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浦島夜想曲(第12話)留守番のマリー

 私はマリー・アンダーウッド。アメリカのセレクション・マートの創業者の一族の娘として生まれています。まあセレブってことになるのだけど、お嬢様扱いで終るのは耐えられなかったのです。それだけの才能はマリーにあるはずだし、それだけの成績を大学でも残してきたつもりでしたし。

 マリーの目標はエレギオンHDの小山社長。短期間のうちにアジアの無名アパレル・メーカーを世界三大財閥に育て上げた立志伝中の人。マリーの能力を活かすにはそこしかないはずとずっと考えていました。

 でもエレギオンHDにはまともには入れません。父だって社長だけど、父の口添えぐらいでは無理なのです。でも一度だけチャンスをもらったのです。プリンセス・オブ・セブン・シーズでクルーズしている時に小山社長一行と偶然ですが知り合いになり、社長の秘書役をこなせたら入社させてくれるという話が出てきたのです。

 クルーズでお会いしてた小山社長も、立花副社長もひたすら楽しい人で、とりあえず秘書役といっても船内の先導役ぐらいです。ちょっと気まぐれなところこそあるものの、マリーは手ごたえを感じていました、たかが秘書役ぐらい出来て当然じゃありませんか。
 
「そうだマリー、次のグラン・カナリア島のガイド役やってみる」
「はい、是非やらせて下さい」
 
 香坂常務が心配そうにしてましたが、
 
「ミサキちゃん、一人でやらせてね」
 
 グラン・カナリア島といっても小さな島です。社長と副社長の要望は盛りだくさんでしたが、しっかりプランを作りガイド役としてスタート。結果は無残なもので予定の半分も終らないうちにタイム・アップ。それどころか、乗船時刻にも遅れてしまうのは確実状態です。社長は、
 
「ミサキちゃん、悪いけど、後は頼む」
 
 そこからの香坂常務は凄かった。不可能と思われた乗船時刻に鮮やかにセーフ。後で立花副社長に、
 
「秘書ぐらい簡単って、マイケルに啖呵切ってたみたいだけど、秘書業務には色んな要素が入ってるんやで。秘書はどれだけ先が見れるか、どれだけ上司の行動・クセを把握してるか、そのうえでどれだけ上司をコントロールしてコキ使えるかが求められる業務なのよ」
 
 さらに重ねて、
 
「今回のもそう。クライアントの要求を聞いたうえで、限られた時間内に、どれだけ要求を満たせるかが求められるってこと。これは経営者であっても同じよ。コトリとユッキーに付いて今まで何を見てたの」
 
 天狗の鼻をへし折られました。それでもマリーに足りないものを教えられたと思っています。それは実務経験。香坂常務はクルーズでは秘書役をされていましたが、マリーがグラン・カナリア島のガイド役を引き受けた時点で、マリーの失敗を予想し、どこで失敗してもフォローする準備を整えていたのです。

 
 帰国してから父に頼みました。どこかに武者修行に出してくれないかと。父は渋っていました。
 
「実務経験ならセレクション・マートでも積める」
 
 そうかもしれませんが、セレクション・マートに居る限りマリーは社長の娘であり、お嬢様扱いされます。もっと厳しい世界に身を投じないとエレギオンHDに通用する実務経験はいつまでたっても積めないと強く感じていました。マリーの言葉に折れたのか父は、
 
「ラブリエ食品に勤めないか」
 
 ラブリエ食品はフランスの食品大手です。フランスの会社というのが意外でしたが、アメリカにいる限りお嬢様扱いは変わらないはずですから、勇んでこれを受けることにしました。父は、
 
「予めいっておくが、社長のルナは女王と呼ばれるぐらいのやり手だ。甘い気持ちを少しでも持っていたら叩きだされるぞ」
 
 これを聞いて、かえって望むところとフランスのルナのところを訪れたのです。紹介状をもって社長のルナのところに挨拶に行ったら、
 
「あなたは仕事を舐めてるの。そのフランス語はなによ、ここはフランスよ」
 
 いきなりここから始まりました。これは相当な覚悟が必要と感じたものです。続けて言われたのが、
 
「私は現場を知らない人間は役に立たないとしか見ていない」
 
 いきなり配属されたのは下町のスーパーの売り子。なるほど現場研修かと思って、
 
「いつまでですが」
「そうね、うちの売り上げナンバー・ワンになるまで」
 
 げっ、でも他に道はなくスーパーに向かいました。ルナは行く前に、
 
「一つだけアドバイスをあげる、世の中は売ると買うから成り立ってるのよ。でもね、売りたいものと、買いたいものは同じじゃないよ」
 
 判じ物のような言葉で、客が求めるものをそろえて売るのが商売のすべてじゃないぐらいしか思えませんでした。でも、仕事に取りかかると、最初にルナに言われたフランス語の能力不足は思い知らされました。

