知識や経験が少なくてもいい?他社と比べない、自分らしくらしの「こだわり」の育て方 (前編)
「こだわり」って自信を持って言えるほどの何かが、自分にはない
そんなふうに思ったことはありませんか?周りを気にせず自分の世界でじっくり楽しめば良いはずなのに、SNSなどを見て「あの人に比べたら私なんて」と後ろめたくなったり、他者からの「イイね」をもらうことに躍起になってしまったり・・・・・・。どうしたら、外の情報に振り回されずに、自分らしい「こだわり」を育てていけるのでしょうか?
楽しいはずのこだわりが、他者との比較によってつらくなること、ありませんか
僕のこだわりは””珈琲”です。
学生時代から喫茶店・カフェ巡りが好きで、神保町の古書店で珈琲本を漁っていました。
サラリーマンになってからは焙煎士の養成講座に通いはじめ、開業を目指す仲間たちと共に、その道のプロフェッショナルを目指して切磋琢磨してきました。
ただ、そんな楽しいはずのこだわりが「ちょっとつらいもの」になった時期がありました。開業した仲間の店を訪れて「自分よりも素晴らしいこだわりをもっているな」と感じて落ち込んだり、SNSで僕より多くの”イイね”をもらったりする仲間を見て羨ましくなったり・・・・・・。
今ではそういった苦しさから抜け出せているのですが、ふと「あの頃はなぜ、周りのことを気にしてしまっていたんだろう?」と不思議に思うことがあります。そして今回、「かけがえのないあなたの、取るに足らないこだわり」というテーマに合わせて問いを考えたとき、「経験や知識の量、他者との比較と上手に距離を取ることが、自分にとって心地よいこだわりを育てるカギになるのでは」と感じたのです。
そんな思いを胸に、哲学者の鞍田崇さんにお話を伺いにいきました。近年あらためて注目を集めている「民藝」を手がかりに、物と人とくらしのより良い関係について「いとおしさ」というキーワードを用いて模索されている鞍田さんと「外界とうまく折り合いをつけながら、ただただ”いとおしい”と思えるこだわりの育て方」について、一緒に対話をしながら考えます。
知るのではなく、まず観る。「直観」から芽生える自分らしさ
長谷 芳教(以下、長谷)
本日はどうぞよろしくお願いします。僕は鞍田さんのことを『WEEKLY OCHIAI』で落合陽一さんと対談されているのを観て、初めて知りました。その時は「民藝と共生」というテーマで語られていて、「利便性が追求されすぎた現代は、身体性、手(て)的なものが急速に失われている」「名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具である『民藝』に、身体性を取り戻すヒントがある」といった発言に、とても共感したんです。
鞍田 崇さん(以下、鞍田)
ありがとうございます。こうやってじかに感想をもらえるのって、言葉に手触りが感じられて、一層うれしいですね。
長谷
鞍田さんは民藝の研究を通して、物と人とのよりよい関係や、手仕事的な行為の持つ意味について、鋭い考察をされています。それらが私の考えたい、くらしを豊かにする「こだわり」と深くつながるような気がして、今回こうしてお話を伺いにきました。
私にとってのこだわりは「珈琲」なのですが、一時期、外の情報や評価が気になって楽しくなったことがありました。インターネット上に知るべき知識があふれすぎていて追いかけるのがしんどくなったり、SNSにすごい人たちがたくさんいて「自分なんて大したことないな」と感じてしまったり・・・・・・そんな経験をしたことのある人は、きっと少なくないのではと思っています。
そんな背景を踏まえて最初の質問をしたいのですが、自分らしいこだわりを育てていくのに、外の情報や評価って、邪魔な存在なのでしょうか?
鞍田
そうですね・・・世の中には知らないこともたくさんあるから、外の情報がちょうどいい道しるべになっていることも多いでしょう。一方で、自分が未熟なまま受動的に外の情報ばかり頼りにしていると、自分が見えなくなるおそれもあります。そうなると、こだわりは育ちづらくなると思います。
長谷
自分が見えなくなる、のですか?
