恵梨香の幸せ(第35話)別れの秘話
康太が五年生になった時にキーコさんも高校卒業してる。どうも大学には進学せず、完全に康太の下宿で同棲状態だったらしい。たまに家に帰るぐらいかな。理恵先生の時代は五年の後期からポリクリって呼ばれる臨床実習が始まり、六年の前期まで続いたんだって。それでもって医学部の六年生はトンデモないものらしく。
「当時の後期は全部卒業試験だったようなもの」
この辺は学校によって変わるらしいけど、まず医学部には卒業論文みたいなものはなく、あるのは卒業試験で良さそう。この卒業試験の合格の目安は、ごく単純に言えば医師国家試験合格相当だって言うのよね。
「そりゃ、そうよ。国試に合格して医師になるのが目的の学部だからね」
卒業試験の範囲だけど、とにかく六年間学んだ全範囲だって。これも恵梨香は知らなかったのだけど、医者って内科とか、外科の免許になってる思ってたんだけど、全診療科の免許になるんそうて。だから全診療科の試験に合格しないと卒業できないし、国家試験も合格できないらしい。こりゃ、厳しいわ。
これは学校によってシステムは変わるそうだけど、理恵先生の時は、まず各科の個別試験が順番に行われたそうだけど、これだけで二十科目以上あったそう。そこから追試があって、十一月に全科総合みたいな国試形式の試験が二日間あり、これの追試もあったそう。最後に一月にもう一度全科総合の国試形式の試験があり、卒業判定だって。もちろん、これで終わりじゃなく、
「医学部卒業ってね、医師国試の受験資格を与えられるぐらいしか価値がないのよ」
これも言われて気が付いたようなものだけど、医学部卒業生で医者になれなかったら、就職先にも困るんだって。とにかく六年間医学だけを勉強しているようなものだし、就活なんて考えもしてないものね。それに医学部卒業生なんて、採用したい企業はないだろうし。
さらにだけど当時は四月に国家試験があって、五月に発表だったんだって。五月から就活したってロクなところが見つからないもの。だから六年生は国試のある四月までひたすら勉強してたって。医者になるのは甘くないってよくわかった。
康太とキーコさんは医学部六年生も乗り切って康太は無事医者になったのだけど、康太が研修に選んだ病院は神戸にある。キーコさんは大阪だから遠距離恋愛になってフェード・アウトしたって聞いたけど。
「あれはフェード・アウトじゃない。あそこまでなってたら、キーコは神戸まで追いかけるよ」
あっ、そうだった。キーコさんは親の公認取ってるから、神戸の康太の下宿に押しかけ女房だって出来るし、康太だって受け入れるはず。なのにどうして、
「事件があってね」
また修羅場があったらしい。康太は医師国試の合格発表の日に下宿から病院内にある官舎に引っ越したんだって。引っ越した翌日から勤務だったそうだけど、
「もし国試が不合格だったら」
「実家に荷物を送る予定だった」
ここも恵梨香からすれば妙な感じだけど、病院は康太を研修医として雇う約束はしてたけど、あくまでも康太が研修医であるのが条件だって。そう、落ちれてれば不採用でお払い箱だってさ。
引っ越しはキーコさんも一緒だったらしいけど、官舎に着いた康太は病院にまず挨拶に出かけたんだって。官舎のカギも必要だものね。そしたら上の先生に取っ捕まって院内の挨拶回りをさせられたらしい。
カギは職員が届けて、荷物の運び込みはキーコさんが指示してたんだけど、そこに康太の両親が様子を見に来ちゃったんだよ。両親はキーコさんの存在を知らないから、引っ越しの手伝いでもする気だったんだろうね。
そりゃ、気まずい鉢合わせだったと思うよ。康太が居たって気まずいだろうけど、いなけれりゃ、なおさらだよ。とはいえ、段ボールのどこに何が入ってるのを知ってるのはキーコさん、何をどこに置けば良いのかも知ってるのもキーコさん。
そんな状態が二時間以上続いたそう。ようやく病院から解放された康太も困ったみたいだった。そりゃ、そんなシチュエーションにいきなり直面したらそうなるよ。焦った康太は、
「友だちだよ」
間の抜けた返答して、その場は終わらせたみたいだけど、後日に当然あれは誰だの追求があり、誤魔化すのは無理があると康太は判断し、結婚前提に付き合ってると言ったんだって。しかし康太の両親は良い顔をしなかったらしい。
