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純情ラプソディ(第1話)生い立ち
ヒロコの記憶の始まりは幼稚園時代かな。家は幼心にも大きかった気がする。ただ楽しい場所だった思い出は無いのよね。ひたすら冷え冷えして、陰鬱なところぐらい。そこでは、お母ちゃんだけでなくヒロコも殴られたり、蹴られたりが日常だったのは今でも忘れない。
あれを家族と言うのかな。クソババアとクソ男がいた。本来ならお婆ちゃんとお父さんになるのだろうけど、ヒロコとお母ちゃんにとっては、ただ恐怖の存在。ひたすら怒られて、叱られて、罵られ、暴力を揮う支配者。
それが終わった日は妙に覚えてる。子どもの記憶だから断片的だけど、その日のお母ちゃんはいつもと違った。家に帰ると二人だけだった。お母ちゃんは妙に浮かれた感じであれこれ動き回っていた。なにかの壊れる音やら、引き裂かれる音が続いた後に、
「ヒロコ、おいで」
お母ちゃんはカバン一つだけ持っていたけど、駅から電車に乗りこんだ。そんな家だったから旅行どころか、お出かけも、お買い物も、外食も一度もヒロコの記憶にはなかったよ。お母ちゃんはみどりの窓口から買いこんだ空色の乗車券をヒロコに渡して、
「これをあそこに通して・・・」
生まれて初めて自動改札を通ったんだ。そこから何本も電車を乗り継いで行った。新幹線もあの時に初めて乗ったし、地下鉄も乗ったのも覚えてる。最後はなんか山の中を走ってた。
ヒロコの初旅行だったけど、とにかく長かった。でもお母ちゃんが嬉しそうだったから、ヒロコも無性に嬉しくなって気にならなかったかな。途中で寝てたかもしれないけど良く覚えてない。
やっと着いたのは小さな駅。降りたのはヒロコとお母ちゃんだけだったかもしれない。駅でしばらく待ってたらクルマがやってきて、ヒロコたちはそれに乗り込んだ。後から知ったのだけどお母ちゃんの実家。そしたらいきなりお母ちゃんが、
「どうして、こんな事に」
「もっと早く帰って来い」
こんな感じで叱られて泣きだしたから、
「お母ちゃんを泣かさないで」
必死だった。なぜかヒロコが守らなきゃいけないと思ったんだろうな。でも覚悟もしてた、次に殴られるって。そしたら、お母ちゃんを叱ってた女の人がヒロコを抱きしめて、
「辛かったろうね。可哀想に、可哀想に・・・」
泣いちゃったんだよ。これがお婆ちゃんだった。この家では信じられなかったけど、みんな優しかった。誰もお母ちゃんやヒロコを罵ったり、殴ったりしないし、大事にしてくれた。そこでしばらく過ごした後に小さなアパートに移ったんだ。お母ちゃんは、
「これが新しいおうちだよ」
子ども心にも、こんだけっと思ったぐらいで、そうだね、今なら1Kぐらい狭いお部屋。でもね、でもね、もうクソババアとクソ男はいないんだよ。あの二人がいない生活は嬉しかった。ヒロコは幼稚園から保育所に変わり、お母ちゃんは仕事に出るようになった。
ずっと後になってからお母ちゃんから聞いたのだけど、結婚生活が上手くいかなかったで良さそう。父親はいわゆる旧家で資産家だったらしい。好きあって結婚したんだろうけど、結婚の条件は義母との同居だったみたい。
「まさかマザコンとムチュコタン・ラブの極悪コンビとはね・・・」
クソババアでも良いけど、お婆ちゃんと区別したいから姑と呼ぶけど、お母ちゃんは結婚前から気に入らなかったみたいで良さそう。というか、どんな女性であっても息子を盗られるのが許せないのが正しかったみたい。だから姑の生きがいは嫁を家から叩き出すことだったって言うから驚くよね。