鞍田
知識や何らかの評価を参照することは物事を理解する上で、とても役に立つものです。ただ、それらはあくまで他者の価値観で語られているものであることも事実。そこに意識を持っていかれすぎると「自分自身にとってどうなのか、どう感じるのか」と、フラットに物事を感受するのが難しくなってしまいます。
「外の情報が邪魔に感じる」というのは、きっと内なる自分の感性が「余計なことにとらわれすぎじゃない?」とアラートを出してくれているのかもしれませんね。
長谷
たしかに「ずっと外の情報が邪魔」というわけではなかった気がします。むしろ、焙煎を始めたばかりの頃は、調べながら新しい情報に触れることにワクワクしていました。それが知らぬ間に、モヤモヤに変わっていたんですよね・・・・・・。
鞍田
そんな時に、頼りになるのが「直観」じゃないかと、僕は考えています。「感じる」ではなく、「観る」と書くほうの直観です。
長谷
直観ですか・・・・・・詳しく教えていただいてもいいですか?
鞍田
「民藝」という言葉をつくった哲学者の柳宗悦は、世間的な価値に左右されずにモノの本質を見極める眼差しとして「それは『直観』より発した」と再三彼なりの深い意味を込めて言っていました。
いろいろな情報を得ると、それが色眼鏡となって「観る」ことにバイアスがかかってしまう。だからこそ、人の評価に左右されないよう「まず、知る前に観なきゃいけない」と柳は説いていたんです。
そんな柳だからこそ、それまで誰も見向きもしなかった生活道具に「民藝」という価値を見出せた。言うは易しで実際はなかなか難しいことかもしれませんが、この「直観=ただ観る」という姿勢で物と向き合うことが、フラットな自分の心の機微を感じる糸口になるんじゃないかな。
一度で見限ったらもったいない。だから、まずは「愛して」みない?
長谷
「直観=ただ観る」という眼差しは、自分の心が動く対象、すなわち「こだわりの種」を見つけていくのに、とても有効そうだなと感じました。その直観は、どうやって身につけたり、磨いたりしていけるものなのでしょうか?
鞍田 そうだなあ・・・・・・うまく答えに繋がるか分かりませんが、ちょっと僕の昔話をしても良いですか?
長谷
ぜひ、お願いします。
鞍田
僕はいま哲学を専門としているのですが、高校まではまったく哲学に興味がなかったんです。当時は英語が好きだったので、なんとなく外大で外国語を学ぶものだと思っていました。
長谷
そこから、どうやって哲学に出合ったのですか?
鞍田
高校から家までの帰り道にある、駅前の本屋さんがきっかけでした。最初はふと見かけて気になって入ったものの、置いてある本が難しそうなものばかりで、すぐに店を出ちゃったんですけど。ただ、店の雰囲気に惹かれたのか、その後もなんだか気になってしまって、何度か通っていたんですよね。
そしたらある日、店主のおっちゃんが「この間も来ていたよね、よかったら珈琲でも飲む?」と声をかけてくれたんです。制服で出入りしているのは僕くらいでしたから、面白がってくれたんでしょうね。店主さんは大学で哲学を専攻されてて「地元(兵庫)の出身者にも哲学者がいるんだよ」と紹介しつつ、和辻哲郎の『風土』っていう本を貸してくれたのが、今の専門に進む入口になったんです。渡されたのは、箱入りのハードカバーで、「これが哲学書か」ってドキドキしながら手にしたのを覚えています。
長谷
ちょっと気になって入った、というのがまさに「直観」ですね。
鞍田
直観っていうほど大げさなものでなく、むしろ「直感」かな。いずれにせよ、よくできたストーリーみたいに話せているけど、本当にたまたまなんですよ。若者なりにウジウジもしていたし、そんなに気さくに人に声もかけられない時期でもあったし、借りた「風土」もチンプンカンプンだったし(笑)。でも、その「たまたま」を呼び込んだのは、自分の行動だった。
気になっていた対象に触れてみても、一回目は得るものがなかったり、よくわからなかったりすることって多いじゃないですか。それでも「やっぱり気になる」という気持ちが少しでも残っていたら、二度、三度とアプローチしてみるのが、けっこう大事なのかもしれません。
長谷
一度で見切りをつけないで、繰り返し当たってみると。
鞍田
そうすると、状況の方から寄ってくることがあるんですよ。積極的にアクションしたわけじゃないけど、店のおっちゃんが声をかけてくれたばかりか、椅子を出して話を聞いてくれたり。一度読んで分からなかった本も、二度目は不思議と言葉が頭に入ってきたりね。
長谷
状況に寄ってきてもらう「コツ」なんてあったりしますか?
