作為と無作為とアイデンティティ
環境が人間を形成するのか。
将又、人間が環境を作り出す(もしくは、適合する環境に身を置こうとする)のか。
AB型の人間は、世間的に「変わり者」と称される。無論、バーナム効果的なそれで、実証性に欠けた話題であるが。それは世間的な寓話に過ぎず、その実証性を必要とされているわけではない。飲みの場の話である。
アイデンティティ・クライシス
アイデンティティとは何か、特段教わったわけでもなく、突然「単語」として"覚え"させられた"覚え"がある。
モラトリアム、マージナルマンと並列的に、この青年期最終盤における、人間的な試練。あのとき、自分自身に矢印を向け、結果的に自分自身を苦しめる、という試練が自らの身に起こりうるとは、つゆも期待していなかった。
憧れの大人がいる。
楽に流れず、利を見定め、効果的な自己犠牲を追求する。
周囲とのコントラストが強かろうと、己の色を保つ。
しかし、不要な波風を立たせることはしない。
むしろ、コントラストの中に調和すら見出してしまう。
合理性に欠くことなく、自らの言葉で説明できる。
万人ではなくとも理解できるものが自ずと現れる。
地位や名誉を求めていない。
作為性がない。
でも、どこか人間臭い。
万人受けはしない、直接的な言葉遣いに惹かれる。
喜怒哀楽を素直に表現する。
面倒臭いことを嫌う。だが、為している。
「きれいごと」の利便性に、決して屈しない。
そんな方に近づきたい。
なんとしても、そうなりたい。
その方を喜ばせるためではない。自分がなりたい。
そうなるために、どんな手段を執るか。
どんな手段を講じることが、今の環境でできようか。
僕が求めるのは、作為性のない人物。
それは目的意識が欠如しているのではなく、「わざとらしさがない」というのが近いのかもしれない。
このとき、作為性とのジレンマに襲われる。
目的のための手段、としての作為性。
目標とする大人の要素を体現する、真似る、作為性。
しかし、目標は作為性を排除した人物。
そのとき、自分という存在を消去するという手段が見つかった。
作為する主体を退場させることで、あたかも純粋に、目標とする人物に「はたらき」の要素だけでも近づこうとするのだ。
さあ、どうなる。
作為する主体が退場したこのとき、この呼吸をしている「何か」と、工場で必要な機能を装備するためのパーツを取り付けている未完成のロボットとを見分ける手段は何か。
呼吸をしなければならない、睡眠をしなければならない、食事を取らなければならない、社会に属さなければならない、簡単に廃棄できない、労働をしなければならない、義務に忠実に従わなければならない(この点ではむしろ差を認めることが困難かもしれないが)
前者に掛かる制約が多すぎる。後者の方が、余程優れている、そう思う。
作為性のない人物になる(目的)
作為する主体を排除する(手段)
これが誤りと気付くことはできる。
しかし、他にどんな手段を取れば良いというのか。
どんな手段があるというのか。
「作為性の見られるもの」に対し、一種のアレルギーを獲得していることに気がつくことがある。
これが、解決の糸口な気がしている。正攻法かどうかはわからない。
つまり、「マージナル・マン」が立たされていたのは、過去の経験から培われた「純粋な自分」と、これからの思い描く「理想の自分」との間だ。
「純粋な自分」を捨てなければ、「理想の自分」を獲得することはできない、と思っているのだろう。
過去の自分の否定したい事項の裏返しこそ、「理想の自分」なのかもしれない。
だから、足場のある「純粋な自分」を離れ、深い闇に閉ざされた奈落の上へと盲進する。
先のアレルギーは、「純粋な自分」の中に、「理想の自分」を強制的に植え付けると表現することが正しいのかもしれない。
それは、決してあらゆる理想を植え付けられるわけではない。
「純粋な自分」に備わっている土壌に合う、理想の要素に限定される。
限定されるが、あらゆる理想を植えることはできないが、理想の一端を「純粋な自分」の中に存在させることに成功し、錯覚的な安心を得ることができる。「このままでいいのだ、自分と決別する必要はないのだ」と。
理想が明確に、より具体化されるほど、朧げな安心で支えることができなくなる。
一種の攻防戦なのかもしれない。
だから、いつまでも頼っていては自分を苦しめてしまう。
モラトリアム
それは、攻防戦の許される、そして、攻防戦に晒される期間なのかもしれない。
作為の主体を退場させることの延長に、泉下の客となることを、手段として見出してしまうのかもしれない。
最も過酷な戦いに臨み続け、戦い続けなければならない。
“To be nobody but yourself in a world which is doing its best day and night to make you like everybody else means to fight the hardest battle which any human being can fight and never stop fighting.”
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