 とにかくフランスでは英語が通じにくいのです。たとえ英語を知ってる人でも知らないふりをするという噂は当たってるとしか思いようがないぐらいです。マリーは売り子ですがある程度の権限は任せられていましたが、これでは部下とも客ともコミュニケーションを取るのに壁になります。もう必死になって覚えました。

 三ヶ月もすればかなりマシになってくれました。でも目的は語学研修じゃありません。フランス語を覚えるのは手段であって目的でないのです。それでも言葉の壁が解消してくれたので、売上戦略を立てられるようになってきました。

 とにかく売り上げを増やすには客に買ってもらうこと。買ってもらうには、客の欲しいものをそろえること。当たり前の話ですが、まずそれを追及していきました。試行錯誤はありましたが、段々に客の求めるものは見えて来ましたし、売り上げも確実に増えてくれました。

 でもルナから与えられた課題は一番になることです。毎月のランキングが出ますが、マリーの成績はベスト・テンにも程遠い状態です。原因も明白で、客単価が低すぎることです。限られた売り場で、限られた客相手では、今の戦略ではこれ以上は無理なのは嫌でもわかってしまったのです。

 小売で客が求めるのは安価、安価となれば薄利、薄利となれば多売と連動しますが、多売が成立するにはスケール・メリットが必要です。しかしマリーの受け持ち範囲でそれは無理。打開策を考え込む毎日でしたが、ここでルナのアドバイスが頭に甦ってきたのです。
 
『売りたいものと、買いたいものは同じじゃないよ』
 
 そうなんだ、客が買いたいものだけでは、ここでの成績は限界があって、売りたいものを買わせる工夫が必要なんだと。ここからが大変でした。一時は売上トップどころか赤字が続き、嫌味と叱責を毎月にように受け続けたなものです。二年間の辛苦の末についにルナの課題を達成し、マリーはルナに呼ばれました。この時にルナは、
 
「マリー、あなたのことはメグミから頼まれてる。あのメグミがこんな頼みごとをするのは聞いたことがないから驚いた」
 
 メグミって小山社長のこと?
 
「あなたがエレギオンHDを目指すのなら、うちの仕事ぐらい余裕でこなせないと到底無理。なんとか第一関門を突破できたから、やる気があるなら鍛えてあげる」
 
 小山社長はルナに教育係兼試験官を頼んでくれてたのです。二年に渡った現場での売り子は、マリーに現場を知る事の大切さを叩きこむためのものだったと良くわかりました。

 ルナの経営戦略は計算づくの緻密なものですが、どう言えば良いか、計算し尽くせない余りを必ず含んでいるのが見えてきたのです。それが何かも今のマリーならわかります。商売は人相手のもので、そこに予想しきれない動きが必ずあり、そこへの柔軟性が必要だってことを。

 六年もする頃にはマリーはルナの右腕と見なされるようになっていました。ルナの分身とさえ言われるぐらいにです。そこでルナに言われました。
 
「マリー、あなたに選択をあげるわ。このままここで働くのもよし、最初の希望通りエレギオンに行くのもよし。私はマリーを手放したくないけど、メグミの頼みだからね」
 
 さすがにこの選択は迷いましたが、
 
「やはり夢を追います」
「わかったわ、じゃあ、これが最後のアドバイスになるよ。メグミは私のように甘くないよ」
 
 これは九年前にエレギオンに勤め始めてすぐわかりました。ルナも女王ですが、小山社長はまさに氷の女帝です。怖いのはもちろんですが、その判断力、実行力は驚異的だったのです。さらに社員はエレギオン・グループの精鋭部隊。最初はあまりの仕事のハイ・ペースぶりに戸惑わされたものです。

 慣れて来るとわかるのですが、エレギオンHDには小山社長が絶対の信頼を置く三人がおり、合わせて四女神と畏怖されています。そう立花副社長、結崎専務、香坂常務です。彼女らは常人じゃありません。立花副社長はニコニコと微笑みながら、結崎常務は煌々と輝きながら、香坂常務は静かに穏やかに信じられない仕事量をアッサリとこなしてしまうのです。

 だから下からいくら仕事を上げても滞るとことがまったくありません。それだけでなく、どうしたらわかるのか未だに不明ですが、彼女らはトラブルが起りかけているところが察知できるようで、さっと舞い降りて瞬く間に解消してしまいます。

