高齢者との接し方
高齢者になってくると、「人の話を聞かない」「同じ事を何度も言う」「文句しか言わない」等の症状が日常化して、結果、いつも「喧嘩」になってしまったり、険悪な雰囲気で終わってしまう場面がありませんか?
そして、家族や身近な人は、いつもコミュニケーションの取り方に困惑してしまい、ストレスを溜め込む日々を味わい、親から離れた生活を望んでいたり、親に携わらない兄弟や、親戚を恨んでしまったりと、負のサイクルから抜け出せなくなっている人も、少なくはないと思います。
実際に私も、高齢者の母と生活をしていますが、カタカムナを活用した事により、そのストレスが軽減しましたので、今回は、私の実体験を例にして、お話しさせて頂きます。
親と暮らす決断
「Yoshinao's story」にも掲載しましたが、都内での私なりの「優雅なくらし」を捨てて、親の面倒を決断し田舎へ移住して、実家近くで居住を始めました。
両親共に元気に過ごしていましたので、週に1回程度の訪問をして、様子を見ていましたが、母からは、いつも父への「愚痴」や、過去の出来事への「文句」を聞かされ、言いなだめると、最終的には私への「怒り」と変わってしまう状況となっていました。
この時、「決断」の2文字を改めて実感して、自分の気持ちを抑えながら、実家への「定期訪問」を継続して来ました。
そして、1年半後に父が他界して、実家での母との2人暮らしを「決断」しました。
ひとつ屋根の下の空間で暮らすと、更に「思い込み」「文句」「否定」を味わう事となり、穏やかに、説明や勘違いを正そうとすると、私への「怒り」と変わってしまいます。
これが、365日24時間続きますので、「決断」の2文字が、更に大きく私に降り注いで来ました。
しかしながら、高齢者と日常接していない方には、この「重要性」の理解は難しいかも知れませんが、接している方には、「当たり前の日常」で切実な問題であり、これを抱えて自分の人生を歩んで行く事は、想像を超えるストレスに覆われた毎日だと感じます。
特に、子育てや旦那の面倒も見ながら、高齢者と接している方を思うと、言葉になりません…
この、超高齢者社会になっているこの日本では、このような状況を抱えている人を、救う「ミチ」はあるのでしょうか?
ミ=実体と光・生命の実体・潜象と実質・粒子
チ=凝縮・持続的・小さな
「生命の実体が、凝縮して持続する事」
認知症による被害妄想
介護職や高齢者に携わっている方には、日常的で当たり前の事ですが、一般的にイメージされている「認知症」ではなく、高齢者の性格や人格だと思ってしまう「被害妄想」と言う症状があります。
高齢者と接している人の多くは、この症状でストレスを抱えていると思います。
この症状は、大きく3つに分類されます。
・物盗まれ妄想
・暴言、暴力の妄想
・嫉妬や対人関係の妄想
高齢者との会話で、「〇〇が盗まれた」「〇〇さんから〇〇と言われた」「〇〇さんは昔〇〇だった」等、こんな会話を聞かされた事はありませんか?
よくある一般的な会話ですので、注意して聞いていない人は真に受けてしまいます。
しかし身内の人は、日常会話の全てが、最終的に「被害妄想」の話へ発展するので、「うんざり」「関わりたくない」と感じるようになってしまいます。
また、第三者にこのような会話をされると、「ご近所への言い訳」や「身内の恥」等と感じ、「悲しみ」「怒り」「困惑」が、同時に襲い掛かって来てしまいます。
また高齢者側も、身内から注意されたり、説得されてしまうので、話を聞いてくれる第三者へ、ますます妄想話をしてしまいます。
まさに、「負のサイクル」で毎日が動いています。
現実には起きていない出来事に、振り回される日々が続き、その妄想をきっかけに、物を買い直したり、家の工事をしたり、人を監視したり、監視されない防衛等にお金を使い始め、周囲を警戒する行動が始まります。
これが毎日、24時間続きます。
対応方法
西洋医学や介護施設、地域包括センターやネット検索で教わる、共通する対応方法は、「否定も肯定もしないで、話を聞いてあげるコミュニケーション」が必須だそうです。
高齢者にとっては、自分が被害者であるので、それを受け入れない人は、加害者側にいると判断されてしまうからです。
また、その対応は1人で行わず、身近な人や介護関係を巻き込んでする事を勧められています。
確かに理解出来ますし、試験の解答なら100点だと思います。
でも当事者の人は、頭の中では理解出来るけど、実際に遭遇した時には、どんな顔つきで、どんな言葉で、どんな終わり方をしたらいいの?って思いませんか?
自分の親に対して、そんな態度が出来ますか?
そんな対応をしている自分が悲しくなって来ます。
介護する側へのフォローは、誰がしてくれるのでしょうか?
