ジーンズとデニムとは?その違いについて
普段、当たりまえ過ぎるほどに履いているジーンズ。
でも、ジーンズとデニムの違いや、それらが何なのかを意外と知らない人の方が多いのではないでしょうか?
今回は、そんな方々の頭の中を整理すべく解説させて頂きます!
ジーンズとは
ジーンズとは、デニムなどの厚手の生地素材を使ったパンツ(ズボン)のことを指します。リベットなど金属製付属品による補強、ヨーク等を使った直線的な型紙、特殊なミシン設備を用いた頑丈で効率的な縫製をされた構造上の特徴があります。
ジーンズの語源は、イタリアの港町「ジェノバ(Genova)」に関係していると言われています。イタリアのジェノバから来た船員たちが着ていたズボンをアメリカの人たちがジェノバ製という意味の「ジェンズ(Genes)」と呼んでおり、その後、ジーンズの特徴をもって作られはじめたズボン類も(当初リーバイストラウス社から発売された商品名は「ウエスト丈のオーバーオール」でしたが)、同様にジェンズと呼ばれるようになり、それが次第に「ジーンズ」と発音されるようになったとされています。
デニム生地だけでなく、本来はコットンチノなどのパンツなどもジーンズと呼ぶこともあるんですよ。
デニムとは
デニムとは、ジーンズなどに使われる、厚手の綿の綾織物(あやおりもの)のことで、生地(布地)の一種になり、一般的なデニムは、インディゴ染めのたて糸と染色されていないよこ糸で織られています。
デニムの語源は、フランス南部のニーム地方で生産された厚手の綾織物(サージ)を指す「セルジュ・ドゥ・ニーム(Serge de Nimes)」という言葉からきており、これが転訛して「デニム」となりました。
※ 近年、ファッション誌などでデニムパンツ(ジーンズ)のことを「デニム」と呼ぶケースが増えていますが、厳密には、「デニム」は「製品」ではなく「生地素材」を指す言葉になります。
ジーンズとデニムの違い
デニムとジーンズの最も根本的な違いは、デニムは「生地素材」であり、ジーンズは出来上がっている「製品」であるという点です。
実際には、ファッション誌などを中心にジーンズなどデニム製品のことを「デニム」と呼ぶことが一般的になりつつあるように感じるので、事実上、「デニム」という言葉は、デニム生地を指す場合とデニム製品を指す場合がある(両方の意味をもつ)といっても良いかなと個人的には思っています。
ただ、厳密な意味では、「デニム」というのは(ジーンズの一般的な素材である)布地のことを指し、「ジーンズ」と同義ではないということは知っておいてもいいかもしれませんね。
起源や由来
以下ウィキペディアより
デニムは「(フランスの)ニームの綾織り」といった意味の表現である。ニームの地のアンドレ一族がすぐれた綾織りの布地を作っており、布地はしばしば産地の名で呼ぶ習慣があるので、この表現の「de Nîmes(「ニームの」「ニーム産」という意味の部分)」だけを残す形で短縮され、「denim」という表現が生まれた。また、この「セルジュ・ドゥ・ニーム」と呼ばれる生地はイタリアのジェノヴァから各国に輸出されたので、産地の「ジェノヴァ」を指す表現は、中世ラテン語では「Genua」と呼ばれ、当時のフランス語(中世フランス語)では 「Gêne(ジェーヌ)」であり、この中世フランス語「Gêne」が英語に入り「jean」という表現が生まれた。
日本では、「Gパン」という呼び名がある。これは『G.I.(アメリカ軍人の俗称)が履いていたパンツでGパンとなった』とする説、『ジーンズを日本に紹介した人物が、ジーン (jean) のパンツの意味で「Jパン」と名づけようとしたが、元の発音に近い「Gパン」を代用した』とする説、『「ジーン生地のパンツ」を略して「ジーパン」となり、「ジー」に「G」を当てて「Gパン」となった』とする説等がある。
ジーンズが生まれた理由は、ゴールドラッシュに湧く北米の鉱山で働く多くの鉱夫の悩みのひとつは、作業中にズボン(パンツ)がすぐに掏り切れてしまうことだった。1870年、仕立て屋のヤコブ・デービスは、既に設立されていたリーバイス社のリーバイ・ストラウスから仕入れたキャンバス生地を用いて銅リベットでポケットの両端を補強した仕事用パンツ(ワークパンツ)を発売し、これが鉱夫らの好評を博した。ジーンズは最初、鉱夫らの作業着であった。
