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ツーリング日和3(第12話)北国街道

 北国街道ってコトリは言うてるけど、これも実は他にも北国街道はあるねん。中山道の追分から善光寺経由で直江津に行く道があるねんけど、これを善光寺道とも呼ぶけど、北国脇往還とも呼ぶねんけど、この善光寺道を明治以降は北国街道と呼ぶことが多いねん。

 近江の北国街道は本来は北陸道の一部のはずやねんけど、やっぱりこれも北国街道と呼ぶんよね。関西の人間でもポピュラーやないかもしれへんが、歴史小説にはよう出て来るねん。そりゃ、信長と浅井朝倉が死闘を繰り広げたとこやもん。

 北国街道のスタートは鳥居本宿で、これは中山道の宿場でもある。今やったら彦根に鳥居本駅があるわ。そこから米原宿、長浜宿、木之本宿、椿坂宿、中河内宿、板取宿、今庄宿までが北国街道や。

 鳥居本宿から木之本宿は湖東の平坦なとこやけど、木之本からは峠越えになる。これも律令時代に北陸道が出来た頃には木の芽峠を越えとってんけど、あんまり険しいから栃の木峠越えに変わって今に至るぐらいや。

 コトリたちは小谷から木之本に移動してきてるんやけど、木之本は室町時代から昭和の初期まで牛馬市が立ってたんよ。そこで後世に残る逸話が生まれることになる。木之本の牛馬市を訪れたんが山内一豊や。

 一豊はそこで一頭の馬に目を奪われるんや。一豊だけでなく他の織田家の侍たちも目を付けたが馬喰は、

「値を付けてみろ」

 こういうんよね。あれこれ値を付けるんやが、馬喰は鼻で嗤うてしまいやったんよ。一豊はその値段の高さに驚いたし、そんなカネがないのやけど、ただただ喰らいつく様に見とったそうや。あんまり一豊が熱心やったもんやから馬喰は値段だけ一豊に付けさせたんや。一豊は、

「黄金十枚」

 この値段に馬喰は満足したんや。家に帰った一豊は馬のことばかり考え上の空状態。妻の千代に理由を聞かれて、到底手の届きようもない馬の話をするんよ。すると千代は、さっと黄金十枚を差し出したんや。

 これは結婚する時に、どうしても必要なことがあった時だけ使えって渡されたものやってん。一豊の家は貧乏やってんけど、これまで何があっても手を付けず、そんな大金があることさえ一豊に伝えてなかったんよ。

「山内一豊の妻の話ね。あれで織田家の面目が立ったと信長から御褒美もらったのよね」

 そうや。木之本の牛馬市の馬の話は信長も聞いとってん。そやけど、自分の家来の誰もが馬喰の満足する値段が付けられずに引き下がった話に機嫌が悪かったらしい。

「それを家来の中でも貧乏で有名な一豊が買ったと聞いて、織田家の面目を守ったと同時に、そんな素晴らしい奥様がいたんだと褒め称えたぐらいだね」

 千代がヘソクリを出す判断したのは、そんな馬がいれば一豊が手柄を立ててくれる期待もあったと思うけど、当時の武士で重要なことは名を売るやってん。名が売れてこそ手柄を上げられる部署に回してくれるぐらいや。

「もうちょっと具体的に言ったら、御大将の目に見えるところで戦わせてくれるだよね。お手柄の評価は御大将がするのだけど、どうしても見ているところのお手柄の方が評価されちゃうものね」

 こうして千代のお蔭で名を買った一豊は、最終的に土佐の領主になっとるし、その家は幕末まで続いとるわ。

 木之本過ぎたら登りになるけど、刀根と言うところがある。ここも合戦が行われたところやけど、

「刀根坂の合戦ね。浅井の救援に来た朝倉軍を織田軍が待ち受けてこれを撃破」
「そのまま勢いに乗って一乗谷まで攻め寄せて朝倉氏が滅亡してもたからな」

 刀根のもう少し先に柳ケ瀬がある。ここから敦賀への道が刀根越えやねんけど、浅井朝倉時代は北国街道は険しすぎて、朝倉軍は敦賀経由で近江に進軍しとった。

「信長もそうよね。だから手筒山城と金ヶ崎城を攻めてるもの」

 これを忘れとった。この頃の北国街道は木の芽峠越えやってん。これを椿坂峠、栃の木峠越えに勝家が付け替えたんよ。ここもやけど越前から言うと、

 木の芽峠 → 栃の木峠 → 椿坂峠

 これやったんを木の芽峠をショートカットしたはずやねん。それ以前は木の芽峠だけでも難儀やのに栃の木峠、椿坂峠と難所が続くさかい、

 木の芽峠 → 敦賀 →刀根越え

 こっちがメインやったでエエはずやねん。そやから信長が金ヶ崎で苦戦した時も、一乗谷まで攻め込んだ時もこれを逆にたどっているはずや。それにしても木之本からの登りは真っすぐやな。ここを下から迎え撃って織田は勝ってるんやな。

