こうふく論
どうやら疲れているらしい。
同じ職場の人間も、上司たちも、私の業務について何とも思っていないようなのだが、これは果たして一人の新人がこなせる量と質の仕事なのだろうか。そんなこと考える余地もなく、捌ききれない仕事を前にして思うのはこうだ。
「私は普通のこともできやしない」
若いが、若くはない。
不登校から社会に馴染めずにきた。“普通のことができない”ずっとそうだった。普通に学校へ通えなかったし、普通に高校を卒業できなかった。普通に恋愛をできなかったし、普通に結婚も出産もできていない。普通に新卒で就職できなかったし、普通に働いてもこれなかった。
小学生の頃から、普通に家はゴミ屋敷だったし、普通に電気やガスが止まって、普通に片親は働き詰めで家にいなくて、片親は仕事が続かずずっと家で寝ていて、普通に中学生の頃から朝起きたら財布の中身が急に減っていたりして、普通に罵り合い殴り泣き喚く声の中で暮らして、普通に中二病をこじらせまくって、でも、それって実はあんまり普通じゃないみたい。そんなこと、最近はケロッと思える。見える。かと言ってとんでもなく特殊ってわけでもない。残念な現実だが、それも知っている。
苦しさは量れやしない。私は苦しかった。その事実だけは残っている。大したことなくても、その普通が苦しかった。そして全然、普通じゃなかった。普通じゃないことにずっと負い目を感じていた。
なにって別に、いいか。ほんとうは、お金がないってだけで、犯罪を犯したわけでもなく懸命に生きていただけの人をだよ、あんな風に家に勝手に押し寄せてきてさ、すべてのものに紙を貼って、それまでのそこでの生活を全部剥ぎ取って路上に放り出していい道理なんてないんだよ。神にだって赦されちゃいない。赦されなくても神ならやりかねないけど。いるのなら。
ポストにぐちゃぐちゃに詰まった赤や黄色の封筒。インターホンの音。留守番電話。今もこわい。今も、予定なくインターホンが鳴るとこわい。ポストも嫌いだし、前触れもなく電話されるのも苦手だ。
そんな現実、なかったみたいに、今私は会社員をしている。普通な背景を当然に期待されている。普通にできることを期待されている。でも私の中に普通なことなんて何にもないんだよ。悲しいほど凡庸なのに普通じゃない。
あんな風に人権を毟り取られ、投げ出されるような仕打ちを受けたんだから、もうあの頃からずっと、どこか罪人のような気持ちで生きている。
なんて、ただ私の出来が悪いことの言い訳。
若いが、若くはない。
もう下の人に色々教えたり、自分が得てきたものを手渡していく。そういうステージに立つべきなのに、まだモタモタとして、やったことない仕事に目を回して、自分の仕事もまともにこなせない。
大学へ入って、働き始めた会社では思いがけない部署移動で大学の学びと関連する業務に就けた。正直、この学歴、経歴、年齢で、この業務に就くなんて、よほど就職活動で苦労しなければ…苦労してももしかしたら、できないかもしれない。そんな仕事を今している。だから普通じゃないのに、必死で普通を装っている。普通じゃないのに。ハリボテの私で、今にもバラバラに分解されそうなくらい、不格好に、走っている。
こういうのを頭が悪いと言うのだろう。
休憩なしで働いて、作る気がなかったのでファミレスに寄って辛いカレーを食べた。ドリンクバーでおいしいココアをガブガブ飲みながらスマホで仕事のメールを返していたら、私が入社した時の人事担当者が隣の隣の席に家族で座っていて、ひっそりと会計して帰路に着いた。
背中が痛い。目の縁がもにゃもにゃと痙攣の手前のような気配を漂わせている。背中が痛い。湯船に浸かりながら遠く九州の機能社会化家族に近況報告していたら血縁者から離婚したいという聞き慣れすぎたSOSLINE通知だけが見えて、開かないままそっと非表示にした。このSOSがどれほど幼かった私を傷付け壊してきたか、この人はわからないまま死ぬんだろうな。
疲れた。日付が変わり、普通を装うために齧りついていたパソコンを閉じた。タスク整理とメール返信をいくつか完了。明日やることもクリアにはなった。クリアになっただけで、完了できるかは別の話だ。
五条悟と同年代なんだからもっとできてもいいはず。って、それは流石に自分に厳しすぎるか。どちらかと言えば夏油タイプだ。病みやすい。でも夏油は10代の頃から子どもたちを養い育ててきたのだから、やっぱりすごい。足元にも及ばない。
家に帰る途中、ふとやさしい気配がして振り向くと月があまりに明るかった。
私はずっと、あんな人間の尊厳を剥ぎ取られるような目に遭わされ苦しみを背負わされた自分は、幸せになる資格がないと思っていたんだ。現実的にそういう過去を持ってしまった人間が普通に幸せに生きるのってアニメみたいにはいかなくて。難しいには違いない。だから私は普通や一般的とはズレた私なりのしあわせポイントを据えて暮らすようにしてきた。だけど一方で自罰感情はどんなに歩いても見上げるといつもそこにあった。月みたいに。
懸命に生きれば報われるなんて嘘だ。諦めなければきっと、なんて、そんな根性論信じたら認知が歪んでしまうよ。私は歪んだ。だから今こうして社畜の真似をして普通の皮を被ってどうにかしがみついたら報われるんじゃないかなんて馬鹿な妄想に操られているんじゃないか。どうしてくれる私を育てた社会。これからの人間たちには違う!と身を持って伝えなければならない。使い古された判を押すような美談はきらいだ。だって現実からは乖離してるんだもん。
最近アランの『幸福論』に興味を惹かれている。
“悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する”
意志の剣で、この自罰感情を、しあわせになれないという呪いを、切り裂くことができるのかな。そうだとしたら、今は強い意志で普通の皮を被るしかないか。壊れるならはやく完璧に壊れたい。もはや名誉の死しか、普通じゃない私のすべてを救うことなんてできないんだと思うよ。でも死が救いならば、どうあがいても人生最後はハッピーエンドだな。