類似品が出回ることを危惧したヤコブは、このリベット補強済みパンツの特許を取得しようとしたが必要な資金が無く、権利を折半するという条件でリーバイ・ストラウス社に特許申請を依頼し、特許申請は1873年5月20日に受理され、この「リベット補強済みパンツ」はリーバイ・ストラウス社製の製品として製造販売された。このパンツがジーンズの原型である。
ジーンズを着用して働く労働者たち(1933年ころ、メリーランド州)
1890年に「リベット補強済みパンツ」の特許は期限が切れ、そのアイディアは社会の共有財産となり、誰でもそれを製造してよい状態となり、多くの会社がリベット補強のパンツの製造・販売を開始した。
ジーンズの特徴のひとつである(特に擦り切れやすい箇所である)ポケット端を補強するリベットボタン。古くは銅製だったが、今では真鍮製が多い。
1900年代に入り、素材はキャンバス生地からインディゴ染めのデニム生地へと変遷し、縫製技術の進化等により1940年代には現在のジーンズとほぼ同様のデザインとなった。
1953年の映画『乱暴者』で主演のマーロン・ブランドがLevi's 501XXを、1955年の映画『理由なき反抗』でジェームズ・ディーンがLee RIDERS 101を着用した。これを見た若者が影響を受け、ジーンズは(米国の若者なりの主張を込めた)ファッションとして普及していった。当時米国では「反抗的な若者の象徴」と見なされたため、ジーンズの着用を禁止する学校が多かった。
現在では、単にカジュアルウェア、カジュアルウェアの中でもかなりくだけたもの、として着用されることが一般的で、1950年のように象徴的な意味が意識されることはほとんどなくなった。ただし、一般に正装とは見なされない。式典、格式の高いパーティなどではドレスコードで「ジーンズ着用者は入室禁止(参加不可)」とされることはしばしばある。また、一部では「アメリカの象徴」とされることがあり、韓国と北朝鮮の軍事境界線にある板門店では、ジーンズを穿いた韓国側からの観光客を、北朝鮮が「韓国はアメリカの手先」とプロパガンダに利用する恐れがあるとし、着用を一切許可していなかったことがある。
日本では1945年の敗戦後にアメリカ軍 (GHQ) が放出した古着の中の大量のジーンズ、そして一気に流入したアメリカの映画や音楽等が普及のきっかけとなった。敗戦後の占領時代、闇市だったアメ横の店には、米兵相手の娼婦たちが客からもらった中古衣料を売り払いに訪れ、その中にあったブルーの作業スボンをその界隈ではGIパンツ、通称ジーパンと呼んだ。日本人ではじめてジーンズを着用した人物は白洲次郎である。外交官だった白州は1930年代にアメリカでジーンズを知り、戦後PXで購入したジーンズ姿で寛ぐ写真が1951年に公開され、日本中に知れ渡った。
1956年、日本で初めてジーンズを輸入販売したのは港区北青山一丁目に在った栄光商事(後のEIKO)である(その後は米軍やその家族の放出品であるセコハンジーンズを扱う店がアメ横に登場)ロカビリー歌手やGS(グループ・サウンズ)の人気グループ御用達の店として、また長きに渡って一般客にも愛された。1957年には輸入衣料の規制が緩和され、栄光商事や大石貿易がリーやリーバイスと販売契約を結び、大量のジーンズが日本に流入した
国産(日本での製造)のジーンズ生産の発祥としては、1958年に岡山県倉敷市児島のマルオ被服(現:ビッグジョン) が受託生産を開始。マルオは学生服製造の傍ら、アメ横の米軍放出品販売店から持ち込まれるジーンズの丈直しを手掛けていた関係から、早くからジーンズ製造に関心が高かった。1960年にマルオ被服が日本で最初のジーンズの生産発売を開始。同年に千葉県の高畑縫製がジーンズのEIGHT-Gを生産販売。(「1961年に東京の常見米八商店(現:エドウイン)**が初めての国産ジーンズを販売した」とする説もあるが、当時アメリカ中古ジーンズの販売を行っていた常見米八商店は息子をジーンズ生産の技術を学ぶために縫製会社の取引先であったマルオ被服に弟子入りさせていたので、エドウインが初の国産ジーンズを生産販売したという説はあいまいである。)