「当時は違ったかもしれないよ。こうなったのは勝家の改修後じゃないかな」

 かもしれん。ここが椿坂か、さぞ椿が多かったんやろ。集落は道の右側にあるから、あっちが旧街道やったんかもしれんな。まだ登るか。それと道のセンターラインが消えて一車線半やなあ。

「でもこの車幅って勝家の作った三間じゃない」

 そう思たらワクワクしてきた。この道の曲がりぐあいはそうかもしれん。ここまでの直線は明治の時のもんやろ。おっ、下り始めたから椿坂峠越えたはずやのに、なんにも表示があらへんな。情緒ないで。

 椿坂峠越えたら二車線に戻ってまた直線コースや。気持ちエエな。そやけど人が住んどる気配もないわ。椿坂宿は、椿坂峠、栃の木峠にチャレンジする前の宿場なんやろ。

 また道が狭なってきたから栃の木峠やな。おっ、ついに福井に入ったで。へぇ、こんなとこに淀川の淀川の源があるんか・・・おかしいな淀川の源流て琵琶湖ちゃうんか、和彦さんが停まる合図しとるけど、なるほどここが栃の木峠か。

 ここはちゃんと看板あるし栃の木峠の歴史の解説板もあるやん。椿坂峠とえらい扱いの違いや。そやけど、淀川の源は気になるな。ちょっと引き返してもろて、

「これって淀川の源さんとかの意味じゃないの」

 誰やねんそれ。なになに、説明板によると、この源流から高時川が始まって、姉川に合流して琵琶湖に流れ込むか。他に行くとこないもんな。その流れが琵琶湖からの瀬田川・・・なるほど琵琶湖も中流になるのか。どっかのクイズ出したら面白そうやな。悪い、悪い、これも寄り道ツーリングやと思てな。

 栃の木峠からは下りやけど、福井への下りは結構なワインディングやんか、それもやで、二車線が一車線半になる時に急カーブが来るやんか。ひやぁ、ガチのヘアピンやで。こんなとこぶっ飛ばして回ったら、ガードレールもあらへんから谷底に直行やな。

 またヘアピンや。こっちは二車線あるからマシやけど、こっちの方が突っ込むやつが多いかもしれん。それにしてもコーナーに限ってガードレールが無いのもおもろいわ。よっしゃ、ワインディング・ゾーンは終わったみたいや。

 うん、左に見えたんはなんやろ。なんか説明板みたいのがあるけど、まあエエか。寄り道も度が過ぎると悪いからな。それにしてまっすぐの道を快走で気持ちエエわ。久しぶりの集落や。これが板取宿やろな。なんも書いてへんけど・・・あったあった板谷って・・・地名も変わるからな。

 今庄宿まで1キロって出てるやん。なんかあるのかな。和彦さん左に曲がるって。嬉しいわ。コトリが歴女からわざわざ寄り道してくれるんや。こういう心遣いに女はしびれるねん。なかなか古い町並みやんか、ここで停まるんか。

「ここが今庄宿本陣跡です。すいません、今宿と言ってもここぐらしか知らなくて」

 なになに福井の殿さんは、早朝に城を立って今庄宿に泊まったんか。そこから板取関所を通り栃の木峠か。関所って、ひょっとして板谷って書いてあった手前のとこかもしれん。

「コトリ、かつての繁栄が目に浮かぶようだね」

 ここは宿場町やから、この道が街道や。街道に面した家は、原則商店やってん。

「だから仕舞うた家っていう言葉があったのよね」

 しもたやも死語になってもたな。通りに面した家を表店、店は「たな」って読んでや。通りに面してないのが裏店いうとってん。商人なら表店を持つのが夢やったし、町人でも表店をもつのが階級が上やってん。

 ここもわかりにくいかもしれんけど、町人って工と商やんか。つまりは職人と商人や。そやから町人にやったら、なんか商売しとらんと食われへんかってん。和彦さんが、

「通勤する人は?」

 そんなもん全部住み込みや。通いなんか殆どおらへんかったはずや。懐かしいな。今でもコトリやユッキーの日本での記憶の半分ぐらいそんな時代やったもんな。

「それでも、これだけ残されてるのは嬉しいね」

 兵庫津も西国街道が通ってるから本陣もあったけど、

「浜本陣もあったのよね」

 兵庫津も諸国の物産の集散地やったから、西国大名の御用商人みたいのをやっとったんよ。そこの大名が兵庫津に来たら、本陣代わりに泊まるんよ。

「朝鮮通信使も浜本陣だったよね」

 兵庫津一の豪商言うたら北風やったけど、

「あそこの風呂は有名だったもの」

 船乗りに無料の風呂と食事まで提供しとってんよ。まあ、兵庫津は良港ではあったけど、とにかく大阪の力が強いやんか。そやから、なんとか兵庫津で荷を下ろしてもらうのに苦労しとってん。北風の湯もその一つや。

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