 そのうえあの美貌と若さ。マリーも定番の大失敗をやらかしました。入社の挨拶を小山社長にした時ですが、
 
「六年ならまずまずね。ルナが仕込んでいるなら即戦力で期待してる。シノブちゃんのところでまずは見させてもらうわ」
「社長、シノブちゃんとは」
「結崎専務よ。話は通してあるから挨拶に行ってらっしゃい」
 
 専務室には不在だったので秘書に聞いた所在地に向おうとしましたが、ちょっと迷ってしまい、制服姿の若い女性社員に案内を頼みました。腰の低い親切な方で部屋までわざわざ連れて行ってくれましたが、部屋に入った瞬間に何が起ったかわからなくなりました。部屋中の社員が一斉に立ちあがり、
 
「おはよございます」
 
 聞くと結崎専務でした。結崎専務はニコニコしながら、
 
「名札は確認するように」
 
 とにかく四女神は油断なりません。とくに立花副社長。あれだけの仕事をやりながら、新入社員をからかって回られます。それも念入りに罠をこしらえてです。同僚に聞くとみんなやられてるみたいで、通過儀礼みたいなもののようです。

 九年の歳月が過ぎ、マリーは出世階段を駆け上がって行き最高業務責任者(CBO)まで任じられました。社内の評判として実質的なナンバー・ファイブと見なされてますし、あの木曜会のメンバーに名を連ねるのも時間の問題とさえ言われています。

 それだけの実績と能力を示してきた自信があります。今なら社長や副社長はともかく結崎専務や香坂常務に近い実力を持っているはずです。いや今ならマリーの方が上ではないかとさえ思っています。

 
 そんなある日に社長に専務室に呼ばれました。ここも少し説明が必要なのですが、エレギオンHDには社長室も副社長室もありません、あるにはあるそうですが香坂常務は、
 
「あの部屋は事情があって使えないのよ。お二人の悪さの度が過ぎたから」
 
 それ以上は教えてくれませんでしたし、他の社員に聞いても詳しい事情を知る者はいませんでした。その代りに、専務室と常務室のところに紙が貼り付けてあって、
 
『ユッキーとコトリのお部屋』
 
 九年勤めても謎の多い会社です。それはともかく、
 
「マリーに頼みがあるのだけど・・・」
 
 聞くとトップ・フォーがそろって旅行に行きたいから、マリーにその間の留守番を任せたいが自信はあるかでした。
 
「十五年前に長期バカンスを取った時にはシノブちゃんに任せたけど、かなり大変だったみたいよ」
 
 これはあのクルーズの時のお話です。あの時は最終的に八十日に及ぶ大バカンスで、結崎常務にも聞いたことがありますが、
 
「長かったから、ちょっとね」
 
 でも今回は、
 
「長期バカンスですか」
「そうねぇ、出来たら一週間ぐらいしたいけど」
 
 社長が企画されているのは国内の温泉旅行。それも近場です。
 
「できるだけ余分な仕事は回さないようにしておくし、もしマリーが無理だと感じたらSOSを送ってね。その時は旅行を中断して帰るから」
「御心配には及びません。安心して旅行を楽しんで来てください」
 
 見送りの時に驚いたのは加納さんが現れたことです。たしかクルーズの時に香坂常務に六十五歳と教えられて驚いた記憶がありますから、今はもう八十歳になられてるはず。でもあれが八十歳。どこをどう見たって二十代半ば過ぎ。十五年前に見た時からまったく歳を取られていません。

 それはともかく、結崎専務が八十日間留守番しても出来る業務なら、一週間なんて楽勝のはずです。自信満々で留守番業務を始めました。これも内心ぞくぞくするほど嬉しかったのですが、留守番中は臨時の肩書ではありますが、
 
『社長代行』
 
 九年目にしてエレギオンHDのトップに仮にでも到達しているのです。この留守番業務を無難にこなせばあの木曜会メンバー入りだって夢じゃありません。ひょっとしたら、そのための最終試験とも思っていたぐらいです。

 
 でも蓋を開けると初日から悪夢でした。働いても、働いても仕事は減るどころか溜まるばかり。社長代行として優雅にお昼休憩どころの話ではなく、日付変更線を越えても終りそうになかったのです。とにかくこの日は無理やり一区切りとして帰宅しています。

 どこかに甘さがあったと反省し、翌朝は朝からあらん限りの気合を込めて仕事を始めましたが、状況は悪化するばかり。仕事はますます積み上がり、さらに昨日下した判断の問題点も次々に浮上し、その処理にも追われまくります。社長秘書も付いてくれていたのですが、
 