ひとりひとりの「ヤタノカガミ」
たとえ親子であっても、人はそれぞれの「ヤタノカガミ」の空間で活動をしながら、それぞれの「今」を創造しています。
自分が見る「今」と、他人が見る「今」は違うと言う事です。
そして、この自分の「ヤタノカガミ」を他人へ押し付けたり、否定をしてしまうと、衝突やトラブルの原因となってしまいます。
ですから、それぞれの「ヤタノカガミ」を「共有」しながら、社会の「今」は創造されています。
そしてその社会の中で、「共感」や「共鳴」「反発」をしながら、私達は「四相」を広げて生きていますが、自分の「今」を否定されたり、説得されたり、邪気にされると、気分は悪くなるものです。
たとえ、お世話になっている人に対してでも、信用や信頼を持てず、自分への「虚しさ」と、相手への「怒り」等が起きてしまうものです。
私の「視点」では、母の「ヤタノカガミ」には「妄想」の世界があります。
しかし、母の「ヤタノカガミ」には、それを「現実」として受け止めて、「今」が創造されています。
「物が盗まれた」と言う「過去」を創造し、「今」が作られていると言う事です。
過去を変える事は、生命体の物理ではあり得ない事ですが、時として、「病(ヤマイ)」となって現われて来ます。
これは人類史に於いても同様で、何者かによって作り変えられた歴史は、のちに「大惨事」を招く結果になってしまいます。
このように、人は個々の「ヤタノカガミ」で「今」が創造され、それを他者が作り変える事は出来ません。
出来る事は、他者の「ヤタノカガミ」を共有して、お互いに「共感」するところまでです。
私からの「カムヒビキ」
神道に於ける「大祓詞」の節の一つに、
「罪という罪は無いけれど、あるとすれば母と子の罪である」
っと、解釈出来る節があります。
私は、
「究極の愛情が、お互いに対してあるが故に、起きてしまう罪」だと、感じています。
母の言動は、母の「現実」ですので、
説得して正す必要も無ければ、自分の意見を話す必要もありません。
だた、話を聞いてあげるだけでいいのです。
もしも意見を聞かれた場合には、
「自分にはその体験がないから分からないけれど、同じ境遇に立たされた、同じように感じるかも知れない…何か気になれば、また伝えてね?」
これだけでいいのです。
本人は解決を望むよりも、自分の現実を認めて貰いたいのです。
そして、私には共感する事が出来ないこの「現実」を、「無」(ム)の世界へ送り、自分の「今」には残さない「カタカムナ」をするだけで良いのです。
私は、これを毎回繰り返しています。
鬼(オニ)の心
オ二=奥深くに広がる存在
とは言え、身内の人間に対して無関心な心で対応する事は、言葉では言い表わせない程の、「悲しみ」「辛さ」「怒り」が湧いて来るものです。
これは私のケースですが、少しだけヤンチャだった少年期に、母から告げられた言葉があります。
「例えあなたが殺人を犯しても、私は最後まで否定する…親だから…」
この言葉は、私にとって究極の「愛」のバイブルになっています。
(本人は覚えていませんが…)
周囲の目がどう感であろうが、法律で定まっていようが、そんな事は理解してる上での行動です。
この「愛」は、共感出来ない人にとっては、どうでも良い話しですが、共感出来る人にとっては、肯定も否定も出来ない「愛」を感じるのではないでしょうか?
母の「被害妄想」が、他人を深く傷つける行動であれば、私はどんな結果になろうとも、全力で阻止する「覚悟」は出来ています。
私の奥深くには、この「覚悟」が存在しています。
私は、私の中の「鬼(オニ)」が存在する限り、この認知症のひとつである「被害妄想」からは逃げず、関わらない関わりを継続しています。
介護者や関わりを持っている方へ
人の幸せとは何でしょうか?
・長生きをする事ですか?
・お金を蓄える(使う・残す)事ですか?
・人と協調をする事ですか?
私はそうは思いません。
これらは全て「人のエゴ」であり、社会経済や統治の「視点」から生まれた「常識」だと私は感じています。
人の幸せとは、本人の「四相」が満足をしているか否かではないでしょうか?
正解やマニュアルは無く、人それぞれに「幸せのカタチ」は違うもので、これは本人にしか分からない事だと思います。
「してあげる」ではなく、「聞いてあげる」の「視点」に立ち、本人と社会の「協調」を「通訳する立場」だと、私はイメージして行動しています。
通訳者や翻訳者は、自分の意見や感情を入れずに、「聞く」「伝える」ものです。
この痴呆症のひとつ「被害妄想」は、人格や性格では無く「病気」です。
そして、多くの高齢者に起こる症状で、解決はしない病です。
なぜなら、生命体の物理では、「過去を創造する」サイクルはありません。
自分の「ヤタノカガミ」を崩壊させずに、自分の「四相」でカタカムナして、共に対応をして行きましょう。