テラスハウスと人間の感性
テラハ出演者死去の一報が入り、案の定、1,2時間でトレンドにも上がる話題となった。誹謗中傷というワードも数多くツイートされている様子。
匿名アカウントからの個人への中傷というのが、当然大きいパートを占めて問題視されているが、コンテンツ、つまり番組制作についても考える余地が大いにあると考える。
おそらく、テラスハウスは終わる。視聴者からのバッシングだけでなく出演者サイドがもはや出たい番組ではなくなる。世に出るきっかけとしてもメリットが限られている。
此処から云々と御託を並べるより、今回の件で思い起こした著書の一節を(長めに)引用したい。
明日の記者会見はさ、マスコミとしては、オレが瀕死状態で口も聞けないぐらいで出ていくのをほんとは期待しているんだ。人間、やっぱり他人の不幸が楽しいんだ。
見舞いの手紙をくれた人やファンの人や身内の人たちはともかく、マスコミの連中とそれを見る連中は、とにかく入院が長引いてくれ、できれば容態が悪化して死んでくれないかって思っているのは間違いないね。そういう魂胆だよ、連中は。
「早くよくなって、普通の生活と仕事を始めてください」
なんて口ではいうけどさ、それは単なるお決まりの儀礼的な挨拶に過ぎないよ。関係ないヤツが死んだ時でも、
「ご愁傷さま」
っていうのと同じ、その程度のことだよ。どう考えても、オレが回復して退院したっていうニュースよりも、容態悪化で危ないって記事の方が売れるんだから、絶対に。
そういうレベルで人はメシを食って生きているんだ。しかも、そうやっていても、少しのバチも当たらない。
まあ、自分も含めてだけど、そういうネタを売り買いして仕事している連中というのは、何も真剣に思い詰めて考えてやしないんだよ。
「他人の不幸を記事にするなんてことはしてはいけない」
なんてことを考えているヤツはいない。
しかし、肝心なのは、
「そういうお前らでも、ちゃんと死ぬ時はくる、その時のことを考えておけよ」ってことなんだ。どんな馬鹿でも死ぬ時はくる。
「あんまり馬鹿なもんで、生かされ続けた」
っていうヤツはこれまでいないんだ。じつに、死ぬという事実は平等だからね。これほど平等なことはない。
人間って本当に不出来なんだなって思うのは、結局、善意の方法と悪意の方法があるとして、善意の力ってほとんどないんだよ。自分の身に降りかかってこない限り何も他人や社会のためにやらないでしょうが。例えば、家族から銃の犠牲者が出てこないと、銃の規制に取り組むことはないんだ。
結局、自分で痛みを感じたヤツが「それは許せない、嫌だ!」って主張するだけであって、なかなかボランティアとか善意ってのは力を持てないね。嘘の善意でもないよりはマシかもしれないけど。
どっちかっていうと、他人の不幸を見て楽しんじゃってる、もっと不幸を見せてくれっていう部分があるよ。それが今生きている人たちの基本形じゃないかと思うね。
結局は、オレが健康になって、テレビに復帰して、
「ありがとうございました。みなさんのご支援のおかげです」
っていってる姿を見るよりは、
「たけし廃人になってタレント生命が終わった」
っていう方を見たいわけだよ。それは雑誌の書き方を見たって何にしたって同じでさ、結局はそっちがいいんだ。他人の不幸を見ることによって、今の自分がどんな位置にいても慰められる。
「あれに比べればいいんだよ」
って。売れない芸人だって、オレの悲惨な姿をみれば、
「駄目になったたけしよりは、健康で芸人人生を続けていられる自分の方が幸せだ」
って思うところがあるからさ。
そういう感性ってのは、決して他人ごとではなくてね、オレなんか、えてしてそういうところがあるんだ。テレビを見てて、白血病の子供を持った親の大変な姿を見ると、
「これに比べりゃオレの方がいいな。まだ顔面麻痺の方が気楽だぜ」
って思ってしまう怖さってあるんだ。トラックに追突されて一家五人が死亡ってニュースを見ると、かわいそうに思うだけ、余計に自分が幸運に感じてしまう。しかも、もっと怖いことに、無意識のうちに、
「もっと不幸なヤツはいないかな」
と探している時さえあるんだから。他人のどんな悲惨な様子を見ても、身につまされないっていう感性。
そういう感性があまりに根深いから、人間ってのはそういうふうにできちゃっているのかなって思うことがあるくらいだ。そんなふうにできているからこそ、出世争いだとか、家柄争いだとか、いろんな差別のタネがマンエンしている。本当はその逆なんだろうが。金と財産による差別ってのが完全に始まってるし、あらゆることに差別はある。 - 「顔面麻痺」ビートたけし
「他人の不幸を見る人間の感性(習性)」を、名もなき人の誹謗中傷のコメントに置き換えることもできる。ただここでは、これはテラスハウスという番組のフォーマットが人間の習性を利用したものだったということも思い出したい。YouTubeで毎週やるようになった山チャンネルも出演者のピックアップもどこかに意図が感じられる。
テラスハウスという箱とそこで踊る人たちを、私たちはときに羨望の眼差しで、そして見下しながら毎週火曜を心待ちにしていたのだと思う。
最新話まで見ていたファンのひとりとして制作の非難というより、「人間の習性とこのフォーマットの組み合わせの良さ」と同時に隣り合わせにあるリスクが露呈されたところから考えたい。「ご愁傷さま」という何でもない言葉とともに。