「社長はいつもこれだけの仕事を」
「いえ、旅行をされるので三分の一ぐらいに絞られています」
 
 げっ、
 
「いつ寝ておられるの」
「たいがいは四時ぐらいに仕事は終られ、終業時刻とともに帰られます」
 
 げっ、げっ。社長秘書だけでなくマリーの秘書、副社長・専務・常務の秘書まで加わって、六人がかりで仕事の整理、段取りをしてくれるのですが、どうみても問題はマリーの処理速度。午前様に突入した時点で、無理やり区切りを付けたものの、二日分でやり残している仕事のヤマを見ながら絶望感しか湧いて来ません。

 ヤケクソ状態で三日目に突入。状況はさらに悪化します。マリーのパソコンには、マリーが判断を下すべき仕事が次々と増え、ちょっとでも甘い判断を行ったものは突き返され、そっちの対応にも追われまくられます。少しでも仕事を減らすために、そのまま徹夜。四日目を迎えて秘書団は、
 
「社長代行、僭越ながらご意見させてよろしいでしょうか」
 
 朦朧状態のマリーは、
 
「かまわないわ」
「社長代行は昨夜は一睡もされておりません。そんな状態では判断ミスが増える懸念があります」
 
 懸念どころか、昨日下した判断で突き返されたものがうず高く積まれています。
 
「社長はもし社長代行の業務に支障が生じた時には、我々に速やかな報告を求められております」
「まだ四日目だよ」
「はい、もう四日目です」
 
 マリーにもプライドがあります。結崎専務が八十日間もこなせた業務なのです。たった四日で音を上げてどうするのです。
 
「今日一日がんばらせて。それでダメたっら、自分で社長に連絡する。あなたがたが今の時点で報告しなかった点については、全部マリーが責任を取る」
 
 しかし無駄すぎる努力になりました。状況はひたすら悪化するのみ。疲労困憊のマリーは、ついに決断しました。
 
「小山社長、マリーです」
「どう、なんとかなってる」
「それが・・・」
「そうなの。それじゃ、しょうがないわね。明日には帰るわ」
 
 翌日の昼頃には帰って来られ、
 
「マリーも疲れてると思うけど、今後の参考になるかもしれないから、良ければ見ときなさい。これぐらいはルチーン・ワークだよ」
 
 その日のうちにマリーが溜め込んだ仕事を綺麗サッパリ片付けてしまわれました。
 
「今日はこの辺にしておくわ。明日はルチーン以外の仕事も片付けなきゃいけないしね。マリー、留守番ご苦労様。もう五時だから帰っていいわよ
 
 やっぱり社長は人間じゃない。社長はディスプレイを五面並べて、これを猛烈な速度でスクロールさせてます。あれで何がわかるかとしか思えないけど、
 
「これはダメ、やり直し」
「これは、さらにこうさせなさい」
 
 ディスプレイを見ながら次々に指示が下って行きます。マリーも内容を確認させてもらったのですが、重箱レベルのことまで踏まえた指示が出ています。後日、香坂常務に聞いたのですか、
 
「あそこまでの芸当が出来るのは社長と副社長ぐらいかな。シノブ専務や、ましてやミサキになるともう少し時間がかかるわ」
 
 頼み込んで香坂常務の仕事ぶりを見せてもらいましたが、たしかに社長より遅いかもしれませんが、あれはどう見ても流し読みしてるだけ。あのレベルで完璧に仕事が出来ないとエレギオンHDの留守番なんて出来ないのを思い知らされました。
 
「マリーもそのうち出来るようになるよ。社長も期待していたわよ」
 
 期待っていわれても・・・あれが出来るから、あれだけの仕事量をこなせるのはわかるとしても、あれがどうやったら出来るのか見当さえつきません。四人は仕事に戻ると溜まっていた仕事をサラサラと片づけてしまい、
 
「マリー、四日間も頑張ったのは根性ね」
 
 これが褒め言葉とは思えませんでした。これじゃ、木曜会メンバーなんて夢のまた夢みたいです。もっともマリーへの周囲の評価はかなり違って、
 
「四日間も四女神の仕事を代行出来たのはさすがだ」
 
 実態はそうじゃなかったといくら説明しても、
 
「自慢できる実績だよ」
 
 立花副社長まで、
 
「エエ経験したやろ。また五人で遊びに行きたいから、もうちょっと勉強しといてね」
 
 またがあるかもしれないんだ・・・

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