鞍田
うーん・・・・・・「まず、愛せ」なんてどうでしょうか。
長谷
えっ、愛、ですか??
鞍田
先日フランスの思想家パスカルの『パンセと小品集』という著作でこんな言葉を見つけたんです。「人間のことは愛する前に知らなければならない。信仰など神にまつわることは知るためには愛さなければならない」って。なんだかこの一節が、すごく心に残っていて。
長谷
何かを愛したら、世間の評価ではなく我がことのように観るような気がします。周りの目を気にせず、何度も出会いにいったりしそうです。あと、鞍田さんがよく使っている「いとおしい」や、昨今では推しに使われる「尊い」という表現なども、今の「愛せ」のニュアンスに近いのかなと感じました。
鞍田
そうですね。漫然とガラスケースの向こうにあるものを冷ややかな眼差しで見ていても、多分「いとおしさ」は生じにくいし、あっても気づきにくいと思います。愛することに合理的な理由はないのと同じように、こだわりにも他社に説明できるような理由って、本当はなかったりするのかもしれません。
人間で"いる"ことから離れる、"ある"時間の幸せ
長谷
こだわりの方向性として「周りと競争を厭わず、とことん突き詰めてトップを目指す」といったあり方も素敵で、それができる人は素晴らしいなと思います。ただ、僕はそれが性に合っていなかったようで。目標や目的を定めすぎると、その達成のために「やるべきこと」で時間を埋めてしまって、結果的にしんどくなってしまったんですよね。
鞍田
昨日、僕もボードメンバーを務めている「庭プロジェクト」の研究会があって、そのグループワークで一緒になった若い人も似たようなことを話していました。「空いている時間があると、何かやらなきゃと不安になって、テトリス的に予定を埋めてしまう。そうやって忙しくしているのが、しんどくなってきた」と。
その彼は最近、休みの日に電源を切って、時計を一切見ないでひたすら部屋の掃除して過ごしているんだそうなんです。SNSやネットからも離れて、家事に没頭する時間が心地よいのだとか。
長谷
その気持ちはよくわかる気がします。
鞍田
そうした状態って、人間が”物(もの)化”していわゆる「ある」時間なんですよね。
長谷
「ある」時間ですか?
鞍田
人や物の状態は、大きく「いる・する・ある」の3つに分けられます。「いる」「する」というのは主に人間の状態ですが、「ある」は物の状態を指しています。
何かに夢中になっている時、いろんなことから解き放たれて、自分のことも忘れてしまう。すなわち、人間でいることから離れて「ある」状態になっている。これは福祉施設を運営している妻の持論でもあるんですが、僕も密かに、人間ってこの「ある」状態になっている時が、雑念にとらわれていなくて、一番ハッピーなんじゃないかと思っているんですよ。
長谷
僕も焙煎に集中していると、我を忘れて6時間くらい経っていることがあって(笑)。でも、その時間を「もったいない」などと感じたりはしないし、終ったあとは不思議と充足感に満ちているんですよね。こだわりは、暮らしの中に幸せな「ある」時間を生み出す行為、という捉え方もできそうです。