健康な人間
「法則性や確かな答えを求めていくことに楽しさを感じる。文学や哲学といったものの楽しさ、何のためにそれがあるのかも俺にはわからない。君は病んでる。」
私が自分の関心や感覚を明かしてみると決まって「病んでる」と返って来る。ずいぶん昔からそうだ。
自分ではその指摘を信じようとしなかったが、本当はもっと前に適切な「治療」を受けるべきだったのかもしれない、と不意に胸の扉が揺れた5月12日の昼。
モーニンググローリーとまではいかないが、ある高さに見えない平屋根でもあり、その上を撫でているような雲がどんよりと上空を満たしていた。それなのに水平線と「雲平線」の間は妙に空気が澄んでいて、何日かぶりに離島の影がくっきりと見える。安堵と焦燥をいっぺんに感じる二層の空だった。海辺での暮らしは海のそれも去ることながら空の表情こそがその日の色を決める。内陸部育ちの私にはこれが未だに非日常的で面白くてならない。
昔受診した精神科で、薬による治療以外に出来ることはないと言われて行くのか嫌になってしまったことがあった。あれを以て、「やっぱり自分は病んでいないんだ。健全なのに適応できないだけなのだ(そんな人間が何で存在してるんだ)」と余計にしんどいところに身を置き続けることになった。
でも実際食べることができなくなることはなかったし、眠れない夜が続いてもそのうち反動のように寝続ける日がやってきて、寧ろ過眠に悩まされる方が多かった。私の心身に起こっていることは「症状」からは外れていた。ただ生きるのは辛かった。「健康」なのに。
現代は精神疾患が増えているという。
本当にそうなのかもしれないが、それは単に名前が付くようになったというだけの話では。と考えていたこともあった。昔から変わらずに存在はしていたが、名前をつけて治療して「健康」を取り戻させるべき存在として、あるいは「健康」でないと生きていけないから保護する対象として取り扱う。「生産的な人間」でいることこそを健康で人間的であるとして。
精神疾患の枠で非生産的な「病んでる」人間を囲って、生産的な人間への回復を促す。本人の幸福や自然体ではなく「健康なあるべき姿」への回復。目的地は決められているのだ。戻るべきところなんて本当は人それぞれなのに。
社会がそれを決めているから精神疾患は増え続ける。そういう意味では現代病。現代ならではの増え続ける病だ。社会が生産的でないことにどんどん不寛容になっていくから、減っていくわけもない。
人間らしさと生産性は直線で結ばれている。
まだまだこんなことが続いていくのだろうか。気が遠くなる。こんな世なら去りたい気持ちはよくわかる。
でも、私は死に憧れたりはしないな。
坂口安吾の言葉を命綱みたいに握りしめ、江戸川乱歩の言葉に顔を埋めて深く息を吸う。
禁欲的である。生産的である。
それらは現代において人間的であることの見えないスコアとしてしばしば用いられているように見える。多様性の時代などと言って虹や握手を交わすマークやほんわかした笑顔の人々が共生しているイラストが至るところに見られるけれど、どうだろうか。「日本人は宗教に寛容」という幻想に似た空気を感じる。自分の身体に合わせて仕立てたどこにも隙間のない鋼の壁で他者の姿も声も匂いも何もかもシャットアウトして、自分のそれすらも出さないでいることで装っているだけじゃないか。
メンタルヘルス。自己管理。自己責任。成長。増殖。
これからもそれは加速していくのか。もう止めにしないか。立ち止まって話がしたい。どんな表情でも構わないから顔が見たい。
鋼に身を包んだ人々が行き交い生産的な音で溢れ返った正常な社会では誰の耳も私の細い声を拾わない。
立ち尽くしていると昭和地区から来たという一人の男性が通りすがりに私の肩を叩いた。
「君は病んでるね」