医者になったと言ってもまだ研修医で薄給。さらに当分は、研修医から医師になるための激務が待っているのは、親父さんは良く知ってるんだよね。さらにキーコさんは結果的に高卒なのが、とくにお袋さんは気に入らなかったみたい。つまりは両親とも賛成できないどころか、反対だったで良さそう。一人息子だものね。
その辺のやり取りがあったために、キーコさんは神戸の康太の官舎には転がり込みにくくなったで良さそう。もし引っ越しの時のように康太の両親と鉢合わせしたら、また修羅場になるものね。
康太も研修医として猛烈に忙しく、大阪までキーコさんとデートに行く余裕も無くなっていたみたい。それでもキーコさんが神戸まで出てきて時々会ってたそうだけど、結婚となると時間がもう少しかかるぐらいの話をしていたぐらいかな。
「康太が二年目の研修医になる頃からキーコは体の異変を感じ始めていたはずよ」
我慢してたみたいだけど、ある日、突然倒れ、担ぎ込まれたのが理恵先生が研修医として勤めていた病院。そこでたまたまだけど担当医になったんだ。
「なんだったのですか」
「急性リンパ性白血病」
当時は骨髄バンク設立前で、化学療法に頼るしかなかったそう。理恵先生は担当医として懸命に治療に当たったそうだけど、
「とにかく手強くて」
白血病の治療は、まず検査上で白血病細胞を消し去るんだって。消えた状態を寛解っていうらしいけど、次に地固め療法ってのあるらしい。その後は定期的に強化療法に移るらしいけど、
「すぐに再発してね」
再発してもう一度寛解状態に持って行くのをサルベージ療法って呼んでたらしけど、ついにサルベージも効かなくなり、
「半年、持たなかった」
「そんなに早く!」
どうしてそんなに難治性だったかの説明もしてくれたけど、恵梨香には殆ど理解できなかった。ただもし骨髄移植が出来ていれば助かったかもしれないって理恵先生は言ってた。
理恵先生も最初はキーコさんが誰かはわからなかったみたい。さすがに学生時代は直接顔を合わせてた訳じゃないものね。ところが、あれこれ話をしてる時に、キーコさんだとわかったみたい。
それだけじゃなく、キーコさんも理恵先生が誰かもわかったんだって。だからあれだけキーコさんの事をあれこれ知っていたのはわかったけど、
「康太はお見舞いに来ましたよね」
「来てない」
理恵先生が言うには、キーコさんは康太には連絡しないように頼んだそうなのよ。それって、治療でやつれた姿を見せたくない女心とか、治ってから会いに行きたいとか。
「違うよ。キーコは運命を受け入れてた」
どういうこと?
「キーコにはこうなるのが見えてた。決して康太と結婚できないことを」
理恵先生の目に涙が、
「キーコは自分の寿命さえ見えてた。その間を精いっぱい生きようとし、ひたすら康太を愛した。わたしはキーコに譲って良かったと思ったよ」
「でも・・・」
「キーコは康太を悲しませたくなかったんだよ。遠距離恋愛で、康太の勤務状態で、康太の両親から気に入られなかったらフェード・アウトしても不自然じゃないってね」
そんなぁ。まさか康太はこれを知らないとか、
「知ってるよ。キーコが生きている間は約束を守ったけど、こんなもの黙っていられるわけないじゃないか」
キーコさんの死を伝えるためにわざわざ神戸まで理恵先生は出かけたそう。キーコさんの死を知らされた康太は、
「サンチカの喫茶店で会ったんだけど、何も言わずに去って行ったよ。泣き顔を見られたくなかったんだろうね」
康太は泣いたんだろうな。何かしゃべるにも胸が塞がって言葉も出なかったと思う。だからどこかキーコさんの面影がある恵梨香との入籍を、あれだけ急いだのはわかったけど。どこがキーコさんと似てるのだろう。
「容貌もそうだけど、魂が似てるのよ。目で見れるのは外見だけだけど、心を開けば魂も見えるのよ。それが出来たのが康太とキーコ。恵梨香さんもそれが出来てるよ。神戸で会った時にキーコが甦ったかと思ったもの」
そうなのかなぁ、
「だから坂崎先生もあれだけ驚いたし、康太も恵梨香さん以外を考えもしなかったはずよ。康太ならとくにそうのはず。もっと見えてるはずだから」
康太が見えてるってどういうこと。そこに康太からのスマホ。小百合さんのお見舞いが終わったから帰ろうって。
「理恵先生は会われないのですか」
理恵先生はじっと恵梨香を見て、
「お邪魔虫だからね。康太の人生にとって、わたしはそれだけの役割だよ」
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