以上、ここまでは史実上少しあいまいな部分があるので、日本の国産ジーンズの起源と確実に呼べるのは、国産ジーンズの歴史上かかせない全国での初ヒットモデルCANTON「キャントン」である。「キャントン」は、1965年にマルオ被服が、アメリカの中古ジーンズを販売していた大石貿易と取引のあったキャントンミルズ社のデニム生地を買い国内で生産発表したジーンズの名である。大石貿易はいち早くアメリカ産デニムの独占輸入権を取得しており、1964年にジョージア州の布地会社キャントンミルズをパートナーに東京工場で日本市場向けジーンズ「キャントン」を作り始め、その西日本での製造販売契約をマルオと結んだ。当時の日本人には肌さわりが悪くゴワつくジーンズは受けいれられなかったため、マルオ被服 は「ワンオッシュ」という現在のジーンズ生産に重要となる技術を世界で初めて採用し、現在の日本製ジーンズだけでなく世界のジーンズ技術の礎となった。当初、マルオのワンオッシュジーンズは洗濯済みの商品を並べることに抵抗のあった百貨店からは拒絶されたが、1967年にマルオがビッグジョンのブランド名で米国コーンミルズ社のデニムを使った国産ジーンズをデビューさせると値段の手頃さもあって好調に売り上げた。その後1971年には1500万本のジーンズが売れ、1973年には4500万本と日本国内のジーンズ市場は急拡大を見せた。一方で、1970年に米国で布地の輸出が規制され、さらに1971年のニクソン・ショックによる円高でアメリカ産デニム生地は品薄・価格高騰となり、クラボウは広島のカイハラと組んで国産デニムを開発、アメリカ産と遜色ない出来に米国リーバイスからも発注を得た。1972年にはリー・ジャパン(堀越商会)、ラングラー・ジャパン(ヴァン・ジャケット、東洋紡、三菱商事)が設立され、日本ブランドもビッグジョン、エドウィン、ボブソン、ジョンブル、キャピタル、ベティ・スミス、バイソンなど多数出揃い、1970年代半ばには大手三社だけで300億円近くを売り上げる市場規模に成長。
現在の日本でのジーンズ生産量1位の地域は、岡山県。(岡山県はビッグジョン が所在している)。
1970年代以降は男性のみならず、若い女性もジーンズをはくようになった。1977年に大阪大学でアメリカ人講師がジーンズを履いた女学生を教室から退室させたことから「阪大ジーパン論争」が起こった。この論争は「ジーパンは作業着で、女性には似つかわしくない」という講師と「ジーパンはもはやファッションの一部」という女学生の主張が真っ向から対立し、最終的に講師が阪大を去るという結果となった。
1980年代には1950年代のリーバイス501などビンテージジーンズのブームが始まり、アメリカの古いジーンズが大量に輸入され、1990年代には数十万円を超える高価で取引されるまで沸騰。それにともなって、ビンテージモデルを再現した新しいジーンズのリリースも始まった。1980年にビッグジョンが日本初のセルビッジ・デニムを使ったビッグジョン・レアを発売(布幅の狭いセルビッジデニムは手間がかかり大量生産に向かないため本国米国では廃れていた)、売上的には失敗したが、そのセルビッジ・デニム開発を手掛けたクラボウはその自社デニムをフランスのブランドに販売、このフレンチ・ジーンズをきっかけに、1987年にはリーバイス・ジャパンはクラボウのデニムを使って自社の1936年型501XXのレプリカモデル701XXをリリース。大阪アメリカ村では、のちに「OSAKA5」と呼ばれる5つのショップが相次いでレプリカジーンズやビンテージの風合いを持つジーンズをリリースした(1982年田垣繁晴ステュディオ・ダ・ルチザン、1988年林芳亨ドゥニーム、1991年山根英彦エヴィスジーンズ、1992年辻田幹晴フルカウント、1995年塩谷兄弟ウエアハウス)。なお、セルビッジ・デニムを復活させたクラボウはその後も開発を続け、1985年に、大量生産時代以前のムラ糸(ジーンズ愛好者が好む「縦落ち」と呼ばれる色落ちを可能にする)を現代の技術で復活、セルビッジ・デニムでは日本は世界をリードするに至った。
こうしたビンテージにこだわるレプリカジーンズは世界的となったが、2007年にリーバイス・ストラウス社が日本のジーンズメーカー10社以上を商標権侵害で訴える騒ぎがあり、レプリカブームは過ぎ去った。セルビッジデニムを使った高額なプレミアムジーンズのブームも終わり、2009年にはGUが990円のジーンズを売り出し話題となった。
以上
最後に
起源や由来はかなり長い文章ではありましたが、
ジーンズとデニムの違いや意味をお分かり頂けましたか?
これを知っておくことで、買物に行くときに販売員とスムーズなコミュニケーションが取れたり、効率的なファッションを楽しめる要素にも繋がると思いますので、是非活かしてみてくださいね(^^)
みなさんの応援を有益な価値にできるよう、これからもたくさんの情報を発信していきます!