心の内側を晒せるひとは、つよいひとだ。粉々になることを恐れずに、裸一貫で他者と向き合えるひと。
そうなれたらどんなにいいかと思う。臆病なのに寂しくて、ひとりが好きなのにときどき内側まで見透かしてほしくなる。矛盾ばかりだ。どうしようもない。けれど、それでもいつか誰かと、恐れながらでも、ちいさくて脆い心で触れ合えるようになれますように。そう祈って、今日も目を瞑る。

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