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「生まれ持った性格や能力」を認めること

リモートワークにより通勤時間がゼロになった上に、幼稚園が春休みということで妻が子供を連れて一時的に実家に帰るため、今日からしばらく1人の時間が大幅に増えました。特に朝は6時には起きているので、散歩してコーヒー飲んでニュースを見ても時間が結構余ります。

これほど落ち着ける時間はそうそうないので、自分が常々考えていることをちょっとずつnoteに書き残すことを始めてみることにしました。

アクセス数は気にせず、時事ネタや派手なタイトルなども控えますが、他人でも読める文章を意識して書こうと思います。

最初は、「生まれ持った性格や能力」について。

長女の「挨拶への恥ずかしさ」からの学び

僕には今、娘が2人います。彼女らを育てている中で学んだ、僕の考え方に大きな変化を与えたものがいくつかあり、その中の1つが、「生まれ持った性格や能力」の強さです。

うちの長女は今、「他人へ挨拶やお礼を伝えること」に対して恥ずかしさがあるようで、親から促さないとなかなか言えません。

もちろん挨拶・感謝の意味や大切さはよく伝えています。いずれは理解してくれるでしょうし、少しずつできるようにはなっていますが、まだまだ恥ずかしいようです。(追記:少し成長してからは普通に言えるようになりました)

一方で、躊躇なく挨拶するような子供も見かけます。そんな子供を持つ親から見たとき、「挨拶をしない = 挨拶の教育をしていない」と捉えてしまってもおかしくはありません。というか、一度自分の親からも軽く苦言を呈されてそれを感じました。

逆に、長女は言葉の理解力は元々高めなようで、大人と遜色ない会話や想像をし、言葉そのものへの好奇心も強い。昨日も「新幹線の『新』って何?『新型』の新と同じだね」「新が『新しい』なら『幹線』って何?」と次々に聞かれ、最終的にGoogleに頼らされることも多々ある。

そのような個々の性格や能力は、僕も子供を持つまでは「教育の仕方」に強く左右されるものだと思っていましたが、子供のうちは特に「生まれ持ったものが非常に強い」と気付かされました。長女と次女でも既に違うのが反応でわかるので、他の子ならさらに違うのは当然です。

それぞれに、生まれ持った個性がある

もちろん後から身につけたり変えられるものもたくさんあります。有名な研究では、「気質(新奇性探求、損害回避、報酬依存、固執)」は先天的寄りで、「性格(自己志向、協調、自己超越)」が後天的寄りということも言われているようです。(このnoteでは「性格」にまとめちゃってます)

が、少なくとも子供のうちは、個人間や同じ親の子供間ですら大きな違いがある以上、「生まれ持った性格や能力を認めること」は必然だと感じます。

よく「個性を認める」や「多様性を認める」というフレーズを聞きますが、言葉だけだと意味が腹落ちしにくいと思っていました。でも子供を育てることで、それらの理解がグッと深まった気がします。自転車の乗り方を言葉では理解していたけど、練習して体で覚えたような感覚。

そしてその理解が深まると、自分や子供、他人やその子供に対して、強引に自分の理想に近づけようとするのではなく、「その人の持つカードで何ができるか」を意識するようになる気がします。それは諦めではなく、効率的な前進です。

また、相手自身の悩みや課題、子育ての苦労などを聞いたとき、より相手を思い遣ることにも繋がります。1人1人が全然違う以上、たかが数人育てたぐらいでは、他人の子育ての悩みに対して的確なアドバイスはできない。それを理解できるので、「自分は頑張れたんだから、甘えるな」なんて怒ることなく、相手の事実と感情に寄り添ってあげられる気がします。

大人になってしまうと、全てがコントロールできるような気になってしまいがちです。僕も子供を持たなかったら偏った考え方になっていたかもしれない。生き方が多様化しているからこそ、多様性を認めるのが難しい時代になっているのかもなーといったことを、さっき散歩しながら考えてました。

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