それなら息子を結婚させなければ良さそうなものなのに、ああいう人種って可愛い息子は誰にも渡したくないのに、孫が欲しい、跡取り息子が欲しいは当たり前のようにあるんだって。そのためには嫁が必要だけど、憎悪の対象でしかない。そんな矛盾があいつらにとって疑問なく成立するみたい。ヒロコに言わせると人間のクズだよ。
同居どころか結婚前の挨拶の時から嫌味が始まり、同居後はそれこそ朝から夜までエンドレスだってさ。そうそう、お母ちゃんも働いていたのだけど問答無用で専業主婦にさせられたって。嫌味からエスカレートするのもすぐで、やる事、なす事のすべてにケチを付け、口癖のように、
「どこをどう間違って、こんな出来損ないのクズが嫁なのか」
御飯を作っても、
「不味い、不味い、人が食べられる物も作れないの」
そう言って食卓から放り投げたり、作っている最中に捨てられるのもしょっちゅうだったって。掃除する後ろからゴミをまき散らしたり、洗濯物のたたみ方どころか、洗濯済のものをわざと汚したりとかは日常風景だっていうからどれだけ根性が曲がっている事か。そうそう、そこまでの仕打ちをしておきながら、
『孫産め、男産め、早く産め』
でも妊娠しているのが女とわかった瞬間に、
『女なんか孕みやがって、この役立たず。さっさと堕ろして男産め、跡継ぎ産め』
階段から何度も突き落とされそうになったそう。お母ちゃんはヒロコを必死になって守ってくれたから生きてるのだけど、娘だから姑の排除対象、憎悪の対象にしかならなかったで良さそう。
「あの頃はおかしくなっていたのよね」
ここで夫が妻を守ったら辛うじてバランスが取れるのだけど、それこそマザコンでべったり。とくにヒロコが産まれてからは、お母ちゃんとじゃなく姑と同じ部屋で寝ていたというからヘドが出る。
酷いDV環境に置かれると、かえって逃げるのが思い浮かばなくなるとはああいう事かとお母ちゃんは笑って話すけど、姑だけでなく父親からも攻撃を受けまくり、ひたすらヒロコを家の中で守る事しか頭に無かったって言ってた。
「でもね、さすがに浮気された時に怒ったのよ」
浮気が発覚して、お母ちゃんは責めたそうだけど姑からは、
『あんたが女しか産まず、ムチュコタンの心が離れただけのこと。あんたがすべて悪い』
父親も、
『すべてお前の責任だ。オレには跡継ぎを産ませる崇高な義務がある』
こんな支離滅裂な屁理屈をガンガン怒鳴りまくられて、お母ちゃんは殴り倒されたっていうから、文字通りの極悪最低カス・コンビ。そこからあの日になるのだけど、あの日は姑と父親が旅行に出かけたそうなんだ。その間にお母ちゃんは動いたそう。
「ちょっとだけ復讐してやった」
姑が大事にしていた食器とかをすべて叩き割り、着物や帯を洗濯機に叩き込んで、漂白剤を五本ぐらい放り込んだそう。
「洗濯機に入らない分は醤油とかソースとかケチャップをぶちこんでやった」
これは結婚してから、お母ちゃんの物を、嫁入り道具から服、靴、下着、アクセサリーの類まで売り飛ばされ、盗まれ、奪われ、捨てまくられ、
「ああ、あの旅行だって、婚約指輪を売り払って行きやがったからね」
そこから正式に離婚するまでスッタモンダあったそうだけど、それは話してくれなかった。あの陰鬱な家から逃げ出せたのはヒロコも嬉しかったけど、結果として母子家庭になっちゃったんだ。ここからヒロコの新たな修羅場が始まったぐらいかな。
新しい家はドが付く田舎じゃないけど、中途半端な田舎。都市部から見たら素直に田舎で良いと思う。田舎の人は親切のイメージを都会の人は持っていると思うけど、あれは訪問者に愛想が良いだけ。
ここも後から知ったのだけど、お母ちゃんの実家はお爺ちゃんの代の時に引っ越してきたそう。だからお母ちゃんも小学校ぐらいに転校してきてるんだ。小学校から住んでいるから地元みたいなはずだけど、田舎基準では余裕で余所者扱いだってさ。
