恵梨香の幸せ(第15話)恵梨香の実家
恵梨香も聞いただけの話だけど江戸時代の百姓も身分差があったんだって。まず上に来るのが本百姓。自分の土地を持っていて家屋敷があるタイプだけど、年貢を納めてるぐらいかな。
これに対して水呑百姓は自分の土地を持たない小作人で良いと思う。年貢は免除となってるそうだけど、年貢と小作料を地主に納めてる事になる。だから水呑百姓は村内の地位も低くて発言権もないぐらいだったそう。
恵梨香の家は水呑百姓、対して元婚家は元庄屋の地主。世が世ならまともに口が利けない事になるぐらいになるらしい。とはいえ今は時代が違うのよね。庄屋も明治維新で無くなってるし、地主階級も戦後の農地改革で解体されてる。
戦後の農地改革は徹底してて、一町歩以上は国にすべて買い取られ、実際に耕作してる小作人に売り渡されてる。終戦後のインフレは凄かったから、ほとんど二束三文だったらしい。
この時に恵梨香の家も自作農になってるし、元婚家の田んぼだって一町歩しかない。だから対等のはずだけど、とにかく田舎だから江戸時代の亡霊のような身分意識が残っている人もいる。その筆頭が元婚家だよ。
恵梨香の実家も農業だけど、農地改革の時に手に入れた土地は水の利が悪かったんだって。里山の中腹まで言わないけど一段高いところにあって、ほんの湧き水みたいなものをアテにしてたらしい。だから江戸時代はそれこそ川から水汲んで運んだことも、しばしばあったの苦労話が残ってるぐらい。
高台はかなり広いのだけど水がそんな状態だものだから、三反ぐらいの田んぼが精いっぱいで、後は雑木林になってたそう。農地改革の時だけど、田んぼも手に入れたのだけど、ついでみたいに周囲の雑木林もドサクサで手に入れたって話も残ってる。
稲作どころか農業するには無理がある土地みたいだったから、旧地主もどうでも良かったぐらいかな。恵梨香のひい爺さんは、開き直って米をやめて玉ねぎ畑にしたんだよ。淡路の玉ねぎは特産品だけど、特徴は甘くて苦みが少ないこと。
糖度は普通の玉ねぎで五度程度。これだけでイチゴ並だけど、淡路の玉ねぎは十度ぐらいあるのよね。苦みはピルビン酸だけど、これも淡路産は低いんだ。恵梨香の実家の玉ねぎだけど、糖度はさらに高くて二十度近くになり、ピルビン酸は半分以下。ここまで行けば野菜というより果物に近いぐらい。
恵梨香の爺さんは、これの売り込みに走り回ったみたい。玉ねぎって普通に作れば一町歩で百万円ぐらいにしかならないのよね。爺さんは今で言うブランド化を目指した上で、契約農家になろうとしたで良いと思う。
これが成功して浜崎甘玉がブランドになり、一流レストランや一流料亭の御用達になれた。さらに周囲の雑木林も開墾して玉ねぎ畑を広げてプチだけど玉ねぎ長者になれたぐらいかな。だから恵梨香も玉ねぎの味にはウルサイの。
もっともプチ長者と言っても農業は天候にも左右されるし、玉ねぎの病気が流行したり、浜崎甘玉のライバルも出てきてプチ長者では今はなくなってるけど、なんとか専業農家でそれなりぐらいの家になってるよ。
でもね、古い考えの人は百姓とは米を作る人ってあるのよね。畑で野菜を作る人を一段下に見るぐらいかな。どっち作ってもおカネに換えるのだから同じと思うのだけど、百姓は米を作ってこそ一人前みたいなカビの生えたような考えの人。
米はたしかに面積当たりの収入は玉ねぎより高いけど、日本人の米離れもあって米価は下がってるのよね。今なら一町歩で四百万円ぐらいかな。淡路の米が取り立てて不味いわけじゃないけど、ブランド化もしてないから、もっと安いかもしれない。ただ恵梨香の田舎では未だに、
『稲作農家 〉 畑作農家』
この意識が強い人が頑張ってて、そこに、
『旧本百姓 〉 旧水呑百姓』
これが乗っかる感じ。その筆頭が元婚家。だから恵梨香の実家の村の発言権は小さいのよね。とは言う物の村は明治の市町村合併の時に無くなり、その後も昭和の大合併、さらに平成の大合併で南あわじ市の片隅に過ぎないのよ。ただ旧村意識はバリバリ残ってて旧村の町内会の上に連合自治会みたいなものがあるの。
町内会長なんて都市部に行けば厄介仕事に過ぎないのだけど、恵梨香のところでは町内会長が村会議員で、連合自治会長が村長みたいなものかな。そこを旧意識の連中が独占してるよ。
もっとも、しょせんは町内会長ぐらいのものだから、実質的な権限と言ってもお祭りとかの伝統行事の仕切りぐらいのもの。だから実害はないのだけど、普段から上から目線でやな感じ。事あるごとに旧村時代の序列を押し付けてふんぞり返るんだもの。
