「不便とヒマ」がなくなったお正月に、改めて人間関係の有り難さが身に沁みる
あけましておめでとうございます。
12月31日から1月1日に日付が変わった瞬間に、年末が年始に、終わりが始まりにドラスティックに変わる。そんな瞬間はなかなか面白くて、今も若干の違和感と不思議な感じがする。
今日は初めて深夜0時まで起きていた息子と新年のカウントダウンをしたあと、着替えてそのままジムに向かった。いつもならこの時間でも、3〜4人のマッチョマンが筋トレに励んでいるものだけど、今日はさすがに誰もいない。マッチョマンたちも正月は休むようだ。
その後、ジム近くの24時間営業のスーパーに行ってみた。
さすがに今日は休みだろうと思いながら、のぞいてみると…
や、やってるーー……!!!
元旦の深夜2時にスーパーが普通に営業している。
すごい世界になったものだ。
元旦営業の店が増えて久しい。数年前は元旦に休まずにいつ休むんだと思っていたが、ここまで元旦営業が増えれば、もう普通の正月の風景という他ない。
「不便でヒマな正月」は過去のものとなっていき、その中で生まれた正月の風習も、形骸化したり消えていく。おせち料理はまだあるとしても、羽子板や凧揚げは、自分らがギリギリ実体験した最後の世代になるんだろうねぇ。
このように「不便とヒマ」をほぼ克服しつつある僕らはどうなっていくのだろう、と元旦営業のカフェで一人考えた。
高度に発達したインフラとネットで、(正月ですら)不便とヒマがなくなった世界。一人でも衣食住は金を出せば不自由なく手に入る。ヒマな時間はスマホでも見ていれば満たされる。物理的な距離関係なく、好きな人とはすぐに連絡がとれる。
そりゃ人々は草食化するし、未婚率や離婚率は増えるし、飲み会のような付き合いに参加しない若者も増えるはずだ。
そんな状況で、わざわざ好きでもない人に気を使ったり、会いたくもない人に会うような「コスパ」も「タイパ」も悪いことをしたくなくなるのは、合理的に考えれば妥当といわざるを得ない。
結婚であれ、仕事であれ、地域のような共同体であれ、人が集まるのは、集まることによって一人ではできないことを可能にするためであり、一人だとヒマで寂しいからだろう。「不便とヒマ」は人を集める接着剤のようなものだ。
そんな接着剤から解放された僕ら。自由で素晴らしい!
ともいえるけど、逆に接着剤から「追放された」ともいえてしまう。煩わしい人間関係を省き、地縁も血縁も薄くなっていく世界。そんな自由の代償は、人々はバラバラになりやすく、人間関係すら「自己責任」となり、気を抜けば孤独になってしまう世界だ。
接着剤が強かった時代、人間関係によって人生の大部分が決まってしまった時代の人たちの話を聞くと、僕らは窮屈に感じるが、頑張らないと人間関係も所属先も得られない現代も、だいぶ大変ではあるまいか。自由と孤独は表裏一体。自由を謳歌できるようになった僕らは、同時に孤独に怯え続けて生きていくこととなった。
ゆえにそんな時代にあっても、良い関係が築けている人がいることは、実に幸運ではあるまいか。僕がカフェで一人の時間を楽しんでいられるのも、そんな人たちのおかげだ。こんな時代だからこそ、関係性の有り難みが、今まで以上に身に沁みる。
「やっぱり家族は大切だな」
最終的にはそんなことを再確認できる、良い元旦であった。
皆さん今年もどうぞよろしくお願いいたします。