田舎での余所者認定の恐ろしさは絶対に変わらない点。そう死ぬまで余所者扱いになるのよね。五十年住もうが余所者なんだよ。余所者でなくなるのは、余所者が地元住民と結婚して生まれた子どもの代からになる。
ヒロコの場合は父親が余所者だから、余所者同士から生まれた余所者の子どもって事になるんだよね。余所者認定は親世代だけでなく、親から子に、さらに地縁を通して周知され常識化されるのが田舎のデフォなんだ。
ヒロコの場合はさらにがある。母子家庭、つまりは片親だってこと。今どき離婚なんて珍しくもないはずだけど、田舎に行くほど離婚するのは人間として欠陥があるぐらいに見られるみたいなのよね。とくに母子家庭の場合はね。そしてトドメは貧乏。
お母ちゃんの実家もヒロコたちを養なえるほどの余裕はなくて、お母ちゃんが働いて家計を支えてる。それだけそろうとイジメの対象になるしかないじゃない。ごくシンプルに、
『余所者の貧乏人、そのうえ片親』
イジメっていろんな理由で発生すると思うけど、格下認定してマウンティングする心理もあると思う。田舎では余所者と言うだけで地元民からは無条件に見下ろしても良いカーストとされ、そこに貧乏とか、片親が加わると最底辺カーストにされてしまうんだよ。そこに当人がどうのこうのと言う考え方はないぐらい。
もちろん地元民でも、そうでない人も少なくない。ヒロコの学校の友だちだって、イジメは人間として良くないの考えを持っている人もいるのは知ってる。でもそう言う人が存在してもイジメの抑止力にはなってくれないんだ。
イジメって、イジメられっ子を、その他大勢がイジメるものなんだ。この辺は色んなバリエーションがあるけど、イジメる方もイジメに加担するかどうかで、その人が敵味方かを区別している面がある。ヒロコの場合はそうだった。
イジメに加担しないと、加担しない事を理由に仲間外れにされることもあるんだよ。ヒロコの場合は、積極的なイジメに加担しないぐらいなら、まだマシだったみたいだけど、もしイジメを止める、もしくはヒロコに味方すれば大変なことになりかねないんだよ。
さすがに学校でイジメられているのはヒロコだけじゃなくて、他にもイジメに遭ってる子もいたんだよ。ある時に、その子の味方になってイジメを止めようとした子がいた。そしたらどうなったかなんだ。
止めようとした子もイジメの対象になっただけではなく、それまでイジメに遭ってた子に代わってイジメのターゲットにされちゃったんだよ。どういうかな、いじめを助けようとしたばっかりに、底辺カーストに落とされちゃったぐらいの感じ。
その子は正義感が強かったみたいで、イジメと敢然と戦っていたけど、相手は自分以外の全員みたいな状態になり、やがて学校に来なくなり、どこかに引っ越して行っちゃったんだ。あれでみんな震え上がった気がする。
とにかくヒロコは小学校六年間はイジメのターゲットに固定され続けた。四六時中ずっと絶え間なくイジメられていた訳じゃないけど、なにかあると仲間はずれが当たり前状態にされた。単に気晴らし程度でもイジメは起こったもの。
イジメをする連中には罪悪感などなく、ヒロコが辛い思いをしているとか、悲しい思いをしてるなんて頭の隅にもなかったと思う。そう、ヒロコのクラスでの役割はイジメをすることによってストレス解消を図る対象ってだけ。人間扱いされていなかったでも良いと思う。
あれはまさに暗黒時代。子どもだったから学校を休むなんて考えもしなかったし、休めばお母ちゃんも勘づくし、悲しませると思ったもの。そうやって学校に行ったところで学校ではボッチ。ボッチだけならまだ良かったけど、
「おい、バイキン・・・」
気まぐれの様にイジメが不定期に襲ってくる。これは中学に入っても変わらなかった。そんなヒロコの状況が変わったのが中二の時だった。