村内事情的には旧意識の人はドンドン減ってるの。そりゃそうよね。ただ田舎で角を立てるのは宜しくないから、旧意識の人を適当に祀り上げて波風を立てないようにしてるぐらいで良いと思う。
そういう村での恵梨香の初婚は一つの事件になるんだ。離婚なんて三組に一組以上起こるもので、一・四九秒に一組離婚してるってぐらいなんだよね。離婚したからって自慢にならないけど、都会だったら『そうなのか』程度で終わる話。
もっともこういうものは、田舎に行くほど保守的になるけど、恵梨香の田舎でも離婚はあるし再婚だってある。まあ、都会に比べれば色々言われるけど、それぐらいにはなってるよ。
ただ江戸時代で時計が止まってるような元婚家にしたら、嫁が逃げ出すなんて前代未聞の大不祥事みたな受け取り方になってくるんだ。それもだよ、水呑百姓の畑作農家の家なんて格下どころじゃない家から迎えた嫁だものね。頭っから、
『嫁になれたのに感謝してるに決まってる』
これを1ミリグラムも疑わないぐらい。だからどんな仕打ちもやり放題で、それを耐えるのが嫁の役割と決めつけてるぐらいだったよ。どう言えば良いのかな、世が世ならば当主が気まぐれで手を付けた下女みたいなもので、今の世だから戸籍上は妻にしてやってるかな。それでも足りないか、まるで献上奴隷みたいなもの。
それが離婚騒動になったから、元婚家にしたら心外どころか奴隷の反乱ぐらいに受け取ったで良いと思う。親父が最初に談判に行ったけど、いきなり言われたのが、
『恵梨香を連れてこい』
そこから、どうやったらあんな躾の悪い娘が出来上がるのだと怒鳴りまくられ、素性が悪すぎる、しょせんは水呑の家が、畑作風情がの定番の話が続いて、
『タダで済むと思うな。覚悟しとけ』
親父もあれこれ言ったみたいだけど、聞く耳もたずの剣もホロロ状態だったんだよね。これじゃ、話にならないと思った親父は弁護士を立てたけど、
『離婚なんて認めるわけがない。この話はこれで終わり』
そう言い放って恵梨香を強引に連れ去ろうとして一騒動になったぐらい。弁護士さんも呆れてた。さらに旧村内に、
『恵梨香を見つけたら連れて来い』
これを回覧板でやらかした。そう、旧婚家にとって恵梨香は嫁じゃなく所有物って扱いで、まるで飼い犬に逃げられたぐらい。
『今なら一族総出で土下座したら、恵梨香の罪を許すのも考えてやる』
こんな電話がジャンジャンかかってきたものね。弁護士さんも手を焼いたみたいで、やっと離婚条件に話が進んでも、
『我が家の名誉を傷つけた慰謝料を払え』
これをガンガン主張しまくって往生したんだよ。もちろん連日のように恵梨香の実家に押し寄せてきて、
『恵梨香を渡せ』
あの頃は恵梨香の親戚が常に詰めていて、これに対抗してたぐらい。だって、無断で家の中に乱入しそうな勢いと言うか、実際に乱入してきて、恵梨香は裏口から逃げたもの。ただ、乱入事件はさすがに問題になり、弁護士さんが法的対抗処置をしてくれて、それでかなり大人しくなってくれたぐらいかな。刑事告訴を見せたのが効いたと言ってたっけ。
ようやく離婚して恵梨香もホッとしたのだけど甘かった。元婚家にしたら弁護士がウルサイから書類にサインをしたぐらいの意識しかなかったのよね。復縁攻勢と言えばロミオ・メイルだけど、そんな甘い物じゃなく、
『離婚届にサインはしてやった。エエ加減に反省して戻って来い。恵梨香が謝罪すれば戻してやる』
おいおいと思ったけど、十か条どころでない誓約書みたいなものが内容証明付きで送られてきて、それに署名・捺印して戻れって書いてあったもの。内容は、ありゃ、奴隷契約書みたいなものだったのよね。
恵梨香は故郷から逃げることにした。勤め先の理解と同情もあったから、阪神間の支店に異動となって、あれから故郷には戻ってない。それと友だちにも住所や連絡先を教えてない。
と言うのも恵梨香は元婚家からは懸賞付きの指名手配扱いで、一度友だちの友だち経由でバレてマンションまで押しかけられてるのよね。あの時は警察呼んで追っ払ったけど、あれからは実家にしか教えていない。
離婚の時に接近禁止も約束させてるのだけど、屁とも思ってないし、さすがにこれだけ年月が経てば自然消滅みたいな状態になってるぐらい。恵梨香だってたまには故郷に帰りたいけど、帰ったら大騒動を覚悟しないとならないのよね。
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